【8】真の魔女
47、明暗
「たしかに枯れていた。
先行して中の様子を見てきた
足場は悪いが、洞窟全体が湿って青白く発光しているので、
やがて一行は前方に強い輝きを見た。湖の光で間違いないだろう。夢で見た景色とまったく同じものを現実に見るというのは奇妙なものだと思いながら、羽菜は気持ちが高ぶった。
近づく水の匂い。徐々に目を開けていられなくなってきた。頬の上の筋肉が緊張する。腕で光を遮っても細かい瞬きが止まらず、これでは小島に渡ることなんて不可能だと思われた。
「ここだ」
千尋丸の声が響き、広々とした場所に出たことがわかった。その頃にはほとんど目を瞑っていたがそれでも光を防ぎきれず、羽菜は体ごと後ろ向きになった。横を見れば、
「なんて神秘的な……。ね、花梨――あれ、三人とも後ろを向いてどうしたの?」
「むしろなんで母さんは平気で前を向けるの……って、そっか、ちゃんとした魔女ってこういうことか……」
花梨と六花と薄目を見交わす。困った。このまま後ろ向きでは何もできない。
「千尋丸、あの小島の檜扇……枯れているのは、もしや」
烏珠が言うと、千尋丸がううむと唸った。
「光と水、両方足りていないからだな。ここの水をすべての花にかけてやる必要がある」
「柄杓を取ってくるか」
「いや。物も、おれたち天狗も湖に触れられない」
「なにゆえわかる」
「さっき指先を入れてみた。電撃を喰らったかのような痛みが走った。同士討ちの比じゃなかったぞ」
「ではどうするのだ」
千尋丸は少々口ごもった。
「……こんな湖、五百年前にはなかった。あの小島もただの丘で、寂しい場所だった。全部花がやったんだろう。雨が降ればお山が水を含みやがて川として流れていくように、日の光を集めてここに溜め、檜扇の栄養にしようとしたのではないか。それを天狗に邪魔されぬよう、天狗がこの水に触れられぬようにしたのだろう。……そうか、そう思うと、これこそがあの娘の呪いだな」
千尋丸が瑞希おばに「湖に手を入れてみてくれ」と言う。人なら大丈夫なはずだからと。たしかにおばは造作もなく水をすくい上げた。手のひらからこぼれ落ちる透明な音がした。
「次は裸足になってそのまま入ってみてくれ。大丈夫だ、濡れないはずだ」
おばは服のまま水に浸かった。
「本当だ、濡れないわ。ジーンズもTシャツも乾いたまんま。というより、服を素通りしているみたい。不思議ねえ。ああ、とても綺麗」
「瑞希、その水は飲むなよ。だが……」
千尋丸は羽菜たちを追い越し、くるりと振り返って三人娘と向き合った。
――あれ、千尋丸……?
千尋丸の彫刻のような顔が固くこわばっているように見え、羽菜は不安を覚えた。
そしてそれはすぐに現実のものとなる。
「これからおれはお前さんらに酷なことを頼む」
千尋丸は三人を順番に見た。
「あの水を飲んでほしい。飲めばお前さんらも湖を直視できるようになるだろう」
「なっ、千尋丸、それは……!」
烏珠を目で制し、千尋丸は言った。
「そう、直視できるようにはなる。そして――朝までには魔力のすべてを失うことになるだろう」
――え?
困惑して千尋丸を見返した。花梨と六花も愕然として目の前の天狗を見つめていた。
千尋丸の眉間のしわが深くなった。
「お前さんらの魔力はすでに傷ついている。おれが瑞希を攫ったのはそれが理由だ。傷ついた部分に神聖で純度の高い力が触れれば傷口が広がり、猛烈な勢いで残りの魔力を放出することになるだろう。その覚悟を決められるなら、手を貸してくれ」
「それは飛べなくなるってことですよね」
六花が言った。
「そして天狗の存在もわからなくなる……」
千尋丸は無言で点頭した。
「羽菜!」
花梨の声だ。羽菜の目線は千尋丸の足もとにあって、遅れて自分が座り込んでいることに気がついた。
視線が足を辿って上を向く。愛しい烏天狗はいつもの余裕ある大人の表情ではなく、何とも表現しがたい顔をしていた。例えば、痛みに必死に耐えているかのような。
――千尋丸を感じることができなくなる。
深い色の瞳や高い鼻、すぐに意地悪を言う唇も視えなくなる。羽菜の好きな、低く艶のある声も聞こえなくなる。抱きしめられた時の杉の香りも、力強い腕の温かさも全部、何もかもがわからなくなる。
――二度と会えなくなる。
頬が濡れた。息が苦しい。でも顔を下げることはしなかった。一秒でも長く、たくさん千尋丸を見ておきたかった。
「わたしが一人で全部やればいいでしょう」
瑞希おばが娘たちを庇うように言った。烏珠がそれを却下した。
「一人ではとうてい間に合わぬ。洞窟の入り口を長時間開けてはおけぬのだ。朝までがギリギリか。だが――」
烏珠は千尋丸に向いた。
「檜扇に水をかけて、その次はどうする。何が起こるか知っているのか」
「知っている」
千尋丸は断言した。
「次こそが重要で、これもまた、おれが言えぬことなのだ」
沈黙が降りた。
羽菜は花梨と六花が目を見交わしていることに気がついていた。二人は承諾したいのだろう。だがそうすれば、羽菜にもうんと言わせることになる。それを気遣い、返答できずにいる。羽菜のせいで大事な時間を無駄にしている。
――うんって言わなきゃ。やるって言わなきゃ。言わないと――。
無意識に下駄とステッキを抱きしめていた。
「羽菜」
花梨がそばに来てしゃがみ、羽菜の肩にそっと触れた。
「わたしと六花はやるよ。でも羽菜はギリギリまで考えていて。水やりはわたしたちで間に合わせる。羽菜は参加してもしなくても、どっちでも大丈夫」
「でも、……でも、あたしだけ……」
「私たちはじゅうぶん飛んだ」
六花も来て反対の肩に手を置いた。
「天狗が見えなくなっても別に困らない。けど羽菜はそういうわけにもいかないでしょう。ゆっくり考えて。……ま、羽菜の出番なんてないかもだけど」
そうして二人は水を飲んだ。
羽菜は一人後ろを向いたまま、背中で三人の立てる音を聞いていた。視界に映る洞窟の淡い発光を中途半端に思い、腹が立った。
こんな所まで来て、いったい自分だけ何をやっているのだろうか。
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