都会で深呼吸
すみはし
都会で深呼吸
就職のために上京。我ながらいいアパートに越してきた。
古いアパートではあるが作りはしっかりしているし、都会の割にかなり家賃も安い。
大家さんも優しくて、都会のお父さんみたいでいい人そうだ。
多少壁が薄いが、生活音も鼻をかむ音が聞こえるだとかいう都市伝説みたいなことはなく、精々上の階の人がものを引く音だとか、水道周りの音だったり、人を呼んでワイワイと話しているときの声くらい。
そもそもがうるさい住民もおらず、静かにしている人が多いのだろう。飲み会がごく稀に行われているか、家族が来て小さい子がはしゃいでいるか、そんな程度だと思う。
むしろお隣さんは人当たりのいい綺麗なお姉さんで、同郷から越してきたというので玄関先で会った時は挨拶から世間話を少し。
「やっぱり都会って田舎と比べると水道水とか美味しくないものなんですね」
「まぁそうですね、私浄水器付けましたもん」
「やっぱり必須ですかねぇ…」
人が多い、それが上京してきて初めて思ったことだった。
水が不味い、それが上京してきて次に思ったことだった。
集合住宅だからというのもあるんだろうなと思いながら僕も真似して浄水器を付けた。
このアパート、コンビニやスーパーも近く立地もいいのだが、前が大通りになっており車がよく通る。
そのせいもあってから空気もなんとなく悪いようで引っ越したての疲れた体には澱んだものが溜まっているように感じた。
少しでも空気を良くしようと空気清浄機を導入することにした。
都会の澱みを吸ってくれるのかどうかは分からないが自室の空気はきれいになったような気はする。
そして次に僕は窓辺で観葉植物をいくつか育て始めた。
家に一人で帰った時にも何かが出迎えてくれている気がして気分も良い。
「最近空気清浄機と観葉植物を導入して、空気を綺麗に保とうと思って」
「わぁ、素敵ですね。効果ありますか?」
「そうですね、気の持ちようかもしれませんけど、排気ガスの汚い感じとかもなくなって、外と比べると深呼吸したくなるくらいです」
「ふふ、私もそういう空気に触れてみたいです。植物、導入しようかしら」
お隣さんとそんな話をしながら今日も植物に水をやる。
こんな感じですよ、なんてお隣さんを呼ぶ口実も出来たかもしれない。
ニヤニヤしながら缶ビールを開けてエア乾杯。
少しだけいつもより美味しい気がした。
一人酒盛りも軽く終え、明日も休みだし、と何となく部屋の片付けでもしようかと思い立ち、雑に散らかったままの服や本をまとめていく。
部屋を見回しながら片付けているとふと気づく。
お隣さんとの壁に穴が空いていることに。
そういえば数日前にゴンッという音が壁に響きお隣さんの悲鳴が聞こえたのを思い出した。
「ごめんなさい、タンス移動させようとしたらぶつけちゃって…」
と隣から壁越しの謝罪が大きめの声ではっきり聞こえてきた。
「もしキズとかそちらまで影響があったらおっしゃってくださいね! すぐ大家さんに報告して修理をお願いするので…」
お隣さんはその後申し訳なさそうに、近くの美味しいパン屋さんのパンを手土産に謝りに来ていたので、そのときのものかもしれない。
それは正確には穴というか、人差し指くらいの長さをしたヒビに近かった。
僕の大体肩くらいの高さのところにあり、少しヒビが拡がっている部分もあるので、目を細めれば隣の部屋が見えてしまいそうだった。
もしかして、タンスを移動させた後なら、部屋が覗けたりするのだろうか。
僕は邪な考えがわいてきてしまうのを取り払うように首を振った。
振ったが…やっぱり気にはなってしまう。
女性の一人暮らし、覗いてみたい。
しかも綺麗な女性。
我ながら気持ちが悪いと思いながらも1度だけと心に誓いながら恐る恐る顔を近付ける。
スゥ-ッ スゥ-ッ
近づけようとすると風のような音がヒビの方から聞こえてきた。
風…ではない。
よく聞いてみると
スゥ-ッ ハァ- スゥ-ッ ハァ-
呼吸音のように聞こえる。
近づけた顔の先は日々に押し当てられた口、視線を上げていくとその上にはもちろん鼻、目とお隣さんの顔を辿ることになった。
お隣さんはこちらと目が合ったのに気付くと
「あは、こんばんは、空気、いいですね、きれいな空気」
と呼吸を止めることなくこちらの部屋の息を吸っては少し顔を俯けて吸っては俯けてを繰り返しながらそう言った。
「あっ、大丈夫ですよ、二酸化炭素はうちの部屋で吐いてるんで、吸うだけなんで、大丈夫です、深呼吸、空気いただくだけなんで」
普段話す時と何も変わらない様子でお隣さんは続けた。
引っ越そうと思った。
都会で深呼吸 すみはし @sumikko0020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます