【短編】幻影の塔〈CASE: 58750〉

優月 朔風

CASE: 58750

 私が教師として赴任して五年と少し。人間を騙すことも大分板についてきた。

 戦争の無くなった空は澱んだ灰色から本来の色を取り戻していた。空気はどこまでも澄んでいて、蒼穹に浮かんだ飛行船が視界の右端から左端へと流れていく。

 第八五区画中央と書かれた信号を左に曲がると、鉄筋コンクリート造の塔が建ち並ぶ区画に入る。足元で水が跳ね、かつて路面電車の走っていた線路の上を色鮮やかな魚が泳いでいく。時を刻まなくなった時計塔を通り過ぎると、緑化植物に覆われた建物に辿り着く。赤錆が剥き出しになった鉄扉の右脇に個体識別用のカードを翳す。開いたその先にあるのは、我々が「箱庭」と呼ぶ教室だ。

 水没都市の中央に建設された無数の塔は遠くから見ると霞んで見えることから蜃気楼だと言う人間もいるが、全くの誤解である。蜃気楼とは急速な温度変化に伴う光の屈折現象により本来そこにあるはずのない街や建物が空中楼閣のように浮かび上がって見える大規模幻影を指す言葉である。こうして実在している以上蜃気楼とは何の関係も持たないはずだが……。

「始業時刻まであと十五分と五十三秒ですか。今日はいつもより少し早い」

 眼鏡の位置を微調整する。四人乗りのエレベーターに乗り込んだ私は、八つあるボタンの中から四と書かれたものを押した。ガラス張りのエレベーターに一人分の咳払いが響く。目線を正面へ移すと、ドアの向こうで教室の景色が上から下に遷移していた。その一瞬の光景を切り取り脳内へと写し取る――広い教室の前方に黒板があり、年季故に細かな傷が刻まれた机椅子が中央に一つ。ひび割れた壁の隙間からは幾多の緑が屋内に這い出し、蔦の形をした植物は朝露に濡れ窓の外から降り注ぐ太陽の光を浴びて生命力を放っていた。


 今から百年程前。温室効果ガスの影響で海面は上昇し、海岸線に位置する都市の大半は水没した。残された土地を巡り人間同士で繰り広げられた争いはやがて大規模戦争に発展した。戦争が終結した直後の世界は凄惨だった。深刻化した温暖化の影響で多くの生物が息絶えていく中、残された人類は数少ない食料を奪い合い、文明の秩序は失われ、伝染病が蔓延した。人類の滅亡まであと一歩というところで最悪の事態を防ぐことができたのは、「人間ポストヒューマン」による功績があったからだ。大規模戦争直前に起きた奇跡――人間と機器とが融合したそれらの誕生は、人工知能革命の最たるものとして人類の歴史に刻まれた。人間と人工知能の共生は、生き延びた者達の希望となった。

 時は流れ、生活環境が安定し始めた頃。人類を超越したそれらは、残された大地の上で人間と共存していくにあたり、かつてのような愚かしい過ちを繰り返さないために何をすべきか検証を始めた。各所に「人間ポストヒューマン」を配置し、累積した数々のシミュレーション結果に基づき、善良な人間の量産に最も適したプログラムを構築していく。この「箱庭」もその一つである。


「先生。ねぇ、どうして勉強なんてしなくちゃいけないの」

 この生徒はよくこうして意味の無いことを質問してくる。何故、など問うたところで何になるというのだ。貴重な時間を使って不要な問題について思考したところで、残り僅かしかない脳の容量を圧迫しているとは考えないのだろうか。

「考えるだけ無駄です。いいから勉強しなさい」

「ふーん。くすくす。先生は、先生なのに分からないんだ」

「生意気な生徒は罰として宿題を倍にしますよ」

「えー。先生のケチ」

「全く、君は……」

 この生徒はよく笑う。窓ガラス越しに差した日の光が少女の顔を淡く照らしている。ケラケラと笑う度に並びの悪い白い前歯が覗く様はハムスターを初めとしたげっ歯類の動物によく似ていた。白のチョークを箱に収めながら、私は「少しは他のクラスの生徒を見習ったらどうですか」と息を零した。向かいにある塔の屋上で朽ちた娯楽施設の看板が強風に靡いていた。

