となりを走る人

etc

第1話

 伴走者には三分以内にやらなければならないことがあった。

 パラマラソンにおいて全盲者Class T11は伴走者を必須とする。


 その名の通り伴って走り、ランナーの安全を確保しながら周囲の情報を伝え、さらにタイムを管理するのが伴走者の役割だ。


「ハルカ、もっと自分のペースで良い」


 やや先を走る少女へ指導リードする。

 半年前の9月までインハイでマラソン県代表選手だったからペース配分はばっちりだ。


 なのに返事がない。


 気になって一瞥すると、こちらの目線の少し下で、一房の束になった黒髪が一定のリズムで跳ねている。


 聞こえないのかと思って声を掛けようと息を吸ったその時、ハルカの「スッスッ、ハッハッ」と規則正しい呼吸音が一瞬よどんだ。


「カナタ、あと何分?」


 イラッとした声が飛んでくる。

 双子の姉だ。盲目の姉は、たぶん五体満足な自分を恨んでいる。


 両親がマラソン選手の家に産まれた双子は、全盲で産まれてロクに走れない16歳の少女ハルカと、才能を引き継ぎ将来のメダリストと噂される16歳の少年カナタとに育ったのだ。


「ねえって」


 ハルカに急かされて、日焼けした腕に付けたスマートウォッチに目を向ける。10時57分、つまり残り3分だ。


 パラといえどもマラソンは制限時間内に関門を越えなければ足切りされる。

 つまり、ハルカはこの大会で最後尾の走者である。


「だからタイムは気にしなくていいって」


 いま自分たちは東京マラソンの第二区間、神田神保町と秋葉原電気街の間を走行中だ。

 関門の末広町駅まで残り500メートルという距離にある。

 ただ、その距離がどれほど無謀か、ハルカは分かってないのだ。


「うっさい、いいから教えろ。弟でしょ」


 上から目線の言い方に堪らずカチンとくる。

 双子なんだから対等だろ、と言い返したくなるが、我慢する。

 あくまでパラマラソンの主役は走者だ。伴走者はサポートに徹しなさい、というのが両親の命令である。


「……残り3分だ」


「はぁ!?」


 ハルカが身動ぎをしたことで、二人の間をつなぐきずながビンと張った。

 きずなは障がい者ランナーと伴走者が軽く握り合うゴムロープだ。

 それが張るほど距離が開く。


「関門は近いの?」


「もう間に合わないよ」


「うっさい! 早く、ほら!」


 きずなを引っ張られ、上体が揺れる。

 渋々と声を出す。


「……500メートル」


「へえ、いまのペースじゃ間に合わないわね」


「だろ? だから諦めよう。ハルカはよく頑張った」


「うっさい!」


 まるで犬のリードみたいに引っ張ってくる。

 張り切ったゴムが縮まる反動でカナタの体がハルカに衝突した。


 転ぶ……!


