第4章:『葬送の儀式』
†
「これが、件の『不死身の
ツァメラが、バッファローの死体の前に屈みこむ。地面に転がった死体を、矯めつ眇めつじっくりと検分している。
呪いの調査をするのに、実物が見たいということだった。村に置いてきた死体だったが、処分されていないのは幸いだった。
ふたり乗りで馬を飛ばし、村に着いた頃にはすでに太陽が斜めになりかけていた。昨日の襲撃が夕暮れ時だったため、マトはすでに気が気ではなかった。
「不死身なのに死んでいるっていうのも、矛盾してるけどね」
「心臓を抉ると、動かなくなった。だが、それまでは、どんな攻撃を加えても決して死なず、ダメージを受けている様子もない。信じられないかもしれないが、不死身と形容するしかなかった」
「へぇ……結構死体の損傷が激しいけど、じゃあこれは
「ああ」
バッファローの死体は頭が取れており、内臓も抉られ、足も折られている。マトが跨りながら死ぬ気で攻撃を与え続けた結果ではあるのだが、最終的に傷口から心臓を抜き取るまでは、動きが鈍る様子も見られなかった。
「どうやって?」
「走っているバッファローに飛び乗って、こう――ずがんと」
「……うすうす感じてたけど、君ちょっと人間離れしてないか?」
死体を検分していたツァメラが、呆れたような顔を見せた。そうして、ゆっくりと立ち上がると、身体を伸ばした。
「うん――なるほどね。不死身以外に特徴は何かあった?」
「えっと、あ――」
「何?」
「でも、これ、うーん……」
「どんな些細な事でもいいよ。別に勘違いならそれでも構わない。とにかく情報が欲しいんだ。話して」
「その……、〈声〉が聞こえなかったんだ。この
「声?」
困惑の色を見せるツァメラに対し、マトは説明をしてみせる。曰く、マトには生きているものの考えを、感じ取ることができるということ。〈声〉と呼んでいるその思念を、このバッファローたちからは感じなかったということ。そのせいで、昨夜は不意を打たれるようなかたちになったのだ。
「へぇ――すごいじゃないか」ツァメラは口許を斜めにする。「そういった
「そう……なのか」
意外であった。てっきり自分だけのものだと思っていたため、前例があるということで、どことなく安心感を覚える。
「でも、そうか。〈声〉が聞こえない……」ツァメラはぶつぶつと呟きながら歩き回る。「確認だけど、マトが聞けるのは動物とか、植物だけ? 石とか、鉱石とか土とかの〈声〉は聞こえない?」
「ああ」
「そうか……、じゃあ、そういうことになるか……」
ツァメラは、もう一度、バッファローの死体の脇に屈み込んだ。顔を近づけ、臭いを嗅いだりしている。そのまま、しばらく何事かを調べているようだった。
ツァメラがゆっくりと立ち上がり、何度か頷いた。
「何か――、わかったのか?」
「死んでる」
「いや、それはそうだろ……」
答えをはぐらかされたのかと、マトは眉を寄せる。
「そうじゃない――。こいつをマトが殺したのは、昨日の夜から今日の未明にかけてのはずだよね」
「ああ」
「傷口や腐敗具合を調べたら、もっと古い死体だったんだよ。少なく見積もっても、二週間ぐらい経過している死体なんだ」
「――え?」
「つまり、この村を襲った時には
「どういう……、ことだ? いや、昨日の時点では間違いなく生きていた。そうじゃなきゃ、村を襲う事なんてできないだろ」
「そうだな、どう説明すればいいのか――」
ツァメラは周囲を見渡す。近くの家の残骸に歩み寄る。木彫りの鳩の人形が落ちていた。
ツァメラは人形を拾い、マトに見せつけてきた。
「『やあ、こんにちは。僕は鳩だよ!』」
親が子供にそうするように、人形を動かしながら裏声で喋る。
「――どう?」
ツァメラが尋ねる。
「どうって、なにが」
「いま、何が起きた?」
「……鳩が喋った」
「うん。でも実際は喋ってないよね。動かしたのも、喋ったのも僕だ」
「そんなことはわかっている。何が――」そこで、マトはツァメラが何を言いたいのかを理解できた。「そういうこと……か?」
「わかってくれたかい」ツァメラは鳩の人形を地面に落とした。「人形は、自分では動かない。動かしたのは、人間である僕だ。それと同じことが、
「死体を、動かす……」
ツァメラが、口許に手を当てる。
「呪いをかけた人物――たしか、チェイトンとか言ったっけ。
「ああ」
「その崖の下には、もしかしてすでに落とした
