晴天を誓って

八四六

【一】

都に雨の降るごとく

わが心にも涙ふる。

心の底ににじみいる

このわびしさはなんやらむ。


大地たいちに屋根に降りしきる

雨のひびきのしめやかさ。

うらさびわたる心には

おお 雨の音 雨の音。


ヴェルレーヌ

《都に雨の降るごとく》













晴天を誓って













 雨は嫌いだ。


 湿度の上昇は頭上の髪を暴れださせ、靴の内側は自身の怠惰な感情を露わにし、同時に物干し竿に縋る輪郭が、よぎる。そんなことは誰にでもあることだとは思うのだけれど、僕はそれ以上に今まで雨というものからないがしろにされていると言っても過言ではない程に被害を受けている。火の粉が降りかかる様に感じるくらいに。

 小学生の頃、遠足で動物園へ行ったものの急激な雨雲によって外の自由行動が無くなり、中学の時は雨天時の落雷によってやり込んでいたゲームのデータが全て消え、去年行った祭では綺麗な雀色時すずめいろどきにも関わらず、その後に夕立どころか土砂降りの雨が降り続ける始末である。

 もちろんこれだけではなく実際にはもっと、傷口に塩を塗るような体験をそれとなくしている。話せば話す程辛い記憶が息を吹き返し、動く屍がいつまでも這いずり寄ってくる感覚にさいなまれる気がするのだが、唯一忘れてはならない記憶がその中に含まれている限り、雨を嫌うことは自分にとって務めるべき事柄だと今も思う。

 その発端は、自分がまだ小学四年生の頃のこと。


 近所に住んでいた幼馴染のしずくは、物心が付くまではよく一緒に遊んでいた友達だった。物静かという訳ではないけど、いつも周りには友達がいて、たまにみんなとはしゃぎだす。明るいというよりは穏やかという表現のほうが近い、同級生の女の子だった。

 そしてもう一人、白に黒い柄の入ったまだら模様のあの野良猫。幼稚園に入園した辺りから突然ここに姿を現すようになった彼は、妙に白長くげんの様に張ったひげたずさえていたことから「ヒゲさん」と呼ばれていた。人懐ひとなつっこい性格のヒゲさんは近所のスター的な存在だ。親に怒られて家出した時は公園の隅で寄り添ってくれたし、自分達が喧嘩してお互いかかと二つで下校していた時も、まさに仲介ちゅうかい役としてほころびたひもを固結びにしてくれた。それによって自分達は前よりも更に仲が良くなれた気がする。人間でもなければ着ぐるみでもないけれど、掛け替えのない先輩であり親友だった。


 しかし、運命は僕達の固く結んだ紐を許してはくれなかったのだ。


 久しぶりに踵を四つ並べて帰路を辿り家に到着し、ただいまとおかえりを交わした直ぐ後に、残念そうな顔をした母の口が開いた。「おかえり」のトーンがなんとなく何か良くないことの起きる前兆を物語っていた気がした為、自然と覚悟をした。

 連日、夜中に少しだけ隠れて3DSをしていたこと?トイレットペーパーを転がして適当に巻き直したこと?昨日の体育で体操服を汚しすぎたこと…それとも…

 母の口が開いたとき、それはあまりにも予想だにしない言葉が耳に飛び込んできた。

 「悲しい話なんだけどね、野良猫のヒゲさん、今日のお昼に起こった交通事故に巻き込まれて、死んじゃったみたいなの。」

 僕の覚悟という名の壁は呆気あっけなく崩壊し、それから母が何を言っているか理解するのに少し時間がかかった。

 聞くには、今日の午前11時半くらいのころ、家の裏側、通っている小学校の通学路から逆のほうから、大きな物音と同時に何かが割れる音がしたらしい。母は掃除機をかけていたため少し経ってから様子を見に外へ出た。音に気が付いたのか、近所の太田さんも外に出ていて、太田さんにまず話を聞いたらしい。「事故があった、幸い人身事故ではないけれど、よく見る野良猫が……」そして母は、それが虫の知らせだと、不意に察した。恐る恐る現場に向かい、そこにいた人たちに聞くと、真っ先に僕たちの顔が浮かんだ、という。

