【BL】桃花の夜【左大臣×右大臣】

〇鴉

祝言の後で

金の屏風に映る灯を、春の風が揺らす宵の口。

宴も酣の頃、守護の務めを終えた二人の随身が、宛がわれた部屋にて、慎ましやかに祝杯を交わしていた。


「よろしいのですか?主様の御前ではなく、このような小部屋で……」

腰を下ろしてもなお背筋を伸ばしたままの若い随身が、目の前で座している老公へ窺う。


「めでたき婚礼の席に、物々しい我らが着いては無粋と云うものよ。なに、主と奥方様には挨拶を済ませておる。気に病むことはない」

胡坐をかき寛いだ姿勢で、年老いた随身はそう答え、手にした盃を呷る。

そして、何時までも姿勢を崩そうとしない若者へ、いい加減に膳に手を付けろと目線で促す。

そうされたことで、ようやく若い随身は上官に倣って胡坐をかくと、箸に手を伸ばした。



「嗚呼、酒が旨いのう。良い気分じゃ」

祝膳の料理を一口運び、一瞬だけ歳相応に表情を輝かせてから、黙々と食を進める部下を眺めて再び盃を呷り、年老いた随身は満足気に呟いた。

その独り言を拾って、若い随身は上機嫌な様子の老公へ、ちらりと目を配せる。


「……席を共にしているのが、私のような若輩のもので、味を落としていなければ良いのですが」

そしてぽつりと、そんな言葉を呟く。

すると目の前の老公は、一瞬目を丸くしてから、からからと笑いだした。


「はっはっは!何を言い出すのかと思えば、そのようなことを気にしておったのか?」

「貴方様は、あの華やかな宴の間で、主様と奥方様の最もお傍に設けられた席で、酒を注がれていなければならない御方なのです。……気掛かりで当然でございます」

それは、長く主に仕えてきたこの上官を間近で見てきたからこその、疑念と畏敬からくる吐露だった。


「良い、良い。この歳にもなれば、騒々しいのは好かぬ。今更、女中に酒を注がせて変わるような舌の若さもない。儂は、主の晴れ姿を見られただけで十分じゃ」

年老いた随身は愉快気にそう答えて、複雑そうに顔をしかめている若者を宥める。

そして、懸命に己を納得させようとしてへの字に曲がった口元のいじらしさから、思いついたように言葉を続けた。


「それになぁ……このようなめでたき日に、こうして立派な随身となった其方と、共に近衛の任に就いた後で酒を酌み交わせるということは、実に良い肴じゃて」

「……!」

そんな言葉が耳に入って、若い随身は顔を跳ね上げる。

幼き頃から憧れ、背を追い続けてきた老公は、これまで一度も見たことがないような、不相応に悪戯な含み笑いを浮かべていた。


「主の婚礼を祝い、部下の邁進を喜んで、更けさせて往く夜が、どうして宴に劣ると云うのか。……嗚呼、実に酒が旨いのう」

心の底から、沁み入る様に零して、年老いた随身は、ゆっくりと盃に口をつける。

「……そのようなお言葉、私めには勿体のうございます」

思いもよらない賛辞に、若い随身は深々と頭を下げて謙遜する。

しかし、最も敬愛する相手から、密かに望んでいたとおりの言葉を受けたことで、腹の奥で肝が熱を孕み、隠してきた喜びがこみ上げてきた。


「分かったのなら、早よう食え。若者が馳走を前にして、堅物を気取っておるでない」

再び無礼講を促してから、年老いた随身は、自身も酒ばかりで膳に手を付けていなかったことを思い出した。


老公が小皿から一菜を少量取り、口に運んでいく様に、またちらりと目を配せて、若い随身は頭を上げて、同じものに箸を伸ばす。

一口分を咀嚼して、すぐに酒に戻ってしまった老公を前に、若者は再び黙々と食事を続けた。





「其方よ、酒が進んでおらぬではないか」

早々に空いた食膳が下げられ、残された酒膳を見て、年老いた随身が口を開く。

若者は最初の杯以降、全く手を付けていないようだった。


「今日まで、さほど呑むことがありませんでしたので……」

恥を忍びつつも、若い随身は、食指が動かない旨を白状する。

すると老公は顎髭を撫でつつ思案し、下人を呼びつけると、新しい瓶子を運ばせた。


「ならば、こちらの方が良かろう」

「これは……?」

「白酒じゃよ」

老公が銚子の口を差し向け、若者は背を正して杯を貰う。