「……いた。チェイトンが落下したのは、
「そして、そのバッファローの群れの死体は、見つからなかった――違うかい?」
「その通りだ。
「チェイトンが死体を操る呪いを使って、
「なるほど、そうだったのか……」
「マトが
「そうか」
言われてみれば、そうだった。たしかに普段から動物の死体からは〈声〉が聞こえない。当たり前すぎて、認識もしていなかった。
チェイトンは笑って見せた。マトの背筋が泡立つほどの、妖艶な笑みだった。
「――呪いの正体はわかった。それでは本腰を入れて、対策を練ろうか」
†
「死体を操る呪い。そして術者本人も死体となって動いている。呪いの解き方は簡単だ。正しい手順であの世へと送り出せばいい」
「正しい手順で送る……?」マトが聞き返す。「葬送の儀式を執り行うのか?」
「そうそう――。とはいえ、流石にめちゃくちゃ簡略化はさせてもらうけどね。遺体を高いところに括りつけて、この煙管の煙と祈りで天の大精霊のもとへ強制的に送りつける」
「なるほど……」
「マトにも協力してもらうよ。葬送の儀を行うには、チェイトンの死体を見つけ出す必要があるわけだから」
「もちろん、協力は惜しまない。俺にできることならなんでもやるさ」
「ありがとう……」
「葬送するのは、チェイトンだけで良いのか? ほかの
「それは問題ない。あくまで
「そういうものか」
「ああ。だけど、問題なのは、チェイトンの死体がどこにあるか――だね」
「そうだな――この大地のどこにあるのか、まったくの手がかり無しで探すのは骨が折れるだろう」
「手がかりは、無いわけではないんだ。原則として、呪いは物理的な距離が近ければ近いほど強くなる。逆にあまりにも遠くまで行ってしまうと、効果が弱くなったり、効かなくなってしまう。『射程距離』があるんだよ」ツァメラは木彫りの鳩を動かして見せる。「今回の呪いの場合、イメージとしてはこのように、〝見えない手〟を使って操っているような形になる」
「
「そう。村を丸々ひとつ滅ぼせるほど強力な
「そう考えると、見つけられなくもない、のか……? 襲われるのを待てばいいんだよな」
「それでも難易度が高いことに変わりは無いけどね。三十匹の
そう考えると、実現は難しいのではないかと思えてきた。昨日の夜も、ぎりぎりのところで命拾いをしたようなものである。あの猛攻を避けながら、チェイトンの死体を探すというのは、現実的に考えて、不可能と言ってもいいのではないだろうか。
「ひとつ、策がないことも、ないんだけど……」
ツァメラが言った。彼にしては珍しく、遠慮がちな口調だった。
「なんだ?」
「ただ、結構なリスクがあるんだよね――。マトの身が危ない」
「問題ない。そもそもの作戦自体が危険だろう。成功率が少しでもあがるなら、それに賭けたい」
「そっか。じゃあ、言うけど――」ツァメラが、マトの目を見る。「君の〈声〉を聞く
「え?」マトが目を丸くする。「待ってくれ。死体の〈声〉は聞けない」
「そうだね。でも――、そもそもの問題として、なぜ君には人間以外の〈声〉が聞こえると思う?」
「なぜ、って――」マトは悩む。考えたこともなかった。「なぜだ? 長老には〈
「そうだね。そもそも僕たちは、〈
「ああ」
「だから、たとえばマトと僕も『つながっている』わけだ。それだけじゃない。他の人や馬や、狼や花や木や石――あらゆるものとつながっている。だけど、普段は意識として実感しているわけじゃない。それはわかるよね」
マトは頷いた。
「マト。君の
「うん……?」
よくわからなかった。それを察したのか、ツァメラは説明を続ける。
「マトと僕は『つながっている』けど、実感はない。でもさ、マトと――その辺を歩いている狼よりは、親しいよね。つながっているとは、思わない?」
「それは、そうだが」
「それはさ、マトが僕と〈ことば〉を交わしたからなんだよ。実際に会って、会話をして、言葉をのやりとりを行ったから、つながりをより強固に実感できる」
「たくさん話すと、つながりが強くなるってことか?」
「つながり自体の強さは変わらないよ。変わるのは、そのつながりをどれくらい感じ取れるかってこと。全然話さない赤の他人より、毎日言葉を交わす家族の方が、なんとなくだけど、つながってるなぁって感じがするでしょ」
「ああ」
「普通の人は、言葉を交わせるのは同じ人間同士だけ。相手の『声』を聞けるのは人間だけだよね。狼や草木の声は聞こえない」