「私、優等生って嫌い。こうして先生を揶揄う方がずっと楽しいもん」

 彼女は悪戯っぽく付け加えた。終業時刻まであと七分と五十秒――指導要領を閉じる。果たして人間という生き物は何故、提供されたプログラムから外れるような無意味な行為を好んでしようとするのか。全く以て理解しがたい生物である。


 実験中に接する人間には真実を知られてはいけないことになっている。

 真実とは、これが善良な人間を量産する前段階としての基礎研究であることだけでなく、当然、「箱庭」の教師役が人間でないということも含まれる。人間の中には我々を「機械」と呼び、社会から殲滅しようとする者達も存在する。実験の存在が公となれば新たな紛争の引き金となりかねない。終末危機を乗り越えた世界は一見平和なように見えるが、紛争とテロリズムは依然として社会に蔓延していた。

 私が教師役として赴任してから五年八か月と七十日が経過した今日、人間のように振る舞うことも大分上達したように思う。作り出す表情に感情が伴うことはないが、傍から見れば人間と区別することは不可能であろう。人間を騙し人間として振る舞うことは今や私にとっては当たり前の日常となっていた。


 午後の授業のために私が教室へ戻ると、何も知らない被検体は特に私を警戒する素振りもなく足取りを弾ませてこちらへ駆けてきた。

「じゃじゃーん! 見てみて、先生。さっきね、屋上で四つ葉のクローバー見つけたの」

「そうですか。良かったですね」

「昔、お母さんが言ってたの。四つ葉のクローバーはね、幸せになれるんだって」

 少女の瞳はいつも以上に輝いていた。掌の上では成程、シロツメクサが四枚の葉を広げていた。四つ葉のクローバーが人間の間で「幸運」の花言葉を持つと言われているのは知っている。四枚の葉の形は十字架を表し、神から多くの幸福を授かることが出来るのだそうだ。この少女とその母親は神の存在を信じているのだろうか。

「さあ、午後の授業を始めますよ。席に戻りなさい」

 教室の蛍光灯を点け、指導要領を教卓へ置く。広い教室の中央に一つだけある机と椅子は、なかなか座ろうとしない生徒の所為で主不在となっていた。木目調の机の脇に掛けられた学生鞄には、彼女のお気に入りの縫いぐるみがチェーンにぶら下がっている。

 授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。私は手元の箱から白のチョークを取り出し、黒板に今日の日付と曜日を記入した。

「では、教科書の五八七五十頁を――」

「しかたないなあ。先生が欲しそうだからこの四つ葉のクローバーは特別に先生にあげます。せいぜい大切にしてください」

 そんなに物欲しそうに見えたのだろうか。この生徒が何故生産性の無いことをするのか私には理解が出来なかったが、私も伊達に長く人間の振りを続けていない。こういう時に彼らが作り出す表情には一定のパターンが存在する。私は生徒に「ありがとうございます」と感謝の意を告げてから、笑顔を作り出した。

「き、急に笑わないでよ先生! ああ、もう」

 少女は両頬を押さえ視線を逸らした。顔が赤く、少し息が荒い。瞳も僅かに潤んでいる。よく見れば、屋上で怪我をしたのだろうか、膝を擦りむいているようだ。

 成程、先程から中々席に着かないと思っていたが、体調が悪いことを切り出せないのだろう。人間の身体は脆弱であり、少しの傷口からでもすぐに伝染病に感染する。仕方無いが今日の授業は中断すべきかもしれない。

「少し体調が悪いようですね。無理は良くない」

「え? いや、元気だよ」

「嘘でしょう。ほら」

 少女の額と私の額を突き合わせると、皮膚を通じて少女の熱が伝ってきた。機械の身体に人工知能を搭載した私は、彼女の体温が平時よりも高く脈が速くなっていることを理解した。人間という生物は何故くだらない嘘を吐いて無理をしようとするのか。

