第20話 Restless



「お悔やみを」

 そう告げた参列者が、彼女の棺に白い花を一つずつ手向けてはその場を後にする。

 静謐の中、花束で満たされた小さな棺に横たわる少女は、もう何も答えることなく、瞼を閉じたままだ。

 でも、眠っているわけではない。

 微笑むこともない。歩くこともない。やっと待ち焦がれた自由が訪れたというのに、もう何処にも行くことはない。

 榎島翠という少女はこの世界から永遠に失われたのだ。

 在るのは彼女の不在のみで、不完全な自分に寄り添っていた影が今はもうない。

 ぽっかりと空いた空隙を埋める手立てなど、そんなものはどこにもありはしないのだと心から悟るようになるまでどれだけの時を要するのか、春はまだ分からないままだった。

 病院や役所での諸々の手続きを終えた榎島朱美は気丈に振る舞い、喪主を務めあげていた。

 元主治医という立場上表に出にくいようではあったが、秋月侑陽も彼女を支えながら式に参列していた。

 翠の葬式は本人が生前に示した意向により、近親者のみで執り行われた。

 小さいながらも暖かなセレモニーになるよう、生前の翠本人が式次第を考えたのだという。その中にはなんと春の出番も盛り込まれていた。


「おれが死んだら、いつか安置室で話したみたいに、みんなにおれのことについて話して聴かせてよ。おれがどんなふうに産まれて、生きて、暮らして、死んだのか。春さんが想像して、春さんの言葉で」

「また、無茶を言って」

「でも、春さんにしか頼めないんだ。それくらいおれのことを知っていて、覚えているのは今のあなたしかいないんだから。ね?」

「……翠がどうしてもと言うなら、いいですよ」

「やった! うんと感動的なスピーチにして、みんなをぼろ泣きにしてやって」

「うう。そうやってハードルをあげないでほしいなぁ」

「春さんなら大丈夫だよ」


 奇妙な因果だった。

 翠と初めて出会ったのは他人の葬式で、別れを告げるのは翠自身の葬式なのだから。

 春はこれまでの数ヶ月、翠と過ごした一夏を振り返った。

 目まぐるしく忙しない季節を駆け抜けた日々。そのどれにも翠がいた。眩しさに瞳を閉じても、残像がちらついて離れない。

 春は朱美による喪主の挨拶の後、溢れ出す思いを言葉にのせて話をした。翠との恋を、翠と生きた時間の話を。

 台本も原稿も用意していない。ただありのまま、あったことだけを話すなんてことのないありきたりなスピーチ。誰かを泣かせようなんて器用な芸当はできない。春は榎島翠について、ただそれだけのことを語って聴かせた。そしてどのように彼女を送り出したいのかを告げた。