「俺は、人間以外の〈声〉が聞こえる――その分、人間以外ともつながりを感じやすい――ということか」
「そう!」ツァメラが笑顔を見せる。「よかった。やっと伝わった」
「理解が遅くてすまない」
「全然。じゃあ、逆になんでマトには石や土、それから死体なんかの〈声〉が聞こえないか、という話なんだけど――これは、認識の問題なんだ」
「認識?」
「そう。マトは本能的に、石や土なんかを、『自分たちとは別』だと考えている。だからこそ、〈声〉を聞くことができないんだ」
「別、か……」マトは思い出す。「まあ、言われてみれば――獣や草木よりは、石は『遠い』気がするな。生きてないから」
「本来は、死体とも生き物と同じようにつながっているはずなんだけど、そういう風に認識していないんだ。だから聞こえない」
「ああ」
「逆説的にいえば、その認識を覆せば、死体の〈声〉が聞こえるようになるはずなんだよ」
「そう、なのか――」マトは驚きの声をあげる。「どうすればいい。どうすれば、その認識を変えることができる?」
「強引に認識を変える――それは、呪術的にかなり危険なんだけど……」
「大丈夫だ、問題ない」
ツァメラは、そこで一度大きく溜め息を吐いた。そうして、目を逸らす。再びマトに視線を戻し、どうやら意思が変わらなさそうだというのを確認すると、
昨日、マトが殺した――厳密にはもっと前から死んでいた――バッファローの死体だ。
「食事、というのは呪術において非常に重要な要素なんだ。ただ単に栄養をとるだけではなく、相手を取り込む――相手とひとつになることを意味する。それは、わかるよね」
「食事の前の祈り、獣を殺す前の祈り、狩りへの祈りにも、似た文言はあるな」
「そう。だから、死体を食べることで、死体とひとつになれば――理論的には、マトは本能レベルで、死体への認識を変えられるはずだ。より身近な存在となり、〈声〉が聞こえるようになる」
「なるほど、な」予想外の方法だった。「丸々一頭食う必要があるのか」
「いや、もちろんそれが理想だけど時間が無い。最低限、呪術の要――心臓を食べればいいはずだ」
そういえば、死体を操る呪いも、対象の心臓を抉り取った瞬間に無効化された。そういうものなのだろう。
マトはバッファローの死体に近づく。その側らに、抉り出した心臓が転がっていた。マト自信が取り出したものだ。
マトはバッファローの心臓を手に取る。
「危ないよ」ツァメラが警告する。「死体を食べることは『死』を取り込むこと。マトの命そのものが、死に引っ張られてしまうかもしれない」
「大丈夫だ」
マトは言った。
「なぜ?」
「……約束したからな」
マトは大きく口をあけると、腐った心臓にかぶりついた。
†
炎が燃えていた。
村の中央。倒れた家の材木を寄せ集め、組上げ、巨大な営火を焚いている。
そのため、すでに夜遅い時間帯だというのに、火の周囲は昼間のような明るさだった。 営火の側らには、同じく倒壊した家屋から拝借した柱が立てられている。死体をくくりつける、木の代わりに使うものだ。
営火を背にして、マトが立っていた。
戦装束に身を包み、弓を背負い、短槍と
長老の羽冠も被っていた。指導者や、勇者にしか被ることを許されない装備だった。今回の戦いは、それだけ厳しいものになる。マトは、それを直感していた。
戦い。
そうだ。これは狩りではない。戦いだ。敵は、三十匹の不死身のバッファローの群れ。対して、こちらはただのひとり――否、ふたり。
ぶるりと、身体が震える。こんな感覚は、初めてだった。いや、初めて狩りに連れて行ってもらったあの日も、同じ気持ちだったかもしれないと思い出す。
死。
そのヴィジョンが、頭から離れない。
心残りが、無いわけではなかった。
「なあ」マトが声を出す。
「なに?」ツァメラが答えた。
呪い師は、柱の根元に腰掛けていた。彼の周囲には、複雑な文様が描かれ、いくつかの祭具や石が並べられていた。
これは死者から姿を隠すための『まじない』らしい。マトからは普通に見ることができるが、死んだ人間からは存在を認知できなくなるとのことだ。
「もし、この作戦が成功して――子供たちに文字を教えることになったら」
「うん」
「俺の恋人――ウィノナというんだが、彼女にも、一緒に教えてやってもらえないか?」
