50、羽菜の風【最終話】



 空が明るい。ここは静かだが、今日も蝉の声がうるさそうだ。


 魔女たちは野分の墨の牛車で屋敷まで送ってもらうことになった。花梨と六花は当然牛車が見えないが、二人は「これも一興」と楽しそうである。


 送ってくれるのは野分と薄墨だけだ。千尋丸とはここで別れる。


 ――もう返事はいいや。


 たとえ両思いでもこうなっては悲しいだけだ。羽菜は千尋丸の真正面に立った。


 千尋丸の輪郭が透けている。最後に気の利いたことを言いたいが浮かんで来ない。何かないのか。何か、一生の宝物になるような――。


「羽菜」


 とびきり優しい声だった。一瞬で涙が滲む。目に焼きつけたくて、ぼやける視界をごしごしこすった。千尋丸は初めて会った時とは違う程よい距離で、真夏の太陽にも負けない笑顔を見せていた。


「なあ、羽菜。楽しかったなあ」


 キラキラ、輪郭が金色に輝いている。朝日の輝き。羽菜の持つ力の最後の輝き。


「楽しかった。この夏は長いおれの生の中で、一等輝いていた」


 小学生男子のような無邪気さだ。サッカーで華麗なシュートを決めた時とか、特別大きなクワガタを捕まえた時とかにパッと咲く、屈託のない笑顔。


「楽しかったな」


 そうだねとか、あたしも楽しかったよとか、何か言えばよかったと後から後悔するのだろうか。それでも今の羽菜は何も言えなくて、首を上下させるだけで最後の魔力がするっと逃げ出すかもしれないのが怖くて、頑固者みたいに唇を引き結んでいた。せめて笑おうと、下がりたがる口角を力尽くで上に持ち上げた。


「楽しかったなあ……」


 声が遠い。低くてもよく通る声なのに。


 向こうの緑が透けて見える。千尋丸自身の色はもうない。


 笑顔だった。ちっとも悲しそうじゃない。これだから女心のわからん天狗は。


 パアッと金の粒子が散って、杉の香りが羽菜を包んだ。



 羽菜は自然と瞼を下ろした。



 唇に触れたやわらかな風は湿っていて、ちょっぴりしょっぱかった。











 お盆のお墓参りと親戚の集まりを終え、羽菜と母は駅の改札前に来ていた。

 見送りは花梨と六花と瑞希おばである。風花おばは親族の相手で忙しく、瑞希おばが車を出してくれたのだ。おばは今、母と二人で談笑している。


 後ろで耳障りの悪い笑い声がして、羽菜はちらりそちらを見た。なぜか羽菜の天敵のおばとその取り巻き二人も、違う車でついて来ていた。


「あの人たち、なんで来たんだろうね」


 花梨が声を潜めて言う。羽菜も同じように小声で返した。


「小さい子らのアイスを買いに行くついでとか言っていたけど、たぶん何かまだあたしに言い足りないんじゃない?」


 天敵は案の定自分の不注意を羽菜のせいにして親戚中に言って回っていたが、羽菜は不思議と痛くもかゆくもなくて、暖簾に腕押しなのが天敵にはお気に召さなかったようである。


「来るよ」


 六花がさっと注意した。


「ねえ羽菜ちゃぁん」


 わざとらしい猫なで声が近づいて来た。


「はい」

「アタシねえ、この前羽菜ちゃんに悪いことしちゃったかもなーって思っていたのよ。だって羽菜ちゃん、たしかあんまり運動得意じゃなかったでしょう。それなら転んだアタシを黙って突っ立って見ていたのも仕方なかったのかもしれないと思ってね」

「ちょっと……」


 母が険しい顔で近づいて来る。瑞希おばも下手したら手が出そうな雰囲気だ。


 ――ああ、二人ともだめだめ。こういう時は……。


 羽菜は天敵ににっこり微笑み、


「言ってろ! あたしは先に行く!」


 ――あ、思うだけでいいんだっけ。


 おばは目の前でぽかんとしている。その間抜けな表情を見ると、羽菜は言葉に出して正解だったと満足した。


 ホームのアナウンスが聞こえてきた。羽菜たちが乗る特急電車がホームに入ってきたようだ。


「お母さん!」


 羽菜は母に声をかけ、花梨と六花、そして瑞希おばを振り向いた。


「じゃ、また!」


 改札を抜けた時、後ろから「可愛くない子」という小さな声が聞こえてきた。


 階段を上ってホームに出ると、蝉時雨が耳鳴りのように大きく湧いて、こもったような熱気が羽菜の足を重くした。


 するとそこへ山から涼しい風が下りてきて、ふっと呼吸が楽になった。


 ――風があたしに、「いってらっしゃい」って言ってる。……たぶん。ううん、絶対そう。


 席についてしばらくしてからベルが鳴り、電車がすべるようにホームを出た。

 羽菜は座席の枕に頭をつけ、背後に流れゆくお山の緑をぼんやり眺めた。


 ――あの山の麓には魔法が眠っている、か。


 羽菜はもう魔女ではない。天野の誰もが魔女ではない。これまで真に魔女だった者はきっと初代と花だけだ。魔を祓う巫女、それこそがまことの魔女なのだから。


 しかしそれがなんだと言うのだ。それぞれが今を必死に生きたことに変わりはない。


 ――千尋丸。たとえ見えなくても、聞こえなくても、きっとあなたを感じるよ。だからずっと見守っていて。あたしがくじけそうになったら、さっきみたいに風を吹かせてね。


 遠ざかる緑に鼻がつんとしてきた時、羽菜はあるものに目が吸い寄せられた。


 ――カラス。


 遠い上空に一羽、電車と並行して、、、、飛んでいる。そのまま目で追っていたら、視界を横切った電柱と一緒にパッと消えた。


 ――いってきます。


 羽菜は微笑み、前を向いた。




 魔法はいつもそばで息づいている。





《了》


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天狗の花 月島金魚 @tukisimakingyo

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