46、母娘喧嘩



「さて」


 と、千尋丸は森を振り返った。


「他にも数名、盗み聞きしている輩がいるよなあ」

「え?」


 羽菜が驚いてその目線の先を追うと、ちょうどガサガサ茂みが動いて、まず薄墨、その後から娘が二人姿を現した。


「花梨……! 六花!」


 娘たちは歓声を上げ、駆け寄って互いの無事を喜び合った。娘らの後ろに点々と転がる下駄や熊手が歓喜の激しさを表している。羽菜は川のそばにいる時間が長かったので体が冷え切っていたが、抱きしめ合ったぬくもりに心まで温かくなった。


「なんで? どうやってここまで来たの?」


 興奮しながら問うと、花梨と六花が一緒に後ろを振り向いた。後方に立つ薄墨は例によってくちばしが出ていたが、なぜかそのくちばしをテープでぐるぐる巻きに止められている。


 花梨がふふんと胸をそらせた。


「あの後すぐに千里と薄墨は去ったんだけど、薄墨だけこっそり戻って来てね、わたしたちをここまで案内してくれたんだ。薄墨はね、気配を薄めることが得意なんだよ。でもすぐに口を開きたくなっちゃう上に、しゃべればキンキン声だから、宝の持ち腐れなんだって。それならってことで、六花がああしました」


「鬼じゃん……」


 羽菜がテープを取ってあげようと薄墨に近づくと、薄墨は自分で剥がすからと身振り手振りで伝えてきた。――なになに、どうぞ話を進めてください、と。


「それより羽菜、怪我はない? なんかあんたボロボロだよ」


 六花に言われて初めて自分の惨状に意識がいった。


 ――あーあ、制服のスカート……。


 ドロドロで、ちょっとほつれている気がする。シャツも白ではなくほぼ茶色だ。

 羽菜はちらりと千尋丸を見た。千尋丸は「ああ」と気がついて、


「似合ってるぞ、制服」

「やかましいわ」


 ズ、と地鳴りがして地面が縦に揺れた。


「え、地震! わ、わ……」


 揺れは数十秒ほどだったが、一同を再び問題の前に並び立たせた。


「千尋丸」


 と、花梨が固い声で呼んだ。


「母さんは無事なんだよね?」

「無論」


 千尋丸は瀑布を見上げた。


「あの裏にいる」




 洞窟は滝の中央付近の真裏にあった。そこまで皆で飛んだが、その時羽菜は花梨にステッキを返そうとした。ところが花梨はそれを断った。


「今は使ってよ。わたしは人の後ろに乗ることの快適さに気づいてしまった」

「羽菜ー、うっかり私が花梨を振り落としちゃったら、拾ってね」


 この時までは花梨も六花も冗談を言う余裕があったが、滝の裏の窪み、否、塞がれた洞窟の入り口に降り立つと、岩壁の前に立つ女性を見つけて息を呑んだ。


 それは羽菜も例外ではなかった。瑞希おばの雰囲気がいつもと違うように感じる。屋敷にいる時は笑みを見せないおばが、今は満面の笑みを湛えていた。


「花梨。夜遊びなんかして、あんたは本当にわたしの言うことを聞かないんだから。――なぁんて、今日は叱る気分になれないわ。花梨に今のわたしを見てもらえるのが嬉しくて」

「母さん……? 何言ってんの? わたしがどれだけ心配したと思ってんの?」


 近づいていく花梨の足取りと言葉に怒りが灯る。


「羽菜と六花も一緒に母さんを助けようとしてくれたんだよ。何ニコニコしてんの?」

「ごめんね」


 瑞希おばは優しい目で言った。


「母さん、嬉しくて止められないの。やっとあんたが望む母親になれると思って」

「何それ……?」


 背後でドウドウと分厚い水が鳴る。ここが無音でなくてよかった。無音だったら、次の花梨の怒鳴り声で全員飛び上がるところだった。


「何してんの? ほんとにさあ!」


 娘の叫びに、母はきょとんと目をしばたたいた。


「嬉しくないの? ……あ、わからない? 飛んでないもんね。でもね、母さんこう見えて本物の魔女になれたんだよ。体の内側を力が漲っている感じがするの。あんたいつも言っていたじゃない、母さんのことが恥ずかしいって。これでもう恥ずかしくないよ」