「本人がいいなら願ってもないけど……どうして?」
「ウィノナは、言葉が話せないんだ」
五年ほど前――ウィノナの両親が、
生き物の〈声〉を聞けるマトにとっては、ウィノナの気持ちを汲むことも難しくないが、他の者とコミュニケーションを取ることが非常に困難になってしまっている。
「でも、文字を使えば、子供たちとはやりとりができるかもしれない。だから、頼むよ」
「ああ、わかった」
もし、この戦いで自分が命を落としても。
呪いさえ解くことができれば――。
そんな気持ちを見透かしたように、ツァメラが口を開いた
「じゃあ、マトも文字を習わないとだね」
「俺も?」
「当たり前でしょ。恋人が何を書いてるのか、わからないなんてことになったら大変でしょ」
「――そうか」マトは言った。「それも、そうだな」
「そうだよ」
二人の間に、沈黙が降りた。〈声〉を聞かずとも、ツァメラが何を考えているのか、マトには察することができた。知り合って、まだ一日も立っていないのに、ずいぶんとつながりを感じられるようになったものである。昨日まで、恐怖の対象であった〈白い貌の呪い師〉だというのに。
一陣の風が、村を吹き抜ける。
燃えさかる営火が、揺らめいた。
その、時だった。
「来た」
〈声〉が聞こえる。マトが、闇に向かって歩き出す。
バッファローの群れだ。
全てを破戒し進み続けるバッファローの群れがやってきたのだ。
マトは弓を構え矢をつがえると、渾身の力を持って引き絞る。闇へ向かって矢を放った。
暗黒へ吸い込まれる矢。
命中した手応えを感じる。
直後だった。
一匹のバッファローが、闇の中から飛び出してきた。
跳躍。マトは、正面から突撃してきたバッファローの上を、悠々と跳んで躱す。
わかる。
死体の〈声〉が聞こえる。
その〈声〉に耳を傾ければ、攻撃を仕掛けてくるタイミングが完璧に把握できた。
今度は、右から。
マトは弾かれたように走り出す。右からのタックルを、紙一重で避けた。
次は左から。
マトは走るルートを直角に曲がる。急激な方向転換についてこれず、飛び出したバッファローはそのままあらぬ方向へ跳んでいった。
また左。今度は二頭。
マトは急ブレーキを掛けて立ち止まる。
その鼻先を、バッファローたちが駆け抜けていく。
わかる。
すべてがわかる。
避ける。
躱す。
跳ぶ。
回る。
次々と繰り出されるバッファローの突進を、紙一重で避け続ける。
恐ろしいほどに統率された死体の群れ。だが、統率が完璧であるからこそ、〈声〉を聞くことで行動が把握できる。
どの個体がどの位置にいるのか、そして、どのタイミングで仕掛けるのか。
それさえわかれば、バッファローの群れの突進を避けることは、マトには難しくなかった。
しかし、油断はできない。
その重量から繰り出される突進は、ひとつひとつが一撃必殺の威力を持つ。かすりでもすれば、ダメージから十全に動くことはできなくなり――確実な死が訪れるだろう。
マトの体力も無限ではない。躱し続け、疲労がたまれば、動きに精細を欠く。そうなれば、命取りだ。
そうなる前に、チェイトン本体を見つけなければならない。
ツァメラの話では、そう遠くではないはずだ。
躱しながら、〈声〉に集中する。一匹一匹の死体の〈声〉――その中に、あきらかにひとつだけ異質なものが存在した。
個体それぞれに指示を出す、司令塔のような〈声〉だ。他の〈声〉とは違い、動いていない――間違いない。これが、チェイトンの死体の〈声〉だ。
方向は、マトの前方。
バッファローたちの波状攻撃の隙を突き、マトは一直線にそちらへ駆けだした。
チェイトンまで、距離にして約三十歩。
加速する。
妨害するために飛び出したバッファローを躱す。
残り二十歩。
マトは、
残り十歩。
――捉えた。
その時だった。
マトの
(莫迦な――)
避けきれない。
咄嗟の判断。
ぎりぎりで身体を捻る。
バッファローが肩を掠める。
衝撃。
吹き飛ばされる。きりもみ回転。落下。
何が起こった。
先程まで、チェイトンの死体だと思っていた〈声〉が、バッファローだったのだ。だから、捕まえようとして真正面から走って近づいたマトに対し、不意を突く形でカウンターのタックルが当たったのである。
(――どういうことだ)
怪我の具合を確認する。激しい痛み。肩が外れていた。
(なぜだ。〈声〉は間違いなく司令塔だった。なのになぜ、チェイトンではない――?)