 そう思った時、ハルカがカナタの体にしがみついてくる。

 重心が狂った二人の身体はアスファルトに投げ出されてしまった。


 アスファルトのゴツゴツとした熱が二の腕に伝わる。

 まだ3月なのに今日は日が照っている。

 のんきにビルの間から見える青空を仰いだ。


「カナタっ!? 怪我してない?」


 悲鳴のようなハルカの声がして、カナタの顔に冷たい手が当たった。

 顔の真上から覗き込むようにハルカの顔が来た。

 ただしハルカの月のような瞳はカナタの目には合ってない。


「してない。ていうか、なんで走者が伴走者の心配してんだよ」


「私は転び慣れてるもん。それに」


「それに?」


「いまのは私が悪かったわ、でも」


 ばち、とカナタの頬をハルカの両手が挟み込む。


「『よく頑張った』なんて言うな!」


 耳をつんざく大声だし、ツバが鼻先に飛ぶし。

 なんで怒鳴るんだ。うっさいのはどっちの方だ。

 ハルカはカナタそっちのけで体を起こし、きずなを再び犬のリードみたいに引っ張る。


「まだレースは終わってないじゃん! 行・く・よ!!」


 横暴な態度の姉を睨みつける。

 ハルカはすぐキレるから嫌いだ。

 そもそもこのパラマラソンだってハルカのワガママで始めた。


「……いやだ」


 ぽろりと本音が漏れた。

 ああ、ダメだ。言ってはいけない。

 頭では分かっているのに、カナタの口は止まらなかった。


「ハルカばかりズリィじゃん。俺ばかり走らされてさ」


 泣き言みたいな情けない声が溢れてくる。


「それは父さんも母さんもマラソン選手だったから、子供をメダリストにしようって思ってたんだって」


 知ってる。

 産まれた双子の姉は、全盲で産まれたから、そのしわ寄せが弟に来た。

 とは言えないけど、もはや言ってるのと同然だった。


「俺はやれるだけやったよ。筋トレも食事制限もしたし、遊ぶ時間もマラソンに費やした。高1で県の代表選手にだってなれた」


「そうだね」


「でも、もう走るのは嫌いになったんだ」


 インハイ当日、スタートピストルが鳴った時、走り出せなかった。

 ただ一人、スタートラインに足が根付いたみたいに動けなくて、吐いた。

 そしてランナーをやめた。なのに。


「なのに、その次の日だ。ハルカがパラマラソンをやりたいと言い出したんだ。こんなの当てつけだろ!」


 大声で怒鳴る。ハルカと同じくらい大声を出した。

 ハルカのことが嫌いなのは、すぐキレるから。

 そういう所が自分とそっくりそのままだから、嫌いなのだ。


「ちがうよ。だったら伴走者にカナタを選ばない」


「ちょっと待て。お前が俺を選んだのか? 親じゃなくて?」


 親が自分を走らせるために伴走者に選んだのだと思っていた。

 インハイが終わってからこの半年、嫌々ハルカの伴走者をやったのだ。

 だが、目の前のハルカがきょとんと首をかしげた。


「そうだけど?」


「いや、なんで? だって、ほら、俺が気に食わないからとか」


「ないよ」


 嘘だ。

 ハルカがどれだけ生きるのに苦労してるのか知っている。


 アニメのキャラクターの形はフィギュアを触らないと分からないこと。

 家じゅうの角という角にクッションが貼られていること。

 ぎこちない表情を他の子供に笑われていたこと。


「だって俺、ハルカと話す時はいっつも大会で一番だったとか自慢ばかりだったんだぞ」


 マラソンの練習ばかりで、ほとんどハルカと話してこなかった。

 話す時は決まってマラソン大会の後、家族で外食する時くらいだ。

 いつもハルカは自分を褒めてくれたが、双子を差し置いて自分だけ進んでいるのが複雑だった。


「そうだったかもね」


「ハルカは何で急にマラソンやりたいなんか言い出したんだよ」


「カナタが教えてくれたんじゃん。マラソン楽しいって」


 あの自慢話がそうだって言うなら、ハルカがカナタを恨んでいるなんてこと、絶対に有り得ない。

 ならば当てつけというのは勝手な思い込みだったのだ。


「だから私、となりを走る人はカナタが良いんだ」


 ハルカは毒気の抜けた顔をしていた。

 サングラスを拾って月の瞳をレンズの下に隠す。

 もう姉との間にわだかまりなんて無くなったのだ。


 それでも心に刻まれた傷が消えてくれることはない。

 苦しくて辛くて疲れて一位になったとしても、報われた気持ちにはなれなかった。

 でも、でも。でも。


「ごめん、走ろう」


 ハルカのために走ろう。

 腕時計に目をやると、もう残り2分を切った所だ。

 きずなを強く握りしめると、ビンと張ってゆっくりとたわんだ。