 花梨は銃で撃たれたみたいに後ろによろめいた。そばにいた六花が咄嗟に支えた。


「言った……けど、母さん」


 花梨は涙声になった。


「だって、母さん……」

「何? なんなの」


 おばが苛立ち始めた。


「あんたが一番喜んでくれると思ったのに。何が不満? いつも不満そうな顔でこっちを見るじゃない。わたしだって飛べない自分が恥ずかしいわよ。だからあんたにはちゃんと〈花〉の字を入れてあげたのに、あんたまでわたしを蔑んだ目で見るのはどうして? わたしをストレスの捌け口にしてそんなに気持ちいい? どいつもこいつも……! ああ……」


 おばは岩壁を――岩戸を見上げた。


「疲れちゃったな……」

「お前じゃ無理だと言ったはずだ。入山しても意味がない」


 千尋丸が太い声で言った。おばは何も言わずに岩戸に額をつけ、肩を震わせた。

 羽菜は千尋丸の袖を引っ張った。


「なんで瑞希おばさんじゃ駄目なの? あと……これも聞きたかったんだけど、正しい魔力の発現方法が御神体の水を飲むことだってよくわかったね」


「確信があったわけじゃねえ。力を飲めば力になるのではと思っただけだ。ここでなくとも、巫女なら神域で水を飲むこともあろう。……入山した花と対等の魔力があれば、何があっても――呪いが襲いかかっても対処できるだろうと思った。だが水を飲ませて発現した魔力を見て、あいつほどの力がないことはすぐにわかった。それでお前じゃ無理だと伝えて謝った。しかし聞かんのだ。やると言って譲らん」


 瑞希おばは岩壁から離れ、こちらを向いた。また微笑んでいたが、今にも壊れてしまいそうな笑みだった。


「辛酸を嘗めてきたわたしがお山の危機を救うことができるなんて、そんなのまるでこのために生まれてきたみたいでしょう」

「違うよ!」


 花梨の悲痛な叫びが滝の音に勝った。


「母さんはわたしと出会うために生まれてきたんだよ! 喧嘩したり楽しいことばかりじゃないけれど、わたしや父さんと生きるために生まれてきたんだよ!」

「おばさん、花梨は寂しいんだよ」


 六花が前に出た。


「おばさんにつらく当たったのは、母親に素直に甘えられなかったから。おばさんが羽菜のことばっかり見ているから。……わかってあげて」


 花梨がしくしく泣き出した。

 おばは困惑しているようだった。


「どうしてわたしが花梨より羽菜を見ていると思うの? そんなはずないじゃない」

「だって母さん、昔からいつも羽菜のことばかり。あんたは飛べるからいいでしょって突き放されて……。初めて飛べた時も、全然褒めてくれなかった。羽菜を乗せてあげなさいねって、そう言った」


 そこでようやく理解したおばは手で口を覆った。


「ああ、ごめんね、花梨。わたしったら……自分の経験ばかり優先させていたんだね。ごめんね。あんたにはなんて可哀想なことを……」


 ううん、と花梨は返事する。


「わたしも、ひどいこと言って、ごめん……」


 最初は指先が触れ、握り合い、ぎゅうっと抱きしめ合って母娘ははこが嗚咽する。羽菜は迷ったがそこに行き、おばの背に触れた。


「おばさん。あたしはおばさんにも花梨にも助けられたよ。二人のお陰で天野に里帰りしても孤立しなくて済んだんだよ。……ありがとうございました」


 両方から手が伸びてきて、羽菜は二人の間に挟まれた。体中に響く滝の音がわだかまりや悲しみ苦しみをすべて拾い上げて、水と一緒に落としてくれるようだった。


 ――あたしもお母さんに会いたいな。帰ってこの夏のことを話すんだ。楽しいことばかりじゃなくても、生きるために生まれてきたんだよって、あたしもあたしなりに伝えてみたい。



 ズズズ……



 立っていられないほどの地響きと共に岩戸が横にずれていく。

 全員呆けたように立ち尽くしたり座り込んだりして、それが終わるのを見届けた。



 道が、開かれた。


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