後編

 暁闇ぎょうあんが霧と共に晴れ、戦場が一望出来るようになった。関ヶ原一帯はあちこちで激しい戦闘が行われているが、物見の報告などから西軍が優勢とのこと。この場に立つ島津勢も戦に加わるべきなのだろうが、義弘は床几から微動だにしない。

 この地に布陣した時から、義弘は将兵達にこう伝えていた。

『儂が下知するまで、戦に加わる事は許さん。我等に近付こうとする者は敵味方問わず追い返せ』

 正直なところ、義弘は今回の戦に臨む義を見つけられずにいた。“義”とは道理、意味、題目、筋、それを一言でひっくるめたものだが、この“義”こそ重要だった。そもそも、武士は人殺し集団や戦闘狂ではない。先祖代々受け継いできた土地を守る、一族郎党の繁栄を目指して勢力を拡大する、矜持や面目を貫く、それを体現する為に“戦”という行動を起こすのだ。

 将兵達の命、島津家の名。その両方を背負っている義弘は、明確な義を見出せない以上は軽々けいけいに行動へ移るつもりはなかった。

 関ヶ原の各地で激戦が繰り広げられている中、息を潜める島津勢。床几に座る義弘の耳に、時折島津勢による発砲音が届く。東軍の諸将も静まり返る島津勢を不気味に思ってか、攻め寄せる気配は見られない。

 刻限が進んだ頃、前の方で豊久が何かに怒鳴る声が微かに聞こえた。暫くして、明らかに苛立った様子の豊久が現れる。

「石田家の八十島やそじま何某なにがしが来ました」

「うむ」

「加勢を頼みに来たのはいいですが、馬上で物申したので追い返しました」

 豊久の報告に、義弘は「そうか」と一言返す。

 今回の戦で実質的な総大将である石田三成からの使番つかいばんならば、通常だと島津家の将か大将である義弘へ通すのが筋だ。しかも、今回使番を務めた八十島助左衛門すけざえもんは石田家における島津家取次を担当した者で、島津家との接点もある人物だ。それを相手の言い分も聞かずに追い返したのは理由がある。緊急時であっても相手が目下の者でない限りは馬に乗っている者は一旦下馬しなければならないのに、余程慌てていたのか助左衛門は馬上から言ってしまったのだ。只でさえ心が冷え切っている島津家の面々にこの非礼は火に油を注ぐ行為に等しく、応対した豊久は『今日は各々が好き勝手にやると仰られた、そういう認識でいいだろ?』とけんもほろろに突っねたのだ。

叔父貴おじき

 報告を終えた豊久が、声を掛けてきた。その声色に何かを感じ取った義弘は甥の方に顔を向ける。

おい達は叔父貴の為に戦う。色々思うところはあるかも知れんけど、それだけは覚えとってくれ」

 それだけ言い残して、豊久は前線へ戻って行った。豊久は元亀元年〈一五七〇年〉生まれで三十一歳、自分の半分も生きていない若者の言葉は、義弘の心に深く刺さった。

 体面とか思惑とかしがらみとか、気を惑わしたり削いだりする事ばかりに着目していて、本質を忘れていた。“薩摩・大隅隼人はやとの名に恥じない振る舞いをする”、それに尽きる。古代より脈々と受け継がれてきた隼人の精神にのっとり、島津の生き方を貫くまでだ。

 自分の中で一本の確たる芯が通ると、目の前に見える世界もガラリと変わった。無意識の内に丸まっていた背中も真っ直ぐ伸び、顔つきも引き締まる。心を覆っていたもやも晴れ、思考もスッキリしている。ただ漠然とときが過ぎるのを待っていた状況とは一変し、義弘は刻が来るのを待っていた。

 時間の経過と共に、戦況も変化していく。総数に対して稼働人数が少ない西軍が数で上回る東軍を相手に何とか善戦していたが、松尾山に陣取る小早川勢が大谷勢へ突っ込んだのを機に戦況は一気に東軍優勢へ傾く。一度は押し返した大谷勢だが小早川勢に触発される形で新手の寝返り勢が発生し、壊滅。辛うじて保たれていた均衡が崩れ、小西・宇喜多勢も波に押されるように潰走を余儀なくされた。笹尾山に陣する石田勢も敵勢の殺到に持ちこたえきれず、三成も敗走するに至った。

 大勢たいせいは決した。関ヶ原の戦いは東軍勝利の結果は誰の目から見ても明らかだったが、ここに来て義弘は主立った者達に集まるよう命じた。


「引き揚げるぞ」

 豊久や重臣などが顔を揃える中、開口一番に言い放つ義弘。

 しかしながら、関ヶ原一帯には敵の大軍勢が雲霞うんかの如く盤踞ばんきょしている。開戦以降一貫して非戦を貫いてきたとは言え、引き揚げるから道を通してくれるとは思えない。幾ら大将である義弘の命であっても、自ら死にに行くような行為に皆躊躇ためらいの色がにじむ。