 途中で泣き崩れたのは朱美だった。それでも秋月の肩を借りて、彼女は最後まで懸命に春の言葉を聴いていた。



 最後の弔問客を見送った後のことだった。

 春が喫煙所で煙草をふかしていると、秋月が入ってきて、おもむろに電子タバコを吸いはじめた。

「……お医者様でも煙草、吸うんですね」

「そりゃあ、ふつうに吸うさ。女の子ひとり助けてやれないヤブだからね」

「そんなこと。秋月さんは手を尽くされていたと思いますよ。お医者様としても、ご家族としても」

 春の言葉に秋月はしかし顔を歪めた。

「は。知った口をききやがって。俺がこれまでどんな思いでやってきたか、翠ちゃんに何をしてやれたのか、してやるべきだったのかも知らないだろうが」

「……そうですね。すみません、軽率でした」

 春が首を垂れると秋月はがしがしと頭を掻いた。そうしてなにやら複雑そうな顔をしている。

「そう……いや、謝らなくていい。医者としての俺が俺自身を許せていないだけだ。こちらこそ、きつい言い方をして悪かったよ」

「いいえ」

「で、そっちは大丈夫なのか? けっこうひどい顔をしているから」

「そうですね、大丈夫ではないですけど……そのうちなんとか癒りますよ」

「そうか」

「そうですよ」

 沈黙。二人分の紫煙が上がる。やおら口をきいたのは秋月の方だった。

「春さんはこれからどうするの?」

「僕、ですか」

「翠ちゃんはもういない。それにきみは吸血鬼……特別な体質だと聞いた。このあと、どこへ行く? どう生きていく気だ?」

 その問いかけは春自身が心の内に抱いているものと同質であった。

 ルリを葬り、翠を亡くしてなお生きるというのか。そしてこの先、いったいどこへ行くのか。

「まだ、しばらくは札幌にいるつもりです。そのあとは……そうですね、もっと北の方へ渡ろうと思っています」

「そうか」

「心配ですか? 僕のような怪物が同じ街にいると」

「いやさ。喪失を抱えたまま長く生きるって、辛くはないのかなと思ってね」

「おっしゃる通り、辛いですよ。でも、それだけじゃないです。きっと僕はずっと寂しいままだけど、でもそれで翠がいなかったことにはならないから。喪失よりも大きなものをもうたくさん与えてもらったから、平気です」

「受け容れているんだな。グリーフワークはとっくに済んでいるってわけか」

 春の返答を聞き届けると、秋月はどこか穏やかな笑顔になった。

「よし。ギリギリ及第点、というところだ」

 いいよな、翠ちゃん――と秋月は小さく呟いた。

 春は意味がわからずに首を傾げて秋月を見つめた。

「春さん。翠ちゃんから鍵を預からなかったか?」

「え? どうして知って……」

「それ、病院うちの鍵なんだ。翠ちゃんからの預かり物がある。近いうち、都合のいいときで構わないから取りに来てくれないか。できればそうだな、夜間の方がいいだろう」

 秘密めいた笑みを浮かべ、秋月が春に頷いてみせた。

「……わかりました。近いうちにお伺いします」

 翠からの預かり物。それが何か見当もつかなかったが、受け取らない理由はない。翠がいた証になるのならなんでもいい。手にしたいと素直に思った。

「ちょっと! 男だけで密談ってわけ?」

 ようやく手が空いたらしい。朱美が喫煙室の扉を開けて入ってくる。

「そう、内緒話だよ。下ネタてんこもりのね」

「秋月先生はすごいエピソードをお持ちのようで。聞いている僕も卒倒するかと思いました」

「本当にばかばっかりね。こっちはお客さんもお坊さんも全員帰したところだ。ああ、肩が凝った。ふたりとも、今夜は飲むんだからね。精一杯わたしと翠を労いなさい!」

 ふん、と胸を張ってみせる朱美の目元は紅く腫れている。どこまでも妹想いの姉なのだと春は改めて実感した。

「朱美さん、その前にこれを」

 翠のノートを差し出すと、春は深く頭を下げた。

「長らくお借りしてしまい、すみませんでした」

「いいよ、平気だ。それで、進捗はどうだった。あの子の願い事は叶えられた?」

「……できることはやったつもりです。でも」

「でも?」

「もっとたくさん叶えてあげたかった。叶えるべきだった。もっと隣で笑っていてほしかった」

 ノートに書き込まれた翠の願い。それはなにも自分のことだけではなく、他人の幸福までを願い、祈る言葉も書き綴られていた。

 そして、最後にようやく翠が口にしたいちばん我侭な願い事。おれのことを忘れないで。あの言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 そうだ。もっとたくさんのことができたかもしれない。もっと多くの願いを叶えることが自分にはできたかもしれないのに。

 そう思うと限界だった。

「ちょっと、もう。泣かないでよ。こっちまで泣けてくるでしょうが」

「……すみません」

「また。謝らないの」

 そう言い合ってお互いに目元を拭う。やがて泣き笑いになり、先に顔を上げたのは朱美だった。

「涙は無し。むずかしいかもしれないけどさ、あの子を思う時には笑って思い出してほしい。わたしはそうする。時間はかかるかもしれないけれど、その方が絶対にあの子は幸せだと思うから」

