これが本日最後のチャンス

烏川 ハル

これが本日最後のチャンス

   

 シルキィには三分以内にやらなければならないことがあった。

 これが本日最後のチャンス。それくらいの状況は、毎日の習慣から自然に、シルキィにも理解できていたからだ。


 シルキィは猫である。

 だから「三分以内に」といっても、具体的な「三」という数字までは認識していない。

 わかっているのは、飼い主が使っている白い物体。マグネット式で冷蔵庫に貼り付けてある、キッチンタイマーだった。

 そのスイッチを押してから、ピピピッとなるまでの時間。これが三分にセットされており、その三分間こそが、シルキィが今日おやつをもらえる最後のチャンスなのだ!

 なにしろシルキィの飼い主は、三分経ったら出来上がったカップラーメンを食べて、食べ終わったら寝てしまう。そして朝まで起きない。

 だから、この三分間の間に飼い主の気を引く必要があった。それも悲しませたり怒らせたりするのではなく、楽しませたり喜ばせたりする方向性で。


「にゃあ」

 シルキィは鳴きながら飼い主の足元まで歩み寄り、足の甲の上に、ピトッと手を乗せてみた。

 それまで飼い主はテーブルに頬杖つきながら、ボーッとカップラーメンを眺めていたのだが、ハッとした様子で、シルキィの方を見つめ始める。

「あら、シルキィちゃん。それって……」

 飼い主の表情が、パッと明るくなる。

「……『お手』のつもりかしら? だったら足じゃなく、私も手で応じないとね」

 椅子から降りた飼い主が、身をかがめて、シルキィに目線を合わせる。続いて手のひらを猫に向けると、そこへシルキィがお手。いや『お手』というよりも『ハイタッチ』と呼ばれる仕草だ。

「まあ、お上手! シルキィちゃん、いつも可愛いわねえ!」

 飼い主が猫を抱きしめて、キャアキャア騒ぎ始める。

 ひとしきり撫で回した後、飼い主は少し落ち着いて、猫を解放した。

「ちょっと待っててね、シルキィちゃん。今、あなたのおやつも持ってくるから!」


「にゃあ!」

 歓喜の鳴き声を上げるシルキィ。

 飼い主がエサ皿に盛り付けてくれたのは、シルキィの大好きなキャットフード。少しずつ小袋に分かれて入っているのだが、その袋を開けるたびに、いつも魚介の良い香りがプーンと漂ってくる。濃厚なエキスが材料として使われているらしい。

「そういえば今日、職場の昼休みに男の人たちがね。これの名前を話題にしてて……」

 猫が喜んで食べるさまを見ながら、飼い主がふと呟き始めた。

「……それが耳に入ってきてね。私、びっくりして『猫、飼ってるんですか? それとも犬?』って、会話に割り込んじゃったんだけど……」

 彼女のペットは、シルキィ一匹だけ。犬を飼った経験はないが、同じメーカーがキャットフードだけでなくドッグフードも作っていることや、どちらも同じ商品名であることなどは知識として知っていた。

「……どっちも違ってて、実はその人たちが話してたのは野球の話でね。新しくプロ野球に参入する球団の本拠地球場の名前がね、これとおんなじなんですって。『すごい偶然ですね』って言ったんだけど、それも違ってて、本当にこれなんですって」

 キャットフードやドッグフードを作っているメーカーが、野球場の命名権を購入。プロ野球のシーズンが始まれば、シルキィも大好きなキャットフードの名前が、試合中継のたびに連呼されることになるらしい。

 そんな情報を新しく入手した飼い主は、得意げに猫に話しかけるが……。

「すごいよね。プロ野球にお金出すほど会社が儲かるなんて、それだけみんながこれ買ってる、ってあかしだよ。でも納得だよね、ほら、シルキィちゃんも大好物ですもの!」

 とうのシルキィの方では、きちんと聞いていなかった。いや、たとえ真面目に聞いていたとしても、猫の頭では理解できなかったかもしれない。

 シルキィにとって重要なのは、本日最後の機会に、きちんとおやつがもらえたこと。それも一番おいしいのをもらえたのだから、きちんと「やらなければならないこと」にも成功したのだろう、ということだけだった。




(「これが本日最後のチャンス」完)

   

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これが本日最後のチャンス 烏川 ハル @haru_karasugawa

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