49、天狗の卵
皆の動きが鈍くなってきた頃、少し休憩しようと誰かが言った。野分と薄墨が麦茶を持ってきてふるまってくれたのは大変ありがたかった。水に囲まれているのに水分補給できないというのは、なかなかにつらかったのだ。
羽菜と千尋丸が岩を背に二人並んで座り、湖と半分オレンジの小島を眺めていると、羽菜の右隣に瑞希おばが座った。
「ありがとうね、羽菜。あなたのお陰で、わたしは欠けた心のピースを埋めることができたと思う。
「……お母さんと、昔何があったの?」
「特に何がというわけではないけれど、彼女がわたしに良かれと思ってやることが、いつもわたしの自尊心を傷つけた。何度危ない目に遭ったか知れないし……。彼女の初飛行の話は聞いたでしょ?」
「うん」
「見えない何かに抱えられて空を飛んで失神。こんなの、今でもたまに夢に見るくらいのトラウマになって当然よ」
左側の千尋丸が「はっはっは!」と笑った。それにつられて瑞希おばも微笑んだ。
「わたしもたくさん彼女を傷つけたから、許すなんておこがましいのだけど……彼女を許すわ」
休憩が終わり作業再開してから少し経った頃、ふと顔を上げると、そばに千里がいた。羽菜と目が合うと、
「ぼくはあなたが嫌いだ」
羽菜は即座に水をすくって千里に放った。
「ギャーッ! 痛い! やめろ、何すんだ!」
「今のは花梨の分、これは六花の分、これは瑞希おばさんの分、そしてこれが――」
羽菜は千里に駆け寄り、思い切り抱き着いた。
「あたしの分!」
「ヒィッ……」
千里は硬直して直立不動になった。羽菜は抱きしめたままケラケラ笑った。
「何やってんだ……」
瞬時に千尋丸が来て羽菜を引き剥がそうとしたが、羽菜は腕に力を込めた。
「何って、和解。外国式の」
「千尋丸、助けて……。折れちゃう……」
泣きが入ったから許してやるか――その場にへたり込んだ千里の前にしゃがみ、目線を合わせる。
「これでおあいこ。……ね、恋什郎っていい名前だよ。音が綺麗。大事にしてね」
千里は目を見開いた――が、上からげんこつをもらってすぐに閉じた。かなり痛かったらしい、少し泣いていた。
朝が来る。魔女たちは疲労困憊していたが、羽菜が最後の一本に水をかける時は皆で集まり見守った。
最後の花が身を起こすと、魔女も天狗も歓声を上げた。小島はオレンジと緑に彩られ、湖に負けず劣らず輝いていた。
達成感に倒れ込みそうになったが、羽菜はバッと千尋丸の両腕を掴んだ。
「それで! この後どうするの?」
千尋丸はぼんやり辺りを見回した。
「どうするんだろうなあ……」
「はあ?」
すると湖が今までで一番強く輝いて、洞窟の入り口まで川をつくって流れ始めた。
「なに? なになになに?」
「酷い穢れを浄化しに行ったか……」
烏珠は言って、はっと小島の頂上を見た。
ひとっ飛びでそこまで行くと、彼は下を向いて動かなくなった。
「烏珠ー?」
薄墨が呼びかけると、烏珠は一度かがみ込んで檜扇の間に姿を隠し、再び現れた時には黒いダチョウの卵のようなものを手に持っていた。
「……できたか」
千尋丸の声に安堵と誇らしさが入り混じる。
「それがおれの希望だ。入山すると言った花に示した道だ。……天狗のカラスの卵になってもう一度生まれてこいと、おれは言った。お山が叶えてくれるかもしれないと」
烏珠は言葉が出ない。卵に視線を落としたまま動かない。
「そいつはもう花ではない。同じ魂を持つ新しい命、新しい天狗の仲間だ。……そして烏珠よ、そいつはお前が育てるのだ」
烏珠が千尋丸の顔を見、紫色の唇を震わせた。
感動的な空気から一変、千尋丸が突然バッと髪を振って周囲を睨み――腹から声を張った。
「薄墨! 自然坊を呼んで来い!」
「は?」
「は、じゃねえ。グズグズするな、早く行け! それから他の奴らも外に出ろ。岩戸が閉じるぞ!」
何が何だかわからなかったが、羽菜はとりあえず小島を下りた。水は一滴もなく、岩がむき出しになっている。
「羽菜、羽菜」
花梨と六花が後からあわてて追ってきた。
「急にどうしたの? 何があったの?」
「わかんない。千尋丸が外に出ろって」
「あ、そう言ったんだね」
花梨は六花と顔を見合わせ、眉尻を下げた。
「ごめん、わたしたちもう、天狗の姿も声もわからないんだ」
ズ、と地鳴り――否、戸が動く振動音が足を伝って羽菜の心臓を震わせた。
「千尋丸!」
羽菜は叫んだ。
「花梨と六花を運んで!」
「おれはお前さんの担当だ」
ドン! 体が浮くや、もはや慣れっこの衝撃を感じ、瞼の裏が明るくなった。足裏が地面に着いたところで詰めていた息を吐き出した。
目をしぱしぱさせて周囲を確認すると、そこは昨夜と同じ川の横だった。
千尋丸から花梨のステッキと下駄を受け取り、他の者の無事を確認する。
野分が瑞希おばを、烏珠が花梨を抱え、なんと千里までぜいぜい言いながら六花と熊手を抱えてきていた。花梨と六花は自分の身に何が起きたのかわからず目を白黒させていた。
ゴオッと突風が吹き抜けていった。花梨を下ろした烏珠が思わずその風を追おうとして、手の中の卵を見て踏みとどまった。
「今のは大天狗さまだな、千尋丸」
「ああ」
「……そういうことか」
「そういうことだ」
つまりはこうだ――自然坊は千尋丸にだけ入山の意思を伝え、臥せっているということにして退く準備をしていた。そして今、それを成し遂げた。
「烏珠よ、お前が入山するのはその次だ。それまでは大天狗になるおれを支え、そのカラスを育てあげろ」
烏珠は膝をつき、御神体に――入山した自然坊に向かって深く頭を垂れた。
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