 僕は真っ先に母を否定した。

だってあいつは僕達の紐帯ちゅうたいとなってくれた大切な存在で、そのおかげで今日も自然と雫と話すこともできた。そんな矢先に急過ぎる展開が待ち受けていたなど誰が予想するだろうか。これじゃあどんな舞台監督でも思いつかないであろう正に残酷な"おしまい"じゃないか。こういう終わり方を、この前ドラマを見ていた父に教えられた気がする。なんていうのか忘れてしまったけど、きっとそんなものよりも、よっぽどこっちのほうが最悪な終わり方だと思った。

 ランドセルを置き、手洗いうがいをした後の洗面台の鏡に映った僕の顔は未だに覚えている。

 あの毛並みも、あの髭も、あのがらも、あの鳴き声も、まだ僕の中で生きているのに。いや、彼はまだ、生きている。


 気分が落ち着いてから、僕は最後に彼に花を手向けようと商店街にある生花店におもむくことにした。いつの間にか空は灰色に塗れ、雨がしとしとと降っている。商店街はすぐ近くあるが、このまま激しい夕立に変わるのを恐れて、傘を差して足早で向かった。

 家を出る前に母が「お金、出そうか?」と言ってくれたが自分のお金で買った方が自分の弔意ちょういを示せるし、それらしいと思った。(また親から貰ったお年玉だから、可愛がってた親の気持ちも多少はあわせられるから良いと思った。)

 生花店に着き、白い菊が五本入った花束を自分のお小遣いで買い、事故が起きた場所へ向かう。少しだけ傘に雨が当たる音が強くなり始めたのを感じ、花を濡らさぬよう胸元に抱えた。事故の現場は南山公園沿いの道路にあるカーブミラーと電柱のある場所辺りらしい。そこへ行ってみると、明らかに車が衝突したようなぐにゃりと曲がった脚の、鏡にひびの入ったカーブミラーが首を傾げ突っ立っていた。その足元にヒゲさんはいたという。現場を目の当たりにすると、ああ、本当に事故があったんだなと、ほんの少しだけ残っていたヒゲさんが生きているという望みは呆気なく消え失せてしまい、泣きそうになってしまった。

 泣くのを我慢し花を置こうとそこに近づくと、誰かが電柱の裏で水色の傘を差して屈んでいることに気が付いた。それはよく聞き覚えのある声で、はなすする音と同時に横隔膜が痙攣けいれんを起こしひっくひっくとむせび泣いている音が聞こえてくる。

 そこに居るのは紛れもなく雫だった。

 「あ、瑠郁くん…」

 屈んだままで振り向いた雫は直ぐに目を下に逸らし顔を俯かせた。一瞬だけ見えた若い桜桃さくらんぼの様に赤い鼻と限界まで潤った眼になれば、誰もがそうするだろうと思えた。

 僕はそれから君を無理に話させないように口を結んで静かに隣に屈んだ。君の前には雨で濡れた白い菊の花束が置かれている。僕はその隣に抱えていた花束を置き、そっと不慣れな手つきで合掌し目を閉じた。

 「今までありがとう、最後まで一緒に居られなくてごめん。」

 と、心の中で伝えた。もっと色々なことを彼に届けようとしたが、実際にこの場面に差し掛かってしまうと死んでしまったことをやっぱり信じたくなくなり、同時に何も考えたくなくなってきてしまった。自分の中でまだ生きている友人を殺すように感じてしまい、またそう思ってしまうことが心憂こころうく覚えて、辛い。