(まさか、チェイトンはこの場にいない?)
(だとしたら、お手上げだ)
動揺。
そして、左腕へのダメージ。
それにより、マトの動きが大きく鈍る。先程までと違い、反応が一瞬遅れる。
バッファローたちの攻撃が、当たるようになってきた。
直撃こそしないものの、掠ったり、あるいは、回避行動の遅れにより体勢を崩したりすることが多くなった。
このままでは、そう遠くない未来――攻撃を躱しきれなくなり、マトは死ぬ。
本人がそのことを一番よくわかっていた。
どうすればいい。
考えろ。
考えるんだ。
さらに死体の〈声〉に集中する。さきほどまでの〈指令塔〉は、やはり変わっていない。遠くから、他のバッファローに向けて指示を出し続けている。
だが、あの〈司令塔〉はチェイトン本体ではなかった。
だとすれば、いったい――。
その瞬間、マトの頭に電流のような閃きが走った。
(まさか――)
確証はない。
ギャンブルだ。
だが、その直感を信じるしかない。このままではジリ貧なのだ。
マトは決意を固めると、再び〈司令塔〉へ向けて走り出した。
(やるしかない――)
妨害に来たバッファローを避けながら、〈司令塔〉へ近づく。
先程と同じ展開だった。
残りの距離が僅かになった時――。マトの進行方向の先――正面から、一匹のバッファローがタックルをぶちかましてくる。
〈司令塔〉だ。
だが、今度は避けなかった。
マトは正面から、そのタックルを受け止めたのである。
当然、止まる筈もない。
バッファロー(アメリカバイソン)の体重は、大きな個体では一トンを超えるものもいる。速度も速い。最大時速は六五キロメートルにもなるのだ。
そんなタックルを正面から受けて、無事な人間など存在しない。
それはマトとて例外ではない。
だから、思い切り――正面から跳ねられただけだった。
終わった――。
少なくとも、傍で見ていたツァメラにはそう見えた。
だが、実際は違った。
マトは、正面から受け止めるように見せて、その実――バッファローの身体がぶつかる瞬間、自ら後に跳んで衝撃を逃がしたのである。
それでも凄まじいインパクトであったのに変わりは無い。肺の空気が全て吐き出され、意識が失われそうになるのを、すんでのところで耐えたのだ。
そのまま、〈司令塔〉の頭に正面からしがみつく。
外れた左肩が痛む。激痛。無視。
しがみついたら、離さない。斧を口で咥え、右腕一本で走るバッファローの背中へとよじ登る。
なぜ他のバッファローに的確に指示を出し続ける〈司令塔〉が、チェイトン本体ではないのか。
その『謎』の答えが、ここにある。
マトは、走るバッファローの腹部へ、斧を斬り入れた。
本来ならば死んでもおかしくないような傷を受けながら、バッファローにひるんだ様子は見られない。不死身だ。
斧を投げ捨てる。代わりに、腰に差した短槍を握りしめた。
開いた腹の傷へ向けて、マトは短槍を思い切り突き入れた。
瞬間、それまで一切異常が見られなかったバッファローの様子が、一変した。
鳴き声こそあげなかったものの、バランスを崩し、転倒したのだ。
マトもそれに巻き込まれる。
振り払われ、地面へと投げ出された。
「ぐっ、う――」
呻く。痛みに耐え、マトはゆっくりと立ち上がった。
右手には、短槍。
さらにその槍の先端に、『何か』が突き刺さっていた。
それは、人間の死体だった。
腐敗が進行しており、上半身――それも、頭部と胸部だけしかない。
間違いなく死んでいる――にもかからわず、槍に貫かれた痛みに耐えるように、びくんびくんと痙攣を繰り返している。
腐りかけたその顔に、マトは見覚えがあった。
チェイトンだった。
これが、答えだ。
チェイトンは、自身が操るバッファローの内の一体の体内に隠れていたのだ。下半身と両腕を切除し――操るバッファローの内の一体に丸呑みにさせる。
そうやって、姿を隠していたのである。
だからこそ、〈声〉は聞こえていたのに、近づいたらバッファローしか見えなかったのだ。弱点である本体を隠す策。自分もバッファローも死体であるということを利用した、奇策といえる。