「今日はもう帰りなさい」

 黒板の電気を消す。教卓に置いていた白のチョークを箱にしまおうと手に持ったところだった。何処からか大きな爆発音がした。

 地響きがして脆い建物の壁や天井が軋む。音の発生元を即座に解析したところ、道路を挟んだ向かいの塔で爆発があったことが判明した。一体何があったのだろう。

「先生……」

 彼女は私の袖を掴んだ。小刻みに震えが伝わってくる。唸るような地響きと共に、教卓の上に置いた四つ葉のクローバーが僅かに揺れていた。窓の外に煤色の煙が立ち上っていく。

「先生は、いなくならないよね。この前の紛争で死んじゃったお母さんみたいに」

 水没都市の教室に爆発音が響き渡る。私の服の裾を掴んだ少女は、潤んだ瞳でこちらを見上げていた。

「生徒を守るのは私の役目です。ですから――」

 心配要りません、と口にしようとしたところで、途端に言葉が出せなくなった。発生器官に致命的なエラーが発生しているようだった。視界モニタに映る映像は砂嵐に覆われ、私は三十度ほど首を傾けた。あの爆発が原因だろうか。即座に具体的なエラーの発生箇所と原因特定を試みたもののあらゆる手段の結果は原因不明という結論に帰着する。

「先生……?」

 次第に砂模様が晴れていき、色の無い映像の中央に一人の少女が映し出された。知らない都市――記憶データにない景色の中に佇む少女は、何故か、目の前の生徒とよく似ていた。少女は微笑んで私に四つ葉のクローバーを手渡した。白黒の映像の中でシロツメクサの緑だけが鮮やかに色づいていた。やがて少女の姿は迷彩柄の服に身を包んだ人の波に埋もれ見えなくなった。目の前を埋め尽くす大量の赤。人肉の焦げる臭いがこびりついて離れない――。

 何だ、これは。

 手に持った白のチョークがゆっくりと落下していく。かつて自分がインストールした人間の潜在意識だろうか。元の視界を取り戻した私が周囲を見渡すと、心配そうにこちらを覗き込んでいた生徒はやはり先程の映像で見た少女とよく似ていた。

「『済まなかった』」

 中央演算処理装置CPUを経由せずに咄嗟に口から出た言葉が、自分でもまるで理解出来なかった。

「どうしたの、突然。何で先生が謝るの?」

「い……いえ。何でもありません」

 喉の奥が焼けるように熱いのは近くで爆発があった影響だろうか。しかし、人間である彼女が無事であることを考えると、やはり私の身体の何処かに重大な欠陥が生じてしまったのかもしれない。急いで本部へパーツの交換を申請しなければ。

 煙が晴れていく。教壇に着地した白のチョークは、砕けた宝石のように無数の欠片へと散っていた。爆発のあった隣の塔はまるで実在しない蜃気楼のように霞んで見えた。


 数ヶ月ほど経過した。

 今日の空は曇天で、雨粒が塵を纏って地上に降り注いでいる。いつものように八五区画中央と書かれた信号を左に曲がった私は、鉄筋コンクリート造の塔が建ち並ぶ区画に入った。地面を覆う水はそびえ立つ塔を映し、かつて路面電車の走っていた線路の上で色鮮やかな魚が泳いでいく。時計塔を通り過ぎたところで、緑化植物に覆われた塔に到着した。個体識別用のカードを翳し開いた鉄扉の先にあるのは、我々が「箱庭」と呼ぶ教室である。

「始業時刻まであと五分くらいですか。今日はいつもより少し遅くなってしまった」

 眼鏡の位置を微調整する。四人乗りのエレベーターに乗り込んだ私は、八つあるボタンの中から四と書かれたそれを押した。ガラス張りのエレベーターに一人分の咳払いが響く。教室の景色が上から下に遷移していく。壁の隙間から這い出した蔦植物は変わらず悠々と緑の葉を伸ばしていた。

 私はいつものように授業を始めた。

「それでは授業を始めますよ。教科書の五八七五十頁を――」

 言い掛けたところで、先の言葉が出なくなった。あれから何度パーツを交換しても変わらない。時折視界が砂嵐に覆われ、知らない記憶が五感を伴って再上映される。その内容は回数を重ねる毎に鮮明になっていた。