「……はい」

 春が頷くと、朱美は控えめな笑顔になった。

「でも、ちょっとびっくりした。春さんは泣いたりしないんだと勝手に思っていたから」

「自分でも驚いているところです。僕でも泣いたりできるんだな、って」

「なに、それ。でも少しかわいらしいな。ちょっと、もう少しよく見せなさい」

「ストップ! 朱美さん、それ以上は浮気だよ。春さんも、このひとはダメだからね」

「それはご心配に及びません」

「む。ちょっと、今のどういう意味よ?」

 そこまで言って、笑い合う。すべては翠が結んだ縁だった。

 酒を飲むという朱美に付き合い、その夜を春は賑やかに過ごすことができた。

 翌日、火葬場までいくのは朱美と秋月のみだと言う。どの道、晴れていては春自身が外に出られない。だから最後の別れを済ませると、春は先に式場を後にした。

 冷えた肌が夏を惜しむように、その夜はもう涼しかった。

 からからと音を立てて日に焼けた落ち葉が足元を舞う。

 春は空を見上げた。月も星も遠く映えてみえた。秋の夜空だった。


  §


 九月半ば。

 夏日がだいぶ減った時節になってから、春は秋月医師に連絡を入れ、訪問の約束をとりつけた。

 秋月によるといくつか段取りをつける必要があるとのことで、相談の結果、月末の金曜日、二十二時に彼個人の研究室を訪れることで合意した。

 当日、日没後に起き出した春は忘れずに翠から預かった鍵を外套のポケットにしまい、家を出た。秋月とそれに朱美への手土産をススキノの複合型商業施設で見繕って購入すると、指定された時刻が近づくまでコーヒーショップで時間を潰して過ごした。

 そして約束の時間の五分前、翠が入院していた〈札幌エルム総合医療センター〉の裏口へと足を踏み入れた。

 以前のように内緒で夜間の病室に忍び込んでいたときとは違い、今日は正式に招かれた客である。夜間入り口で守衛に簡単な用向きを告げ、入館証を受け取るとエレベーターを使って秋月の研究室がある六階へ上がった。携帯端末を確かめれば時刻はちょうど二十二時を示していた。

「悪いね、夜分に」

 尋ねてきた春を秋月はいつもの柔和な笑みでもって迎え入れた。

 秋月はワイシャツの上に白衣を羽織った姿で、髪は丁寧に後ろに撫で付けてあった。それに今日は黒い縁の眼鏡を掛けている。医者としての姿を初めて見た春にとっては少し畏怖をいだかせるような出立ちであり、それでいて新鮮なようにも感じられた。

「昼間は普通に仕事をしていたものだから。そっちの椅子にでも座ってくれよ」

 秋月が示したのはローテーブルの前に置かれた応接用の二人掛け椅子であったが、半分が書物や論文雑誌ですでに占領されていた。春はそれらの書類の山を崩さぬよう、遠慮がちに反対側に腰掛けた。