槍の先に突き刺さったチェイトンと目が合う。
〈声〉が聞こえる。
憎悪の声。マトに対する、どこまでも深い憎しみと、怨嗟。
誤解ではなかった。たしかに、チェイトンはマトのことを憎んでいた。
マトは、チェイトンを槍で刺したまま、ツァメラの許へ戻る。
偶然ではあるがチェイトンの心臓を貫いたことが功を奏したのか、もう死体を操る呪いは上手く使えないようだった。
三十匹のバッファローは、全部が地面に倒れ込み、横になったままもがいている。立ち上がることすらできなさそうだった。
「やったね」
ツァメラが言った。
「ああ……」
マトが、大きく息を吐き出した。
そこからの段取りは、なんの問題もなく進行した。
柱の上にチェイトンの死体をくくりつける。
死体に向け、ツァメラが祈りを捧げる。最初は身体を震わせていたチェイトンも、儀式が進むにつれ動きが鈍くなっていった。
ツァメラが煙管を吹かす。紫煙がゆっくりと立ち上り、チェイトンの死体にまとわりつく。そのまましばらく空中をただよっていたが、やがて煙はゆるやかに、夜空へと吸い込まれていった。
葬送の儀式が終わると、チェイトンはぴくりとも動かなくなっていた。何の変哲もない、ただの腐乱死体へ戻っていたのだ。
周囲へ目を向ける。あれだけの暴虐の限りを尽くしたバッファローの群れも、ただの死体になっていた。
静かだった。
営火の火の粉が爆ぜる音と、風の音だけが響いていた。
星が見えていた。
月が出ていた。
満月だった。
「……終わったね」
ツァメラが言った。
「ああ」
マトが答えた。
それきり、ふたりは喋らなかった。どこか遠くで、野生の狼が遠吠えをしている声が聞こえた。
†
バッファローの一件のあと、マトは、約束通りにツァメラが子供たちに文字を教える場を提供した。三日に一度、祈りの時間のあとで、子供たちを集めて一斉に教えるのだ。反対意見もあったが、ツァメラがバッファローの呪いを解いた立役者であることを、マトが懸命に訴えた結果、それなりの人数が集まるようにはなった。
そして、ウィノナとマトも教室で学んでいる。ウィノナは、マトが提案したところ、二つ返事で快諾してくれた。
ウィノナは、見事に勉強にハマっている。自身が使える〈ことば〉があるということに、感動しているようだった。もう二度と、他人と高度なコミュニケーションを取ることは難しい――そう諦めていた彼女にとって、文字はこれ以上無いほど求めていたツールだったのだ。
それ自体は喜ばしい。
喜ばしいことではあるのだが――。
誤算は、ウィノナの吸収力がすこぶる高く、逆にマトは、こういった座学がとても苦手だったことだ。
自宅。ウィノナが笑みを浮かべながら、木の板を持ってマトに見せてきている。
木の板に、水で使って書かれた文字。それを、何としてでも読み取る必要があるのだ。
水が乾いていく。完全に乾いて読めなくなったら、ウィノナの機嫌が悪くなることは想像に難くない。解読不能になるまで、あと三分あるかどうかだ。
「う、うううう、う――」
マトは呻き声をあげながら文字の解読にいそしむ。長い文章だ。解読に時間がかかる。焦れば焦るほど、わからなくなりそうだった。
ちらりと、ウィノナの顔を見た。
「――――」
彼女と目が合う。どうやら、苦戦しているマトを見て、面白がっているようだ。笑いを堪えるような、そんな表情をしている。
「んっ、ん――」
咳払いだけでわかる。やってきたのはツァメラだった。
「悪い、ちょっと待っていてくれ――」
だが、今だけは、彼に構っている暇はない。もう少しだけ、待っていて貰うことにした。
マトには三分以内にやらなければならないことがあった。
愛する恋人の書いた文章を、解読しなければならないのだ。
〈了〉
白い貌の呪い師 朽尾明核 @ersatz
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