【短編】魔法少女とゾンビ達
優月 朔風
魔法少女とゾンビ達
例えば、ベルトコンベアのラインに乗っかった段ボール箱を想像してみて欲しい。同じような箱が規則正しく縦に並んでいて、そのうちの一つの箱の中に君の身体は納められている。君は商品で、商品の君は箱の中から外の世界を見るんだ。そこは完璧人間を製造する工場の最終工程。轟轟と鳴り響く機械装置の歯車の音の中で、君は無機質なコンクリートの天井をただ眺めている。ベルトコンベアの流れに身を任せ、自分という製品の完成を待つだけの時間がゆったりと過ぎていく。身体中にレーザーを当てられて、異常な箇所が無いか事細かにチェックされる。その全てが計算し尽くされた設計書通りに進んでいく。出荷基準を満たした君は、あとはもうただ息をしていればそれで良い。何も難しいことなんて考える必要はない。余計なことを考えている時間なんて無いのだから。出荷されていった大人達はさあ、素敵な一生が待っているぞって太鼓判を押すんだ。
「先生さよならー」
「はい。気をつけて帰って」
時刻は二十一時過ぎ。僕は黒板の文字を消して教卓の荷物をまとめた。一流と言われる大学に入って、皆と同じように就職活動をして内定のオファーを貰ったけど、結局定職に就かないまま二十と数年生きてきた。未だに僕の未来は見えない。昔から何をやっても上手くいく方だったけれど、俗に天才と呼ばれる生き物には到底敵わないのだと思い知る、何とも情けない人生。果たして僕はもうすぐ年末だというのに何が楽しくてチョーク芸人なんかやる羽目になっているんだろう。
「せんせ」
声を掛けられたので顔を持ち上げると、教卓の目の前には黒いセーラー服を着た少女が立っていた。綺麗に揃った前髪の下で猫のように丸くて大きな瞳がじっと僕の顔を覗き込んでいた。最近入塾した生徒の一人だ。奥の方の机でやけに印象的な雰囲気を纏っていたからよく覚えている。「何か用かな」僕は何だか気まずくなって目を逸らし、彼女はそんな僕を見て面白そうに笑った。失礼な奴だなと思った。極めつけには、去り際に鼻で笑うような感じで一言付け加えてきた。
「また会おうね」
残務を整理した後、塾を出て駅へと向かう頃には深夜を回っていた。夜更けの駅には流石に人の気配なんかなくて、自宅の最寄り駅を降りた頃には寂れた冬の町には何も無かった。夜空を見上げてオリオン座を探してみたけれど、曇り空に星なんて見えるはずもなかった。白い息が夜空に吸い込まれていく。凍てついた空気に鼻先がツンとした。同棲中の彼女はもう寝ている頃だろうか。
駅から自宅までの途中にある公園で誰かの声がしたので視線をやると、草木の枯れたまっさらな花壇の向こうに人影があった。その時の僕は警戒心よりも好奇心が優って公園の奥へと歩を進めていた。暗がりの中、ベンチの上に一人の少女が座っていた。こんな遅い時間に? 公園灯の薄明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる白い生脚。僕は彼女を知っていた。彼女は僕を見つけるなりひらひらと掌を翻した。名前を呼ぶと、少女は悪戯っぽく歯を覗かせて笑ってみせる。何してるんだ、と言って僕は少女の側へ駆け寄った。少女は短いスカートから覗いた両脚の間で缶を挟み、片手で何かを掴んで咥えていた。すぐ近くまで辿り着くと、咥えていた棒を離した口から煙が立ち昇っていくのが見えた。
「せんせ。やっと気がついてくれた」
周囲に嗅ぎ慣れた独特の臭いが漂っている。運命的な出逢いだね、などと芝居がかった台詞を口にしてから、少女は咥えていた光るそれをコートのポケットにしまった。何が運命だ。「せんせも、飲む?」少女は太腿の間で挟んでいた缶を僕の前に差し出して笑った。相変わらず人懐っこい猫のような大きな黒い瞳が下から僕を覗き込み弧を描いている。未成年だろ、と嗜めると、彼女はウィンクしてから大袈裟にピースサインをして、いえーい、などと言ってそれを僕の頬に押し付けてきた。ハートとか星とかが埋まってそうな少女漫画みたいな目をぱちくりしながら、だ。都合の悪いことは何も聞こえないといった様子である。
「実はね、わたし、冥王星から来たんだよ。魔法少女マジックリリィ。知ってるでしょ?」
「知らない。ほら、危ないからもう帰りな」
「何で。これでも結構有名な配信者なんだよお」
ベンチの上に既に空になった三百五十ミリリットル缶が数本並んでいる。その中には度数の強いものも含まれており、漂う甘い香りに僕はくらくらしそうになった。彼女は手持ちの鞄から白いビニール袋を取り出すと飲み終えた缶を徐に片付けた。「ほら、せんせ」甘い香りに混じってアルコールの匂いがする。「突っ立ってないでさ」ベンチに一人分のスペースを拵えた彼女は空きスペースの上で掌を泳がせて僕を手招いた。随分と懐かしい匂いだ。「隣、座りなよ」タチの悪い上司のような表情で着座を促す少女は未成年で、僕の教え子で、僕は大人として彼女を家まで送り届ける義務があって、それで、
