48、魔女の決断



 花梨、六花、瑞希おばの会話で、花の水やりが思っていたより難しいことが伝わってきた。女の小さな両手に入る水は少なく、運ぶ間にこぼれ落ち、一度にかけられるのは一、二本。それを小島全体にやらねばならない。朝までに終わるかと問われればすでに厳しく、しかもその朝というのも時間としては曖昧で、空が白むと同時に岩戸が閉まるとしたらあと三時間。これに関しては烏珠がお山に意識を伸ばし、「感覚としては六時頃」と明言したのでタイムリミットは少し延びたが、それでも苦しいことに変わりはない。羽菜はそういう会話をすべて背中で聞き、申し訳なさに消え入りたくなった。


「隣、邪魔するぞ」


 千尋丸だった。どかっと座り、風圧で羽菜の体が横に傾いだ。

 千尋丸は腕を伸ばしてそれを受け止め、そのまま羽菜の肩を抱いた。


「……みんな頑張ってくれているから、こういうところを見られるのはちょっと……」

「頑張っているから、こっちなんて見ていない」


 ――そんなことないと思うなあ。


 二人はその体勢でしばらく黙っていたが、やがて千尋丸が言った。


「お前はあの水を飲むだろうな」

「わかんないよ。あたし甘ったれだし性格悪いから、このままみんな任せにして終わるかも」

「ついでに協調性もある。だから言っておく――流されるなよ。その場の雰囲気やみんなの頑張りではなく、自分の意思で道を選べ」

「そうしたいのは山々だけどさあ……実際、どう? 間に合いそう?」

「今のままならギリだな」

「あたし次第じゃん……」


 羽菜は膝を抱えた。そろえて置いた下駄とステッキに視線を落とす。


「あたしは自分の判断に自信がない。自分で選ぶと後で必ず後悔する。……千尋丸」

「だめだ。自分で決めろ」


 そう言いながら、肩を抱く千尋丸の手にぎゅっと力がこもった。


 ――こんなに近くにいて、ぬくもりが伝わってくるのにな。


 せっかく飛べるようになったのに。千尋丸は花を好きではなかったと知れたのに。今、相手の気持ちに手ごたえを感じているのに。


 ――ん? 待って、告白の返事もらってなくない?


 羽菜はバッと千尋丸を見た。


「千尋丸って、あたしのこ――」

「誰か来るな」


 洞窟の奥で影がちらついた。目を凝らすまでもなく、それらはあっという間に羽菜たちの前まで飛んで来た。千里と野分、そして薄墨。


「……どういう状況?」


 千里は二人を蔑んだ目で見下ろし、奥に目をやった。


「ははあ、檜扇ね。しかも枯れている。そこに水をかけて――で、何? 二人はここでサボりかな?」


「別れ話の最中だ」


 千尋丸がにやにやして言う。


「そんな感じです」


 羽菜は下駄に手が伸びた。


「冷静で良い判断だね」


 千里の返しはどちらにもかかっていそうだった。

 千里は不気味に笑んだ。


「羽菜、道を開いたのはやっぱり君だったね」


 岩戸が開いた時、皆が羽菜の力だと言った。羽菜はここまで来る途中それについて考え、答えを導き出していた。


「あたしというか、あたしたちかな」

「……どういうことかな?」

「生きたいという気持ち。これが鍵だったんだと思う」

「……なるほど」


 だがそこはどうでもいいと、千里は湖を指差した。


「あなただけが入山すべきだと思っていたが、魔女みんなで開けたと言うなら、みんな仲良くここに留まってもらおうか」


 千尋丸が辟易したように後ろの二人に文句を言った。


「おい、野分。捕らえとくならまずこいつだろうが。それと薄墨、お前は何のための見張りだ。こういう面倒な奴が来た時こそお前のキンキン声が役に――って、お前こっち側についたと見せかけてずっとそっち側か」