れど、叔父貴……」

 皆の思いを代弁するように、豊久がおずおずと声を上げる。どう話すべきか迷っている甥を制するように、義弘が先に口をひらいた。

「コソコソ逃げるのは好かん。ここは一つ、真っ直ぐ突き進もうではないか」

 その一言で義弘の言わんとしている事が分かり、居並ぶ面々の目の色が変わる。

 西軍の大将達は敗れ逃げて行ったが、島津勢は違う。まだ戦ってないのだから、勝っても負けてもいないのだ。自分達は故郷へ帰る、その道に立ち塞がるなら誰彼構わず突破する。これこそ隼人らしい振る舞いではないか。義弘はそう問い掛けたのだ。

 当然の事ながら、敵中を突破するので厳しい戦いになる。全滅の恐れも十二分に考えられる。それでも、誰も義弘の提案を止めようとはしなかった。寧ろ、意気に感じる者の方が圧倒的に多かった。

 皆の顔を一度見渡し、異論が無い事を確認した義弘はおごそかに告げた。

「急ぎ、出陣の支度を。遅れる者は置いていくぞ」


 陣を払い隊列を整え直した島津勢は、決戦の余韻がまだ残る関ヶ原を東の方へ向け進み始めた。騎馬武者を前方に揃え、歩兵はその後に続く。先陣を務めるのは豊久で、その周りを勇士で囲む。

 まず目の前に見えるは福島正則勢。突如動き出した島津勢を遠巻きに眺めていた福島勢に対し、豊久の周りに居る者達が馬上で予め火縄の点いた鉄砲を構える。

「放て!」

 豊久の命で、一斉に引き金を引く武者達。まさか撃ってくるとは思っていなかった福島勢は被弾者を多数出すも、応戦する事はしなかった。それどころか、塊になっていた軍勢を島津勢が通る為に道をける有様だ。この時、正則は将兵達に対し「絶対に戦うな!!」と厳命したとされる。根っからの武人の正則は戦う事に存在意義を見出す人物だが、朝鮮での戦いで島津の戦いぶりを知っていたのと“なり振り構わぬ死兵の島津に噛み付いても痛い目を見るだけだ”と悟っていた事が今回の判断に大きな影響を及ぼした。

 福島勢を突破した島津勢の前に次に見えてきたのは、松平忠吉・井伊直政の軍勢。その後方には総大将の家康が居る本陣があるだけに、道を空けようとしない。それでも鉄砲を撃ち矢を放ち、さらに騎馬武者の突貫で無理矢理道をこじ開け、強行突破に成功する。

 近寄ろうとする者が居れば飛び道具を放ち、前を塞ぐ者が居れば刀や槍で薙ぎ倒し、後ろから追いすがろうとする者は歩兵が仕留める。それはさながら、“全てを破壊しながら突き進む水牛バッファローの群れ”のようだった。


 その後、家康本陣の手前で進軍方向を変え、伊勢街道方面へ。強行突破の代償は大きく、兵数をかなり減らしてしまった。また、一度は突破を許した東軍も島津勢を逃すまいと猛追。その対応に幾許いくばくかの兵が離脱する事を繰り返し、五百程度になっていた。

 このまま進んではいつか全滅してしまう。大将の義弘に薩摩の地へ生きて帰ってもらう為に島津勢はある決断を下す。義弘には数百の兵と共に先行させ、残った部隊は数人から十数人単位の組を作って足止めしようというのだ。俗に“捨てがまり”と呼ばれる戦法は徳川勢を大いに苦しめ、井伊直政はこの時に負った傷が元で病死するなど小さくない痛手をこうむる事となる。

 将兵達の命懸けの足止めもあり、義弘は薩摩へ生還を果たす。この時一緒に故郷の地を踏んだのは八十名前後とされ、如何にこの撤退戦が過酷なものだったかがうかがい知れる。しかし、この“島津の退き口”が与えた影響は大きく、寡兵ながら大軍勢を突き破って進軍した事が強く印象づけられた家康は、戦後処理で関ヶ原の場にありながらも島津家は本領安堵とせざるを得なかった。


 戦う義を見出せなかった義弘だが、義を貫いた事で結果的に島津家を救った恰好かっこうだ。

 この島津家が三百年の時を経て再び徳川家へ牙を剥くことになるが、それはまた別のお話――。

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その戦に義はあるのか 佐倉伸哉 @fourrami

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