針
キタハラ
針
ドアを開けると、なんにもない部屋のまんなかで、女がコンビニ弁当を食っていた。
なんで? とぼくは呆然と立ち尽くした。
女のほうは、僕に驚きもしたが、箸を止めることはなかった。
「ええと、誰ですか?」
僕は女に訊ねた。
そもそも不動産屋が、用事があるから一緒に行けないんで、とりあえず見てきてくださいよ、春まで働いてた事務のおばちゃん辞めちゃって、俺ワンオペなんで、と部屋の鍵をぼくに渡した。そんなことってあるか? とぼくが渡された鍵を眺めて途方にくれていると、その不動産屋は「ああ、ここのオーナーとうち、ツーカーなんで。それにお客さん、べつに持ち逃げとかしないっしょ。そもそも犯罪だし。ていうかお客さん、慎重そうだし、なんつーか、闇バイトとか商材がどうとかネットワークビジネスとかにひっかかる感じじゃないし。いやいや、褒めてるんですけど。でしょ? 手堅い仕事してるのは前から知ってるし」とつらつら述べた。
僕はいまのアパートを借りた時は、こいつのけっこう生真面目な父親が経営していたが、この息子はやばい、次の部屋はよそで頼んだほうがいいかもしれない。
そしてこの状況である。
この女はなんなんだ。空き家で弁当を食っている。床には紙パックの牛乳もある。窓が空いていて、風のせいかくしゃくしゃになっているコンビニ袋があちこちに動き回っていた。
結局女は弁当をたいらげ、牛乳を飲み干してから、やっとぼくのほうを向き直った。
「あなた、シンジの友達?」
「どのシンジですか」
ぼくの親しい友人に、シンジなんていない。いや、そもそも内見の空き部屋にいた女だから、前の住人のことをいっているんだろうか。
「シンジって、前に住んでいたひとですか?」
ぼくはいった。
女はぼくのことをじっと見た。それはもう、ぼくの内部を見つめているみたいに思えた。
「前に、っていうか、いまもここに住んでいるじゃない」
「いや、どう見たって空き部屋、ですよね」
「ああ、そうか、見えないのね」
「幽霊的ななにか、ですか」
最悪だ。あの不動産屋、よりによって事故物件かよ。いや、そもそも、女がいるほうがおかしい。
「鍵、持ってるんですか」
どうやって入ったんだ、この女。この部屋は4階だ。まさか壁をよじ登ってきたわけでもあるまい。
「そんなもの、必要ないわ」
「いや、なにいってんだあんた」
ぼくはスマホで不動産屋に電話した。呼び出し音が鳴るばかりだ。どこにいってんだ、あのバカは。
「あなた、ここに住むの?」
女がいった。
「いや」
すっかりそんな気は失せた。さっさと退散しよう、と思った。ぼくは昨日ネットで調べた内見チェックリストを思い出した。多分、前の住人の知り合いが粘着しているか、なんてことは書いていない。
「そう、ここ、わりといいのよ」
女はいった。トイレとお風呂別だし、風水的にも優秀で、壊れたところはないわ。それに、窓から遠くに見えるスカイツリーがなかなかいいのよ。
ぼくは部屋にあがり、奥の窓まで向かった。
たしかに、遠くのビルの向こうに、針を立たさせたみたいなスカイツリーが小さくあった。
「なんかいいでしょう。ちょっとでも触れたら、すぐ倒れそうで」
女はぼくの背中に声をかけた。
部屋から見えたスカイツリーは、耐えているように見えた。
「たしかに。でも、やめときますよ」
ぼくはいった。
「なぜ」
「なんとなく」
「あそこ、事故物件なんだろ」
ぼくは不動産屋に訊ねた。
「は、なに、クレームすか。んなわけないでしょ」
「誰か死んだでしょ」
「入居者は死んでないっすよ。ていうか人はだいたい死ぬでしょ」
「答えになってない」
ぼくが詰め寄ると、不動産屋はいった。
「あの部屋で誰も死んでないですよ。ただ昔、部屋の住人の恋人だか愛人だかが、部屋で自殺未遂起こして、それを見つけた住人が救急車呼んで大騒ぎになったみたいだけど、部屋では死んでないし」
ということは、病院で結局死んだんだろ、とまではいわなかった。
「なんか幽霊でもいました?」
不動産屋が険しい顔で訊ねた。それから二人ばかし人が住んでたけど、そんな苦情なかったけどなあ。
結局ぼくは、べつの部屋を借りた。
しばらくして、あったかくなった頃、商店街を歩いていると、アイスを食いながら歩いている女がいた。
あの部屋にいた女だった。
わりと楽しく過ごしているみたいだった。女はぼくに気づかず通り過ぎていった。
シンジを探しているのかもしれないけれど、病的でもなく、そこそこ楽しそうだった。生きているやつよりもよっぽど。
部屋で自殺未遂をしたのは、男だったという。
女も死んで、死んだ男を探しているのかもしれなかった。
幽霊なんて、どこにでもいる。生きているやつのほうが、幽霊みたいだ。
ぼくの今住んでいる部屋からも、スカイツリーが見える。しかし、あのとき見たような風情はない。
針 キタハラ @kitahararara
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