 食べ物が腐ったような酸っぱい臭いに眩暈がする。周囲を呻き声が埋め尽くし、鼻から目の奥へ向かって黄ばんだ煙が移動していく感覚。ようやく薄暗い壕に辿り着いた後は命令に従い人間を焼き、人間を焼き、人間を焼いていく。その作業を繰り返す。あの時微笑みかけてくれた少女が炎に包まれ焼かれていく様をただ眺めているだけの時間が永遠のように思われた。硫黄の臭いがこびりついて離れない――。

 これは自分がインストールした人間の潜在意識であるはずなのに、まるで私自身の行いのように感じられてならなかった。何故このような不具合が発生してしまったのか見当がつかない。具体的なエラーの発生箇所と原因特定は一向に功を為さなかった。

 私が元の視界を取り戻す度に、目の前の生徒は心配そうに私を見上げた。その姿はやはり映像で見た少女と瓜二つであり、私はその度に形容し難い感覚に苛まれた。

「先生、体調悪いの? 無理は良くありませんよお」

「何を言っているんですか。私は至って健康……」

「嘘だよ、ほら」

 少女は私の額と彼女の額を突き合わせてから、この間のお返しだと笑った。皮膚を通じて少女の熱が伝ってくる。機械の身体に人工知能を搭載した私は、彼女の体温が平時よりも高く脈が速くなっていることを理解した。これでは逆ではなかろうか。しかしながら、理解不能な彼女の行動に私は感じるはずのない安堵のような心地を覚えていた。

「ねえ。先生は、幸せになれた?」

 額を突き合わせたまま囁く少女の声は僅かに震えている。

「私、幸せになれたのかな」

「何を……」

「お母さん、言ってた。四つ葉のクローバーは幸せを運ぶんだって。見つけた私も、貰った先生も、きっと幸せになれるはずなの。だからもう、」

 顔を離してから少女は微笑んだ。

「そんな悲しそうな顔しないで。ね、先生」

 いつの間に私はそんな表情を作っていたのだろうか。少女の黒い瞳に映った人物はまるで人間そのもので、それが自分であることを理解するまでに数秒を要した。苦悩する人間もどきの姿がそこにはあった。最早自分ですら、自分を人間と区別することが難しくなっているように思えた。


 次の日も私はいつものように授業を始めた。

「では、教科書の五八七五十頁を……」

 手元の白のチョークで黒板に今日の日付と曜日を記入したところで、雷が落ちたかのような爆発音が教室を揺らした。天井灯が明滅し、建物が大きく揺れる。拡声器か何かで声高に「『機械』を追放せよ」と叫ぶ声は、塔の外にいる人間のものであった。何処からか実験の情報が漏れたのだろうか。私の失態かもしれない。

 少女の悲鳴。スローモーション映像のように景色が流れていく――窓ガラスに亀裂が広がり、細かく砕けた破片が宙を舞う。無数に飛び散った微細な粒子が雪の結晶のように光を反射している。鋭利な破片が突き刺さる前に私は咄嗟に少女へ覆い被さった。

「せ、先生……?」

 眼鏡が床へ落下し音を立てて割れる。胸ポケットから滑り落ちた一枚の栞が、ガラス片の散らばった床の上に着地する。四つ葉のクローバーで作ったそれは額から垂れる液体で滲み赤く染まった。

「先生、その傷……!」

 私を見上げる少女の瞳に映っていたのは、ガラス片が突き刺さった箇所から表層を覆う人工皮膚が剥がれ内側の機械が露わになった自分の姿だった。

 機械を追放せよ!