 薄墨はくちばしにテープを残したまま首をこっくり振った。

 千尋丸は呆れた視線を野分に向けた。


「野分よ、薄墨はもうお前のカラスじゃないんだぞ。薄墨も親離れしろ。天狗になったら一人前だ」


 千尋丸はよっこらせと立ち上がって薄墨の元へ行き、容赦なくテープを剥がした。


「いってえ!」

「痛覚はねえだろ」

「なんか振動がいてえ! ……って、そうじゃねえ。千尋丸、おいらも野分も千里の気持ちがわかるんだよ。だから手伝っていたんだよ」

「なんだよ気持ちって」


 不機嫌な千尋丸に答えたのは野分だった。


「親代わりの天狗のために何かしてやりたいと思う気持ちだ」

「おれは恋什郎に何かしてもらいたいなんて思っちゃいないが」


 千里はむっとして千尋丸を睨めつけた。


「あなたは人の女に入れ込みすぎる。あなたがそれで弱るのをぼくは見たくない」

「お前な、そういうのを独善的と言うのだ。お前は昔からおれのためだと言って――」

「ね、恋什郎」


 羽菜が割って入ると、千里はこめかみをピクピクさせながら笑みを返した。


「その名で呼ばないでもらえるかな」

「じゃあ千里、花さんは『人に十回恋をしろ』って言ったのかもしれないけれど、あたしが思うに、千里はその千里眼で人の恋をたくさん見てきて、花さんが願った以上に恋を知ったんじゃないかな。恋を知るってことは人の気持ちを知るってことでしょ。千里は恋で盲目になっている人を冷静にさせることができる。正しい道を示してあげられる」


 羽菜はずいと身を乗り出した。


「で、ちょっと相談に乗ってほしいのだけど」


 これでいいと羽菜は思った。流されるわけではない。自分の中で答えは出ているのに、甘ったれの性分がたらたら愚痴をこぼして引き留めるのだ。怖い怖いと駄々をこねる。それをバッサリ切ってほしい。


「あたしは水を飲むべきかな?」

「当然そうだね」


 早かった。居合抜きレベル。


「おい、だから流されるなって言ってるだろうが!」


 珍しく千尋丸が本気で怒った。


「流されてないよ。……怖くて足がすくんでいたから、背中を押してほしかっただけ。あたしは自分で決断するよ」


 羽菜は立ち上がった。


「水を飲む」


 心の甘ったれがつい千尋丸の顔を見た――そこに自分と同じ甘ったれを見出し、嬉しくて泣きたくなったが我慢した。


 目を瞑ったまま千尋丸に湖まで連れて行ってもらい、両手で水をすくって飲んだ。喉がカッと熱くなって、ミントのようにスーッとして、体に溶け込んでいった。


 瞼を持ち上げる。


 湖は太陽から少しお裾分けしてもらった光を蓄えているかのような輝きで、魔力なしに直視すれば目が潰れたであろうことは容易に想像できた。


 服のまま湖に入る。水は冷たいが動けなくなるほどではない。腰まで浸かって歩き小島に上陸すると、先に働いていた三名が疲労と涙を目に滲ませた。


 枯れていた檜扇は三分の一ほど復活していた。茶色く横たわっていても水をかければ身を起こし、緑の葉をつやつやさせてオレンジ色の花を咲かせる。


 両手に水を溜め、花の根元にかける作業を繰り返す。小島を上って下りて、何度も何度も。だんだん水の香りより花の良い香りが強くなり、足が鉛のように重くなった。


 何か手伝えることはないか探していた天狗たちは、魔女が小島の上のほうの作業に入ると、抱えて湖まで送り迎えした。最初は勢いが激しくて水をこぼしてしまい魔女たちに叱られたが、慣れてくるとお互い冗談や談笑が出るようになった。


「あ」


 と、花梨がつぶやいた。


「どうしたの?」

「……薄い……」


 花梨は目をこする。すると六花も、


「実は、ちょっと前から私も」


 と、眉を八の字にして微笑んだ。


「急ごう。タイムリミットはこっちのほうが早そうだから。檜扇も湖も見えなくなる前に終わらせないと」


 六花の言葉に花梨は軽く「そうだね」と返したが、羽菜はその握ったこぶしが震えていることに気がついた。


 ――一度飛ぶことを知ってしまったら、きっといつまでも空が恋しい。


 いつぞや思ったことだ。羽菜は自分も無意識に握っていたこぶしを開き、かわりにお椀を作って輝く湖に深く沈め、引き上げた。満タンに入れた水は運ぶ間に少しずつこぼれ、残ったほんのちょびっとを羽菜は大事に花の根元に吸わせてやった。


 花は身を起こし、オレンジ色の笑みを力いっぱい輝かせた。


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