「すごい数の本ですね。それに論文、ですか。文献もいっぱいだ」

「仕事と趣味が一緒くたになっているだけさ。それに半分はゴミ箱行きをさぼって放置しているだけ。誰かが適当に片付けてくれればいいんだけれどね」

 秋月はそう言って肩をすくめて見せる。春は場違いにならない程度に微笑み返した。

「……その後、朱美さんはどうですか」

「元気にやっている。昨日も仕事で互いにやりあったばかりだよ。まあ、少しね……まだ立ち直れてはいないけれど、こればかりは時間に任せるしかないかな」

 眼鏡の奥、秋月の双眸に感傷的な表情が浮かんだが、それも一瞬の話だった。秋月は再び医者としての表情で武装してしまった。

「きみのほうこそ、どうなの。ちゃんと食べて、寝られているか? お仕事は?」

「僕は……大丈夫ですよ。自分で思っていたよりもいつも通りに、虚しくなるくらいふつうに過ごしていますよ」

「そうか。日常のルーチンを崩さず、まずはふつうに生活することが大切だからね。それはそれでいいことだ」

 秋月はどこか同情をするような調子で頷いてみせた。

「それで、春さん。翠ちゃんから受け取った鍵はちゃんと持ってきた?」

「はい。持参しています」

「よし。それじゃあ行こうか」

 猫模様のコーヒーカップを机に置いて、秋月が立ち上がる。

 てっきり箱か何か、そうでなければケースのようなものが出てくるのだと思って身構えていた春は首を傾げた。

「行くって、何処へです」

「地下にある秘密の部屋さ。とっておきの宝物は大切にしまっておかなくちゃならないだろう?」



 札幌エルム総合医療センター、地下二階。解剖学室。

 春が通されたのは、かつて翠と忍び込んだこともある部屋だった。

 手術台が設置されており、法医学的処置が可能な設備を備えた比較的広いスペースだ。今、表に出ている遺体はなく、室内にいるのは春と秋月の二人だけという状態だった。

「ここに来るのは初めてじゃないんだろう?」

「先生はなんでもお見通しというわけか。……それなら、そうです。前にふざけて翠と忍び込んだことがある」

「まったく、君たちときたら。まあ細かいことはいいさ。春さん、鍵を貸しなさい」

「……はい」

 春が差し出した鍵を受け取ると、秋月は壁面に取り付けられたパネルをスライドさせ、鍵穴を露出させた。果たして、翠から春の手に託された鍵は本当にこの部屋の倉庫のものだった。

 鍵が開く音がして、現れたのは薬用冷凍冷蔵庫のような箱型の機材だった。

 春は常日頃、似たようなものを見て暮らしている。自分の部屋に据え置いている医療用冷蔵庫。それと似通った構造のため、一目で機材の正体がわかったにすぎなかった。

「これは……」

「見ての通り、これはただの冷蔵装置。問題なのは中身だ」

 今度は秋月が指紋認証で装置のロックを解除した。

「この中に、俺が翠ちゃんから預かった君への贈り物が入っている。見る覚悟があるなら開けて取り出すといい」

 秋月は春の方に向き直ると、そう言って箱を示してみせた。

「君にとってはこの上なく大切なものだろうよ」

 翠の形見。

 おれが死んだらわかるよ。翠本人はそう言って正体を教えてくれなかったものだ。

 見る覚悟はとうにできていた。春は慎重な手つきでドアを開いた。

 白一色の冷蔵室の中には、輸血用血液製剤が半ダース並べられていた。

「これは……これが、翠が秘密にしていた贈り物ですか」

「そう。それが翠ちゃんがきみに渡したかった宝物。輸血部門に保管させておいた翠ちゃん本人の全血製剤さ」

 全血製剤。つまりは翠自身の血ということだ。

「……どうして」

「もとは手術に備えて採血したストック用の自己血だったんだよ。でも、翠ちゃんの場合は病気の進行が予想以上に早くてね。だから――きっともうその時点でこうすることを彼女は決めていたんだと思う。自分が助からないと知った彼女は君のために血をあげることにしたんだよ」

「翠が、そんなことを」

「きみが血を吸えばその相手は吸血鬼に、あるいは生ける屍となって半ば永劫に彷徨い続けることになるという。だけど、翠ちゃんはきみにずっとそうしてほしいと願っていた」

「……翠から血を吸ってもいいと言われたことはありました。だけど、僕は」

「そうしなかったんだろ。そこだけは褒めてやる。でも、翠ちゃんはきみよりずっと狡猾でそして純真だった。彼女にはわかっていたんだろう。こうすれば誰も吸血鬼にすることなく、自分の血をきみに取り込んでもらえると。きみの一部になれるってことをね。謂わば、たった一つの冴えたやり方The only neat thing to doというわけだ」

 そう言うと、秋月は輸液パックをひとつ取り出し、春に突きつけた。春はみじろぎひとつせず、ただそれを見据えた。

「まったくさ。こんな絵空事、俺みたいな医者がする話じゃないんだれどね。女の子ひとり助けてやれない担当医の与太話かもしれないし、最悪、きみのような化け物を殺すための罠だという可能性だってあるだろう? だからこれらの薬をきみが受け取るか否かはきみの判断に委ねられているというわけだ。この意味、わかるでしょ?」

「――……はい」

 刹那。ほんの短い時間を置いて、春は静かに頷いた。

「僕は、翠の意志をすべて受け止めます」

 春の返事を聞き届けた秋月は、どこか寂しげな笑みを浮かべて答えた。

「そう答えると思っていた。だから、もう用意は整えてある」

 秋月は医療用のコントラクトカーテンで仕切られた空間を示し、カーテンを開けてみせた。

 そこには簡易ベッドが一台運び込まれており、輸液の用意が整えてあった。

「さすがに俺でも病院で血を飲むなんてイカれた真似は看過できない。だからこうして疑義的であっても医療行為としての手続きを取らせてもらう。これに関して文句は言わせないが、どうだ」