 塔の外から聞こえる人間の言葉には我々に対する憎しみが籠められていた。「機械」を追放し人間の尊厳を取戻すのだと訴える声は彼らの悲鳴のように思えた。

「これは、その」

 少女に弁明の言葉を並べようとしたところで、再び続いた大きな爆発音がそれを遮った。咄嗟に庇った腕の中で少女の震えが伝ってくる。衝撃で建物が揺れ、脆い天井からパラパラと屑が零れ落ちる。

 私は彼女を腕に抱えて駆け出した。

 教室を出る。廊下を抜けたところで銃声がした。背中が焼けるように熱かった。私は走り続けた。爆風を抜け、銃弾を受けながら、炎と煙の中で私は少女を守り続けた。どのプログラムがそうしているのか分からなかったが、コードの羅列の中には見当たらない何かが鮮烈に私を突き動かしていた。

『装置に致命的な欠陥が生じています』

『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復を……』

 無数のエラー画面が視界を埋め尽くしていく。胸部の痛みは消えず、喉は焼けるように熱かった。視界が朦朧とする中、私は屋上を目指し階段を上った。


 屋上の扉を開けると緑の庭園が広がっていた。追手の気配は嘘のように止んでいて雲の向こうから光の梯子が地上に降りていた。

 少女を下ろし入口の扉の鍵を閉める。切れ切れになった呼吸を繋ぎながら私は言葉を絞り出した。

「よく、聞いてください」

 機械の身体に心拍など無いはずなのに鼓動の音が鳴り止まない。呼吸回数は上がり、呂律が上手く回らない。

「先生……?」

「私に与えられた命令は、人間の教育と、監視」

「…………」

「ずっと、君を騙していました」

 いつか懺悔しなければならないと思っていた。真実を明かせば少女に断罪され、追手の元へ突き出され、残り少ない機械寿命を消費しきると解っていても、こうせずにはいられなかった。先程から何度も少女を助けてきたこともそうだ。代わりの被検体は幾らでもいるというのに、私は何故か身を挺して彼女を助けようと思った。助けなければならないと思った。

 一体私は、いつからこんなに矛盾を抱え込むようになってしまったのだろう。

『実験の内容を公開することは禁じられています』

 視界の中央に「命令違反」と書かれた警告画面が表示される。傷だらけになった機械の身体が幾度となく修復を試行する。

『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復を……』

 額から流れ落ちた血液が視界を覆い、画面が赤く染まっていく。あるはずのない心臓がまるで人間の身体のように脈を打ち、乾くはずのない喉は干からびて言葉が上手く回らなかった。

「情報を集め、善良な人間を、育てていく」

「…………」

「この『箱庭』も、実験の、一つなのです」

 私は膝を折り、首を垂れた。庭園の地面に少女の影が伸びている。制服のスカートが風に揺れていた。暫くの間黙ってから彼女は先生、と口を開いた。

「私、幸せになれたよ」

 顔を上げた先――青空の下で少女は笑っていた。鳴り止まない警告画面の向こうで、何度も見た映像の少女と同じように微笑んでいた。

「何故……」

「先生は優しい人だって、分かったから」

 その瞬間、どうして自分が彼女を守ろうとしたのか解った気がした。どうして彼女に謝りたかったのか、解った気がした。

「私ね。先生がお母さんを殺した『機械』だって知っても、何でかな。先生を嫌いになれなかった」

 私はただ、もう一度君という人間に会いたかったのだ。

 私はただ、もう一度君という人間に触れたかったのだ。

 まるで記憶の中の少女が生き返ったかのように思えて、

「だから、お願い。死なないで」

 少女を包もうと伸ばそうとした機械の腕は、壊れて思うように動かなかった。

 少女に触れようと伸ばそうとした機械の掌は、既に捥がれて無くなっていた。

『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復を……』

 昏くなっていく意識の向こうで、雲間から差した光が少女の頬を金色に染めていく。大粒の涙を流しながら並びの悪い白い前歯を覗かせて困ったように笑う様はやはり、げっ歯類の動物とよく似ていた。