 あれから何分かが経った。ずっと目を閉じていると周りの音がより大きく聞こえてくる錯覚を覚えるようになった。

 いや、それはまったもって錯覚ではなかったのだ。

 そっと目を開いても傘を叩くように雨はざあざあとしきりに降り続けているし、左隣で両手を顔に押さえつける君はえんえんと滂沱ぼうだしている。

 そこまでされてしまったら、我慢していた僕の涙も抑えられるはずがなかった。視界に映る色が混ざり合うと、雨でびしゃびしゃになっている白い菊に泥が少しねているのがどうしても彼に見えてしまった。


 夕立が通り過ぎ始め、僕達の涙も止まりかけてきた頃合で立ち上がり、帰ることにした。君の鼻はまだ赤いままで、未だに洟を啜る僕もきっと同じ様な赤っ鼻なんだろうなと思った。

 歩いて揺らぐ傘にぽつぽつと雨が降るだけの中、君は口を開いた。

 「私聞いたんだけどね、この交通事故、雨で車がスリップして起きた事故だったみたいなの。今日の午前中にいっぱい雨が降ったのが原因だって。近所の人がそう言ってたってお母さんが言ってた。」

 「そうだったんだ。」

 「うん。」

 もう少し話を広げればよかっただろうか。君は悲しげな顔を下に向かせ、また洟を啜る音と雨が傘に当たる音だけの空間が訪れる。そこでどうにか場繋ぎしようと次は僕がちょっとだけ無理矢理に口を開いた。

 「やっぱり、雨って大嫌いだよ。いつも悪いことばっかりだし、もう降ってなんか欲しくないよ。」

 と、ちょっと強めに僕の今の気持ちを正直に声に出した。きっと君もこれには共感してくれるだろう、そう思った。

 けれど、何故か君の静かに洟を啜る音はやがて嗚咽おえつへと変わり、更には泣き声が漏れ出すようになり、顔を下に向けてしまった。

 そして消え入りそうな声で何かを言って、急に何かを思い出したのか、僕が意にそぐわないことを言ってしまったのか、そのまま君は走り去っていった。

 矢庭やにわな出来事だったので僕は思わず立ち止まった。

 少しずつ大きくなる雨の音に気が付くと、帰宅を促されているように感じて、再びゆっくり歩き始めた。急かす様な雨は徐々に傘に当たる音を大きくしていく。仕方なくやりきれない思いが募ったまま走って帰ることにした。

 恐らくあの時、雫は「ごめんね。」と言っていた気がする。

 帰り道で、父に"カタストロフィ"と教わったことを今になって思い出した。これがカタストロフィなのだとすれば、きっとあのドラマはあまり面白くない。


 それからその雨が止んだのは次の日の朝のことだった。


 僕達の時間は特に変わりなく順調に流れていった。あの日の翌日はさすがに気まずかったけれど、時間という仲介役も、彼に匹敵するものだった。

 一緒に登校できる日は一緒に登校し、一緒に遊びたいと時は一緒に遊び、一緒に下校したいときは一緒に下校した。

 変わったことと言えば、時間の経過と反比例してその時間が少なくなっていったことと、雫があれ以来泣かなくなったこと。涙ぐむことは多少あったが、そうしたら彼女は「私、泣いちゃだめだから。」という言葉をいつも口にして、僕が見ている限りは涙を流したことはもうなかった。

雫は小学六年生の時に家の都合で隣町に引っ越すことになり、中学は別々の学校に通うことになった。その時泣いていたのも僕だけで、なんだか情けなくなってしまったのを今でも覚えている。

それ以来、彼女とはほとんど連絡をも途絶えてしまったのだった。



 あれから三年の月日が流れた。無事に県立の志望校に合格、春からは高校生として生きることとなった。



 入学式当日、学校に着くと昇降口に溢れんばかりの人が集まっていた。クラス分けの書かれた張り紙が昇降口の壁に一枚だけ貼られていて、そこに近づけば近づくほど鬱陶うっとうしいと感じる密集具合だった。なぜ張り紙の数と掲示場所をもっと増やさないのか不思議である。