「……もちろん、わかっています。先生の判断に従いますよ」

 秋月の職業意識は本物であり、それがこれまで翠を支えてきたのだ。春としても逆らう気など毛頭なかった。

「準備ができているのなら、そこに横になって腕を出してくれ。あとは基本的に楽にしているだけでいい。春さんのような存在には常識は通用しないだろうが、輸血セットを用い、点滴と同じ要領で輸液する」

「はい」

 春は外套を脱ぐと、畳んで脱衣籠に預けた。シャツのボタンをはずし、軽く腕まくりをして手首を露出させた。

 いわゆる医療行為を受けるのは本当に久しぶりだった。少しだけ緊張しているのも事実だ。

「悪いが、最初の五分間は春さんに副作用が出ないかどうか観察させてもらう。……ま、現実の埒外の存在にそんなものは必要ないんだろうが、ここは病院で俺は医者だ。全ては俺と君以外に知り得ない秘密裏の行為だとしても、保険は必要だということだ」

「……それで構いません」

「それじゃ、始めるよ。少し痛むだろうが、すぐに違和感はなくなるだろう」

 春はそっと目を閉じた。

 左手首に針が沈み込む感覚があり、一瞬だけ苦痛を感じたが、それもすぐに楽になった。

 翠の血。翠の血液が春の中へ運ばれ、春の血肉と混ざりあってゆく。

 五分が経過したのだろう。夢に落ちていくような感覚の中で、秋月が「ごゆっくり」と告げてカーテンを閉めたのがかろうじて感じ取れた。



「春さん」

 不意に名前を呼ばれた春は、はっと目を見開いた。

 白と黒の世界。

 鯨幕で覆われ、参列者のために据え置かれたパイプ椅子が無数に並ぶ光景の只中に春は立っていた。ブラックスーツを着て、いつかの夜のような出たちで。

 自分が散々見てきた葬式の会場。

 棺は空で、壇上に僧侶の姿もない。

 今は誰もいない。春と翠の他には、誰もいなかった。

「……翠?」

「よかった。ちゃんと記憶にはアクセスできているみたいだ」

 翠はそう呟いて胸を撫で下ろしたみたいだった。そのまま彼女は手近な椅子に腰を下ろした。

 いつかと同じ真っ黒なセーラー服姿だった。髪も出会ったときの長さに戻っている。

「おれがこうして春さんのなかにいるってことは、そっか。死んじゃったんだ、おれ。本当に」

「……翠」

「大丈夫、じゃないよね。うん、春さんだっていっぱい泣いたし、姉さんや秋月先生も同じように悲しんでくれていたんだね」

 翠は春の内心をすべて見透かしたように、寂しく笑ってみせた。

「きみは、本当に翠、でいいんですか?」

 なおも問いかける春に、翠の姿をした少女は笑顔のまま答えをくれた。

「おれはたしかに榎島翠だけど、正確には違ってもいる。生きている頃の翠が掻き集めておいた断片、その集合体としておれが在る。榎島翠の記憶と記録の積み重ねを統合するために擬似的な意思を与えたもの。いわば翠の願いの集積だ」

「……それは、つまり」

「そうだね。翠の血を取り込むことで春さんとおれの記憶が混ざり合って、こうしてあなたの中におれを認識できるようになった存在が今の翠。春さんが血を取り込む度に少しずつだけど領域を拡張して……ようするに成長することもできるんだよ」