白濁としたそれを一口含むと、とろりとした甘味が口内を満たした。

そして言葉の意味を理解して、若い随身は密かに、不服を口元に表した。


「口に合うたか?」

「……はい。とても、気に入りました」

ささやかな皮肉は通じることもなく、老公は機嫌をよくして、空になった自身の杯に、手酌で酒を注いだ。


「左様か、左様か。ならば呑め、呑め。年寄りを一人で酔わすでない」

そんな言葉と共に、改めて杯を掲げられて、若い随身も応えるように、再び杯を掲げる。

それなりに量を呷っているはずなのに、老公は顔に仄かな色を差すだけで、酔いなど微塵も匂わせていない。

反して自身は、今の一口だけで、また腹の奥に熱を孕む気配を覚えた。


どう足掻いても埋まらない格差を、遠い距離として思い知る。

若者は苦々しい気持ちを、深いところに沈めてしまおうと、甘い濁り酒を一気に飲み干した。



年老いた随身が、久々に口にした甘い酒を、これもまた良しとして舌鼓を打っていると、視界の外で何かが揺れていることに気付いた。

ふと目線を向けてみると、若い随身の首が、覚束ない様子で揺れていた。


「おやおや……少し召されただけだというのに、もうかないませぬかな?少将殿」

色白い頬を、すっかり朱くしてしまった若者へ、老公はやや悪ふざけて揶揄う。

若者は、蕩かせた目を向けると、長く息を吐き出して、杯の中身を全て呷った。


「いいえ……まだまだ。中将様を差し置いて、酔い潰れるなど……あってはなりませぬ故に」

口上ではそう強がってみたものの、視界は既にぐらぐらと揺れており、老公の表情さえも碌に見えていなかった。


そんな若者の様子を見ながら、年老いた随身は呆れ混じりに苦笑う。

若さ故の意固地さと、見栄の張り方をまたいじらしく思い、更に揶揄ってやりたくなった。


「左様か。ならばこちらに来て酒を注いでくれ。儂も注いでやろうぞ」

「…………はい」

そう手招きされ、若い随身は二呼吸分の間を空けてから、瓶子を手に立ち上がる。

そして老公の側までふらふらと歩んでいき、膝をつこうとして、回る視界の中で崩れ落ちた。


がしゃんと膳にぶつかる音がして、しかし畳の上に落ちる感触はなかった。


「おっと。――これはまた、随分と回りが良いようじゃなあ」

そんな言葉が間近から聞こえてきて、手に触れた衣の感触を、遅れて認知する。

畳の上に転がるはずだった体は、あろうことか、畏敬を抱く老公の胸中に落ちていた。


「ッッ――!!」

「これこれ、暴れるでない」

若者は慌てて起き上がろうとするが、すっかり酩酊した頭では、無様に藻掻くことしか出来なかった。

老公はそれを窘めつつ、子供をあやすようにして、背中を叩いてやる。

束の間に見えた顔は、酔いのせいか恥のせいか、耳の際まで赤くなっていた。


「これに懲りたら、下手な見栄など張らずに身を弁えることじゃなあ」

徐々に勢いを無くしていく若者を腕に抱いたまま、年老いた随身はそう言い聞かせて、またからからと愉快気に笑った。


若い随身は、暫しの間、口を聞けずにいた。

血の流れが、荒れ狂ったかのように全身を駆けていく音が、耳の内側でしていた。


熱を籠らせた胸の内には、上官へ無礼を働いたことへの後悔と同時に、焦がれていた温もりがすぐ傍に在ることへの、強い喜びがあった。

けして届くはずのなかったものに触れたことで、長い間秘めてきた想いが、焚きつけられる。

それを秘め続けるために鍛え上げたはずの精神が、酩酊によって役に立たない今、燃え広がるような情を抑え込むことなど、出来る筈もなかった。



「……貴方様は、なにも知らないのです」

受け止められた胸元に額を預け、若い随身はぽつりと言葉を零した。


「はて……儂が何を知らぬと申すか?」

まるで拗ねたような口ぶりに、老公ははたと、揶揄いの気持ちを収める。

そして窺うように二の句を促すと、若者は今にも泣きだしそうな声音で、言葉を続けた。


「貴方様に憧れて……師と仰ぎ、鍛錬を積んで……ようやく下に就くことが出来ました。この祝言において、貴方様と私の二柱で、近衛役このえのやくを務めよと命じられたとき……私が、どれほど舞い上がったか……知らぬでございましょう?」