 やっとのことで張り紙の見える位置にようやく辿り着いた。こういう時に限って、少し遠い場所からでも物が見える視力で良かったと感じる。

 左から順番に一から八のクラス名簿が並んでおり、自分の苗字は柊(ひいらぎ)である為、ハ行の位置する真ん中から少し下に掛けての範囲を左から右へと目を通した。

高島、照橋、富沢、中島、中野、野田、早川、不破…

一組は違う。

二組…ではない。

三組…でもない。

四組…にも名前はない。

なかなか名前が見つからず、ほぼ開けっ放しにしていた目が乾き始めたのを感じながら五組に視線をずらした、次の瞬間だった。


 竹内


 その苗字が咄嗟とっさに瞼を押し上げた。自分の名前の様に見覚えのある苗字だったのでそれに驚いただけならまだしも、名前さえ見覚えのあるものだった。


 「瑠郁君」


 突然隣から自分の名前を呼ぶ声が雑踏ざっとう響動どよめきの隙間から降り注いだ。それはとても懐かしく、心地の良いトーンが、木々の葉へ雨がしたたるかのように微かに震わせる。

 「クラス、同じみたいだね。」

 全てが急過ぎて何も言葉は出ず、適当にうなずいた。そしてクラスが同じだということを知った。もううなずくことさえできそうにない。周りのざわめきしか聞こえなくなった時は辛くない地獄と楽しくない天国の狭間はざまにいるような感覚だった。

 それにわずらわしさを覚えたのか、

 「…じゃあ、またね。」

 とだけ言い残し、こちらへ小さく手を振って、友人らしき人達のいる下駄箱へ向かって言った。突如として吹き荒れた通り雨を感じる出来事だった。数秒程、唖然あぜんとした脳裏は動きを止めてしまっていたが、君が言っていたことを途端に思い出しそれが引き金となって動き出した。

 驚愕きょうがくによる間違いかと、五組の下の方をよく見つめると、その一瞬、寝耳に水を食らったお陰で荒んでしまった自分の名前が、枯渇し果てた眼に映った。


 竹内雫は、今日から同じ学校の同じクラスにいる。


 入学式から二ヶ月が経ち、今に至る。

 雫と同じ教室で過ごすことになったことで、互いにいとけない頃を知り合っている為か、ちょっとだけ距離感を感じるようになってしまった。それになんだか未だに縁があるようで、最初の席替えで席が隣になったり、出席番号で並んで受ける授業では順番的に丁度グループが同じになったりとで、どうしても意思疎通を図らなくてはいけない状況になる。だからといって避ける訳にはいかないし、とりわけ避けようとも思わないので構わないのだけど、その時に生まれる微量のどぎまぎや、緊張によって頬に浮かぶ含羞がんしゅうの色具合が、周りから見たら恋心から生まれたものだと度々勘違いされている。クラスの男友達には新郎夫婦とか青春の権化ごんげだと揶揄からかわれ、更には部活の先輩に彼女と間違われる。それに、雫が女子の友達と話している時に僕の名前がふと聞こえると、それに対して困ったような素振りをしているのを見ると申し訳ない気持ちになってしまう。


 僕らはただの幼馴染であることに変わりは無い。


 決してその似合い過ぎるセミロングの髪型や、猫の様な硝子球がらすだまを瞼に包み込んだ瞳、不意に異性として感じてしまう身長や大人びていく身体つき、すれ違うと鼻を通ってしまう形容しがた馥郁ふくいくとした香りに惹かれる、なんてことは決してないと、そう言い切りたい。


 ただ最近、意識がそっぽを向くように、妙なことを感じてしまうのに対して気づかないふりを続けていた。

 これが幾重にも色々な人から揶揄われたり間違われたりすることによるただの暗示なのであれば、今からでも信じたい。けれど、もう既に、背は腹に代えられなかった。


いつからか雫を意識し始めてしまっているなんて、馬鹿らしく思う。





【二】へ

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