「SF映画みたいなことを言うんだな」

「春さんは相変わらずクソ映画ばかり観ているようで。でも、そう、映画みたいな絵空事……そういう認識でおおむね大丈夫ですよ」

 謎めいている翠の言葉だが、春には不思議と腑に落ちた。

 自分がルリや他の存在――血を取り込んだ相手の記憶や記録を思考の中に持ち合わせているように、翠も同様の存在となったのだ。

 否。翠がそうなるように仕向けたのだ。断片として残るのではなく、人格とよんでいいレベルにまで情報を統合したまま自分を春の中に取り込ませる。

 恐るべき計画だった。病床にある中で、一体どれくらいの思考錯誤を少女が重ねてきたのか想像もつかなかった。

 そして少女は見事に自分の計画を完遂させ、春の心の中に居場所を勝ち取ったのだった。

「ずっと一緒にいられたらって願い事、ちょっと強引だったけど叶えさせてくれてありがとう」

「……敵わないな、翠には」

「だって、全部をあげてもいいと思ったから。春さんの運命はもしかしたら別のひとだったかもしれないけれど、俺の運命は春さんだったから。だから賭けたの」

「一か八か、か。きみはいっつもそういう無茶をして」

 春がようやく脱力して椅子のひとつに腰を下ろす。

 いつの間にか隣の席にいた翠が、春の肩に頭を凭れた。

「ねえ、春さんはこれからどうするの?」

「そうですね。ルリのことや翠とのことで自分については殆どなにも考えていなかったから。というか、これから……この先が僕にあるとは考えてもみなかったから。正直いって、まだ何も」

「北の方に渡るって話は?」

「僕はそれもいいかな、と思っているんですけどね」

 春が穏やかに微笑むと、翠は悪戯っぽく笑ってみせた。

「隠居するにはまだ早いんじゃない?」

 翠は春の頬に触れてから、ゆっくりと立ち上がる。

「もっと他に見たい場所も、行きたいところもあるんじゃないかな」

 両手を広げ、振り返らずに告げる。

「そうかもしれない。でも、もう少し。もう少しだけ」

 きみとここにいさせて、と。

 囁くように祈る春をひとり残し、翠はそっと扉を開く。

 淡い光が溢れた。



 夢から目覚める感覚――あの特有の落下感に驚き、春は目を見開いた。

 白い天井。カーテンを開けて入ってきたらしい、秋月が驚いたようにこちらを見ていた。点滴用の針は外されている。輸血が終わったということか。

「急に起きるものだからびっくりした」

 秋月はポケットから取り出しかけていたペンライトを何事もなかったかのようにまたしまう。

「もう動いてもいいが、急にはだめだ」

「……夢? 僕は夢を見ていた、だけ?」

 何かを確かめるように黙り込んだ春の眦が涙で濡れていることに気づいた秋月が、そっとガーゼを差し出した。

 それを受け取ると、春は自分の目元を拭う。

 どこかでそれを揶揄うように笑う声が聞こえる。黒いセーラー服姿がカーテンの向こう側を過ぎった気がした。

 夢なんかじゃない。今、翠は僕の中にいる。

 これから先も、ずっと。

「とりあえず一単位を投与し終えた。今日の施術はこれで終わりだ。体に違和感は?」

「……平気、です。たぶん」

「そうか。まったく不思議なものだよな。きみをみていると俺のやっていることが何なのか、少しだけ自信をなくしちまうよ」

「僕は……」

「まあいい。残弾は六だな。また折をみて受け取りにくるといい。きみが全部を使い切るまで待っていてやるよ」

 春が身を起こし、無事に動くことができている様子を見届けると、秋月は何事もなかったかのように部屋を復元し、すっかりと片付けてしまった。

 秋月の研究室へと戻る折、春が礼を告げると、

「翠ちゃんの願い、か。それが本来はなんであれ、俺は君たちが報われるよう最後まで祈ろう」

 秋月もまたそんな言葉を告げてきた。

 春が朱美によろしくと伝えるように頼み、頭を下げると、秋月は苦味の勝る笑みで春を見送った。

 そのまま医療センターを後にした春は、自宅であるシャトー豊平弐番館までの道のりをゆっくりと歩いていった。

 翠と出会ってから三ヶ月が過ぎていた。


  §


 それから一年。

 移ろいゆく季節の中で、いくつかの出来事があった。

 榎島朱美と秋月侑陽は十二月になってから籍を入れ、式は挙げずに記念写真だけを残す形で結婚の約束を取り交わした。

 翠は「遅すぎるくらいだ」とコメントしながらも二人を祝福しているようだった。春も同様に二人のことを祝福し、自分のことのように嬉しく思った。

 年が明けてから、朱美たちはごく親しい友人数名を伴い、〈proof〉を貸し切って内輪だけの会合を開いた。小此木も春も腕を揮って二人の門出を祝った。

 三月。〈proof〉のマスターである小此木は以前より打診されていた二号店出店の依頼を正式に断り、従来通り自分の小さな城である〈proof〉本店一本でやっていく決断をしたようだった。

