その戦に義はあるのか
佐倉伸哉
前編
目の前で繰り広げられる戦を、
笹尾山と
その老武者の名は、島津“
天文二十三年〈一五五四年〉に初陣を果たしたのを皮切りに、各地を転戦。兄の義久が家督を継ぎ九州制覇へ向けて攻勢を強める方針を打ち出すと、義弘は兄に代わって総大将を務めるなど島津家の版図拡大に多大な貢献をした。豊臣秀吉による九州征伐に敗れた事で九州制覇の夢は
義弘は豊臣政権の担当窓口となったものの、兄・義久が豊臣家と距離を置いていた
日本へ帰国後も島津家内部の内紛や義久・義弘の間に隔たりが生じるなど対応に苦慮する事が多かった。豊臣家内部の権力争いにも義弘は心ならずも巻き込まれ、
初陣以来、島津家を武の面から支えてきた義弘。祖父の
(
しかめっ面を浮かべる義弘は腕を組みながら戦況を見つめる。
そもそも、島津家の
しかし、秀吉没後は家康が島津家へ急接近する。それまで接点を持ってなかったが慶長三年十二月に家康の方から伏見の島津屋敷を訪れたのを契機に、島津領内で豊臣家の蔵入地となっていた五万石を島津家へ返還するなど、
豊臣政権内で次の覇権を巡って暗闘を繰り広げている両名から秋波を送られた義弘だったが、時を追う毎に情勢は緊迫の度合いが増し、どちらかの陣営に属さなければならない空気が
長い付き合いの三成か、新しい付き合いの家康か――義弘が選んだのは、後者。
理由は二つ。第一に、三成は自ら
慶長五年六月、国許へ帰国していた上杉景勝に『不穏な動きがある』との通報が寄せられた事に端を発した会津征伐が決定。九州最南端の島津家に家康は参加を求めなかったが、代わりに『
家康が大軍を率いて東国へ出発すると、時の権力者が居なくなった畿内では国許へ帰っていた毛利輝元が上洛したり奉行衆の面々が頻繁に密談を行うなどきな臭い雰囲気が出始める。そして――七月十七日、奉行三名の連名で『内府ちがひの条々』が発布。
この事態は家康も予見しており、伏見城に股肱の臣である鳥居元忠を残していた。義弘も家康の求めに応じる形で手勢を率いて伏見城へ入ろうとしたのだが――。
(
思い出すだけでも腹が立ってくる。眉間に寄る
伏見城を預かる元忠は「主から聞いてない」と義弘の入城を拒否。それでも義弘は家康の要請に応えるべく交渉を試みるも、そうこうしている間に大坂から徳川追討の軍勢(以下西軍)が到着し、西軍へ吸収され逆に寄せ手へ組み込まれ奮闘した。
義弘の手勢一千では到底足りず国許の義久へ援軍を求めるも、義久は「島津家とは関わりのない事、関わりたくない」と拒否。ただ、「義弘の求めに応じる者については止めない」として将兵個人の意思による参加を黙認した。義弘を慕う者、天下分け目の大戦に臨みたい者が手弁当で本国から駆け付け、甥・
西進してくる徳川勢(以下東軍)に備えるべく美濃方面へ送り出されるも、東軍の先遣勢が岐阜城へ迫る中で墨俣に駐留していた豊久率いる手勢が味方から取り残されたり、前日に家康へ夜襲を仕掛けるよう三成へ進言したものの
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