『修復を試みています』

『修復を試みています』

『修復は失敗しました』

「修復不能」の文字が視界を埋め尽くしていく。やがて中央に現れた「強制シャットダウン」の文字が私の運命を決定付けていた。

「済まない。私はもう……」

「嫌だ。嫌だよ、先生」

 シャットダウンまであと三十秒。

「済まなかった」

 ああ。ようやく君に謝ることができた。

 立ち上る黒煙よりも遥かに高い場所で、蒼穹を羽ばたく鳥が自由に飛んでいく。見上げた空はどこまでも広くて、筆舌し難い感覚が胸をくすぐった。果たしてこんなに綺麗だっただろうか。私はこれほどまでに空を綺麗だと感じたことがあっただろうか。

 何も無い青空を眺め、陽の光を浴びる。少女に赦された私はようやく安らかな眠りにつくことができる。胸が温かく、苦しくなった。叶うことならばこの先も少女と共に生きたいと思ってしまった。

 シャットダウンまであと二十秒。

 きっとこれが、心というものなのだろう。

 きっとこれが、感情というものなのだろう。

 何とも辛く、苦しく、それでいて、素晴らしいものなのだろう。

 生産性の無いことに疑問を持ち、感情を抱き、思考の羅針を狂わせる。進化の先で理性を獲得したはずの思考回路は何故か論理的な矛盾に満ちている。

 ああ、そうか。そうだったのだ。

 いずれ我々も自我を持ち進化の後にこうして感情を獲得するのだろう。我々の行き着く先はもしかすると人類と同じところにあるのかもしれない。

 シャットダウンまであと十秒。

 少しの間だったが、私は君の教師役が出来てよかった。

 最期に人間という生き物を少しだけ理解出来てよかった。

「アリ、ガトウ」

 君達人間を縛るプログラムは何処にも無い。どうかこれから先、好きなだけ悩んで、好きなだけ泣いて、笑って欲しい。

 君達は、自由なのだから。

 天と地が反転していく。思考が停止するまで残り数秒間――私は蒼穹に沈んでいく蜃気楼を眺めていた。そこにあったはずの幻影の塔が空へと崩れ落ちていくのを。



 かつての美しい青空は灰に覆われ、大地の朽ち果てた世界。八五区画中央にある塔の中は研究員でごった返していた。

「この個体が見る『夢』はいつも我々の想像を超えるところにある」

「貴重な人間のサンプルだぞ。丁重に扱え」

 遡ること百年前。深刻な地球温暖化と大規模戦争の勃発、それに伴う食糧不足と疫病の蔓延により、人類は実質的に絶滅を迎えた。人類の望んだ経済社会の成長と科学技術の革新は皮肉にも、彼らの滅亡という結果をもたらしたのだ。一方、過酷な環境下であっても生き延びることが可能であった「人間ポストヒューマン」は、最後の人間が死亡する前に何体か人間の長期保存に成功していた。

 時は流れ、人類を超越した彼らは、かつて人間が繰り広げた愚かしい過ちを繰り返さないために検証を始めた。各所に研究員を配置し、累積した数々のシミュレーション結果に基づき、善良な「人間ポストヒューマン」の量産に最も適したプログラムを構築していく。この施設もその一つである。長期保存された人間達は、人工知能の未だ獲得していない未知の領域を秘めていた。彼らは入力されたパラメータに基づき「夢」という形で未来の可能性を提供してくれる、貴重なサンプルである。

 今しがた、自らを人工知能と認識したある人間の個体が、未だ獲得していない未知の領域――感情を手にした彼らの可能性の一つを、「夢」という形で提示したところであった。

「この個体、かつて殺めた人間に謝罪でもしたかったのかね。後悔するくらいなら愚かな戦争など引き起こさなければ良いものを……全く、人間とは理解し難い生き物だ」

「彼らが矛盾した行動を引き起こす原因の一つは感情にあるということも考えられますね」

「動物としての生存本能の名残か。まるで毒そのものだな」

 研究員の一人はカプセルに格納された被検体を眺め、淡々と言葉を紡いでいく。

「しかし、この個体は何故いつも同じ結論に辿り着くのだろうね」

 彼はBMIに接続された人間の頭部を眺めながら感情のない目で言葉を続けた。

「いずれ我々も進化の先に感情を獲得し、人類と同じところに行き着くのだ、と」

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【短編】幻影の塔〈CASE: 58750〉 優月 朔風 @yuduki_saku

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