 一時は真剣に出店も考えていたそうで、春にも二号店で社員としてやってみないかと声をかけてくれた。しかし、春は今年中にも店を辞めようと思っている旨を明かした。春の意志が固いことを確かめた小此木は「きみなら、いいお店を作ってくれるかもしれないと思ったんだけどね」と笑ってみせた。このとき、春は自分が思っていたよりもはるかに小此木に気にかけられていたことを知ったのだった。春自身は父親からの愛情を受けずに育ったが、小此木のような存在がいればまた違った運命があったのかもしれなかった。

 四月には、朱美が長年翠と暮らしたアパートの一室を引き払い、引っ越しをすることを決めた。五月になってから引っ越しは無事に完了した。秋月と共に暮らしていくことを本格的に決めたのだという。

 六月十日、初めて会った日を追い越したねと言って、春の中で翠が小さく笑っていた。一年前のこの日、見知らぬ子どもの葬式で二人は出会ったのだった。

 八月末、春は小此木の店を円満退職した。別れを惜しむ同僚や客も少なからずいて、最後の出勤日は賑やかな夜になった。満更でも無い気分だった。

 春が最後に作ったカクテルは〈ギムレット〉であり、それは小此木と春がパーティの後片付けに最後に店に残った折、春から小此木に送られた一杯だった。

暫しのお別れロング・グッドバイ、か」

 レイモンド・チャンドラーの同名小説のタイトルとしても有名な言葉が込められたカクテルを、小此木は感慨深げに飲み干した。

「それで、環波くん。きみはこれからどうするか、決めたってことかな」

「はい。……札幌を出て、しばらく色々な場所を巡ろうと思って」

「連絡はくれるのかな?」

「そうですね、旅先から絵葉書でもお送りできたら。でも、さすがに毎回は無理でしょうけど」

「気が向いたらでいいさ。どこにいても、幸運を願っているよ」

「僕も同じように、どこにいたとしても皆さんの幸運を願っています」

 そう告げて、春は店を後にした。

 その数日後、春は札幌を去ったが、彼の行方を知る者はなかった。



 そして、九月。

 訪れる者もだいぶ少なくなった秋の海辺で。

 一年ほど前まで、札幌市近郊を震撼させていた連続殺人事件の犯人のものと見られる一丁の拳銃が発見された。

 早朝に犬を散歩させていた老人が第一発見者だった。拳銃からはいくつかの殺人現場で採取された指紋と合致する指紋が検出され、また証拠品及び殺人現場に残された複数の証拠におけるDNA鑑定の結果も一致しているという。

 ただ、犯人は未だ捕まっておらず、事件解決には程遠いことが報じられていた。

 また、近くでは砂に混じって大量の血痕が同様に発見されたが、誰のものか定かでは無いという。

 まるで溶け合うように複数人の血が混在して流れた形跡がみられたものの、奇妙なことに証拠自体がすぐに消え失せてしまった――それこそ砂になって消えてしまったのだが、これは内部資料として秘匿され、メディアで報じられることのない事柄だった。

 そうして混迷の中で捜索が打ち切られ、ようやく海岸が静けさを取り戻した頃には季節は冬に差し掛かっていた。

 全ての痕跡を撹乱し、に関わり繋がる証拠を捨て去った夏雪殉哉は、愛車であるカワサキ重工の大型二輪を堤防付近に停めて夜明けの海を見ていた。

 鈍色の海。打ち寄せては引いていく波の背が薄く煌めきを帯び始めた。

 ちょうど日の出の時刻で、夜の暗闇を殺して、また日が昇るところだった。

「どう。これで満足している? 春」

 青から橙、そして眩しく白く変じる夜明けを目にしながら、夏雪は謎めいた微笑みを浮かべた。

 その手は同じ海の夜明け前を映したらしい写真をあしらった絵葉書を掴まえていた。

 手指を離すと、写真は風に煽られ遠くの空へと飛んでいった。

 真っ黒なセーラー服の少女がどこかで笑う気配がした。


 

   〈了〉


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Sick 津島修嗣 @QQQ

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