「ハルカ、こっちが前だ」


「分かった。行こう、カナタ」


 ハルカの小さい肩に手をやって、道の先へ向かせる。

 彼女はまっすぐに走り出す。


「ハルカ、5秒後、左に90度」


「うん」


「見えた!」


 万世橋の先に用意されたランナー用コースが一直線に伸びる。

 秋葉原の電気街らしいビル広告が並び、歩道にはマラソンを応援する人の影も見られた。

 その先に関門、末広町駅前交差点。


「カナタ、全力疾走でいく」


「わかった。ついていく」


 川の匂いがする。

 神田川を越えた。


 ガタンゴトンと頭上が騒がしい。

 高架線をくぐった。


 ゲームのBGMが左耳にだけ聞こえる。

 ゲームセンターを通り過ぎた。


「ハルカ、5秒後、斜め左!」


「スッ、スッ、ハッ、ハッ」


 右側でハァ、ハァ、ゼェ、ゼェという声が聞こえ、後ろに流れていく。

 ランナーを追い越した。


 後ろから「ちくしょー!」と嘆く声が届いて、遠ざかっていく。

 ランナーを抜き去ったんだ。


 ドク、ドク、ドクと頭の中で鳴っている音がある。

 心臓の鼓動が次第に高鳴ってくる。


「ハルカ、5秒後、斜め右!」


「スッスッ、ハッハッ」


 シューズがつるつるした面を、一定のリズムで踏む。

 横断歩道だ。


 右側から「もうすぐだぞー!」「あと30秒!」「いけぇー!」とたくさんの声。

 たくさんの雑踏。たくさんの気配。たくさんの応援。


「ハルカ、残り30秒!」


「スッスッハッハッ、ハァッ」


 前のめりになる姿勢に合わせて姿勢を低くする。

 ハルカの横顔に並んだ。顎がクイッと動いたのを見逃さない。

 目が見えていないはずなのに、カナタにはそれがアイコンタクトだと明確に分かった。


「ハルカ!」


 スッ! ハッ! とハルカの呼吸が大きくなる。

 肺機能がキャパオーバーを訴えてる。

 足の筋繊維がブチブチ千切れてる。


 関門の時計がハッキリ見える。

 黄色いデジタル時計は――10:59:50


「あと10秒!」


 残った距離は50メートル。

 50メートル走において高校一年生女子の平均タイムは約8.8秒である。

 しかし、それはあくまで個人技。


 伴走者をともなうパラマラソンでは、二人の息を合わせて走らねばならない。

 もしも片方だけが急に速度を上げようものなら途端に連携は乱れる。

 徐々にペースを上げるのが一般的で、どんなに早くとも合わせるまでに数秒を要する。


 つまり、時間切れ。

 だれもがそう計算するハズの時間と距離の単純明快な数式が、カナタの頭の中で弾けた。


「行ける」


「ハッ」


 ハルカが強く息を吐いて呼応した。

 加速。


 合わせるまでに数秒?

 一瞬だった。

 決して短距離向きではないロングステップで二人の速度が上がる。


 腕と脚が別の生き物のように言うことを利かない。

 でもそれを押し留めて。


 風が質量と粘性を持っているみたいに重たい。

 でもそれを押しのけて。


「残り3!」


 観客の誰か一人が叫んだ。


「2!」


 また誰かが叫ぶ。

 すると、今度はすぐさま大勢の掛け声が飛んできた。


 伴走者は走者より前に出てはいけないというルールがある。

 カナタはハルカと並ぶ。

 きずなを短く持ち、並走する。


「――!」


 カウントダウンの途中からカナタには何にも音が聞こえなかった。

 世界が眩しくって何にも見えやしなかった。

 熱を持った空気が体の周りにまとわりついているのに気がつく。


 大歓声が待っていた。

 雄叫びを上げる男、拍手を送る女、タオルを振り回す子供。

 みんなの瞳にハルカが刻み込まれている。


「ハルカ、やったぞ」


 この歓声が同情によるものではないことをカナタは直感していた。

 だれも「よく頑張った」なんて声は掛けない。

 勝者が得るのは「すげえ」とか「おめでとう」とか賞賛の声なんだ。


「カナタのおかげ、だよ」


 ふらりと糸が切れたように崩れる体を支える。

 カナタも限界に近く、支えた端からアスファルトに尻もちをついた。

 スタッフが慌てて駆け寄ってきて、ハルカはリタイアを伝える。


 誰も残念がる人は居ない。

 ハルカの体が担架に乗せられる時、観客たちの拍手が沸き起こった。

 カナタはハルカの手をにぎる。


「一つ変なことを言って良いか?」


「どうぞ」


「俺はまだ走れるみたいだ」


 ハルカがくしゃっと笑った。

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