堰を切った心から、仕舞い込んできた思いの丈が、次から次へと零れ落ちていく。

若者の頭からはもう、目上の者への礼節や敬意等は消え去り、想い続けてきた相手への慕情だけが、ただただ埋め尽くしていた。


「知らぬでございましょう?……貴方様よりも遅く生を受けたという、ただそれだけのことで……どれほど己を鍛えようとも、学を身につけようとも、強がってみようとも……けして貴方様と同じ“時の間”は、歩めない。年月を重ねていく毎に、それを思い知らされて……私が幾度、胸を八つ裂かれそうになったか」

とつとつと語られていく若者の言葉に、年老いた随身は、聞き入っていた。

青天の霹靂な筈なのに、若者から向けられる思いの丈は、何故か不思議と耳に馴染んだ。


「貴方様は、私を『立派な随身になった』と仰られた。……しかし、貴方様の見ている私は、何時までも童のままなのですね」

若さを理由にして、食事を促す気遣いも、甘い酒を勧める優しさも、そんな事実をまざまざと思い知らされているようだった。

そしてそれらを覆せない己の未熟さにも思い知らされて、堪らなかった。


「それが悔しくて、切なくて……敵いませぬ」

しかしどうすることも出来ずに燻ぶらせていた思いを、駄々のように口にし終えて、若者はそのまま、力無く項垂れた。



「……これは、これは、思わぬことになったのう」

全てを聞き入れた老公は、気持ちを鎮めるために一度、深く息を吐いた。

そして再び顎髭を撫でながら、深く、深く、思案を巡らせる。


その間、腕の中に収めた若者の体から伝わってくる精悍な温もりは、心地良く、どこまでもいじらしく、愛おしくもあった。

それが長い思案の末、答えだと悟ると、老公はふうと一息つき、手を伸ばした。


「……ならば今一度、其方に問おうぞ」

赤く染まり、熱を孕んだ頬に手の平を寄せて、上に向かせる。

そして、目の端に溜まっていた水粒を指で掃うと、正面から見据える。


「儂に、一人のをのことして認めさせる為……お前は、どうするのじゃ?」

自覚したばかりの想いを載せて、しかし表向きには出さずに、老公は問う。

それに気付いてか否か、若者は驚いた顔をして、暫しの間、硬直していた。

やがて若者は、酔いとは違うもので蕩けた目を向けて、答えた。


「願わくば……貴方様の、お好きなように」

「……そのような口説じゃあ、まだまだじゃのう」

未だ熟していない相応の言葉に、年老いた随身は言いようのない感情から苦笑を零して、そう揶揄った。





呼びつけられた下人が襖を開けると、年老いた中将が、こちらに背を向けたまま座っていた。


「寝床を用意してくれるか。少将殿が酔い潰れてしもうてな」

そう言われて目を向けた先には、空になった相の席があり、中将の膝元には、少将が身につけていた着物の裾が伸びていた。


それでは私共がお屋敷までお連れしましょうか、と下人は申し出た。

しかし、中将は断って、この部屋でいいから寝床を用意するようにと命じた。



了承した下人が立ち去った後。

自身の腕の中から動こうとせず、すっかり胸に頬を寄せて、熱い吐息を零す若者を見下ろした老公は、改めてその身を、深く抱き直す。


「まだ落ち着かぬか」

「……目が、回っております」

久しく覚えがなかった酩酊を覚えつつ、年老いた随身が尋ねると、

慣れない酒の酔いは未だ醒めず、若い随身から掠れた声が返される。

正直な答えに含み笑いを浮かべて、老公は若者の頬を、指の腹で撫でた。


「仕様がないのう。……今宵は、介抱してやろう」

呆れたような、何処か愉快そうな、そんな言葉が耳に届いて、

若者は甘痒い熱を肝に孕んで、微かな期待を抱いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【BL】桃花の夜【左大臣×右大臣】 〇鴉 @sion_crow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