「せんせ。本当はお酒好きなんでしょ」
隣に座ると、ラベルに桃の描かれた缶酎ハイを手に持った少女からはふわりといい匂いがした。まるでよく見知った人間の台詞のようだった。
「これはね、お兄ちゃんのお酒なんだよ。あ、タバコもそう。たまにこうやってこっそり持って来ちゃう」
酒なんてもう何年も口にしていないんじゃないだろうか。唾液が溢れ出す。上半身が疼いて震える。拳を強く握りしめることで、喉の奥から今にも飛び出そうとスタンバイしている怪物を必死に堰き止めていたところで、彼女は口一杯に酎ハイを含んでから、
――それを僕の口に流し込んだ。
待ってくれ。柔らかい彼女の舌が僕の舌の上を這う。何をして、いる。少女はベンチに座った僕の左脚に跨って、僕のふくらはぎに細い足を絡ませている。駄目だ。随分と度数が強いのか、消毒剤のような臭いが容赦なく鼻の奥に広がっていく。駄目だ、やめろ。遅れてやってきた後付けみたいな甘ったるい香りで僕は一杯になった。やめるんだ。懐かしい感覚が僕の身体を支配する。胃の奥底は燃えるように熱く、脊髄から痺れるような快楽が押し寄せてくる。やめてくれ。随分と前から僕の身体はこの成分を求めていたのだと直感した。だめだ、これ以上は。心臓が激しく動悸する。僕の本能が歓喜に打ち震えているのが分かった。これ以上は。喉の奥が焼けるように熱くなった。上半身も下半身も湯上がりのように火照っていて、冬の寒さなんて気にならなくなった。脳味噌が侵され神経回路が焼け焦げていくような感覚。毒物の侵入を許した後に残ったのは薄ら眠い朦朧とした浮遊感で、情けない僕の思考は次第に怪物のそれに支配されていく。
数年ぶりに口にした酒の味。同棲中の彼女にずっと禁じられていたその味を一言で形容するための言葉を、僕は持たなかった。
そんな時間がどれだけが続いただろうか。視点が上手く定まらない中、辛うじて残された理性が数本地面に転がっている空き缶を認識した時、魔法少女と名乗った僕の生徒は僕に跨ったまま手を握り、相変わらず猫のような目で僕に訴えかけてきた。
「殴って」
何と言っているのか分からなかった。ほら、と促す少女は両手を広げ、蠱惑的に微笑んだ。彼女は僕の心の奥底に眠る怪物を見透かしているようだった。そんなことをするはずないだろう。そう言ったつもりだったが、もしかすると呂律が回っていなかったかもしれない。もしかすると僕の口の端は持ち上がっていたかもしれない。善人の皮を被った悪人、人間の皮を被った怪物。きっとそれが僕だ。怪物が何もかもを壊してしまえと叫んでいる。時々、訳が分からなくなることがある。そんな時は決まって自分の両手足を振り回して、大切にしていたはずの何もかもを壊して、全てを無にしたくなる衝動に駆られるのだ。無抵抗なか弱い少女を前に僕の動悸は最高潮に達し、恐らく唾液なんかを垂らしていたかもしれない。拳を強く握り締めた僕はしかし、終ぞ拳の矛先を彼女に向けることは無かった。
遠くの方から叫び声が聞こえた。それは、僕自身の叫び声だと気がついた。
僕は少女を殴る代わりに自分の拳を地面に打ち付けているらしかった。何度も、何度も、何度も何度も何度も砂利を殴り続けた。自分の額を地面に打ち付けると少しはマシになるんじゃないかと思ったが、吐き気が増していくだけだった。ぐる、ぐる。世界が回る。灰色だったはずの地面が目まぐるしく黄色とか紫とかおかしな色に変わって、空間が歪んでいって、僕を心配する魔法少女の声がわらっていて、目の前を不快な音を撒き散らしながらブンブンと蜂が飛んでいた。ぐるり、ぐらり。ちっぽけな僕を顕微鏡のレンズの上から僕が見下ろしていた。頭のおかしくなった僕は叫びながらそうか、と気がついた。僕はこの怪物が酷く嫌いなんだ。この怪物を飼い慣らせない自分自身が嫌いで仕方が無いんだ。だから叫んでいる。自分よりずっと年下の子どもを前にして、みっともなく泣いている。目の前が真っ赤になったとき、僕は笑いが止まらなくなった。寒くないはずなのに寒くなって震えが止まらなくなった。真っ赤な海の中心で僕がどんなに叫んだって、僕は顕微鏡でしか見ることの出来ないミジンコだ。ちっぽけな僕はこの世界で一人きり。
「いいんだよ、せんせ。これでいい」
酔いが回って訳も分からずに喚き散らした度し難い出来損ないをあやすように、少女は僕の肩を抱いた。彼女の腕は冷えていたけれど、不思議と僕の震えは止まった。心の何処かでずっと欲していた温もりが此処にあるような気がした。
「知ってる? せんせ。人間は神様のもとに等しく同じで、皆同じ罪を背負ってるんだって」
僕の肩からだらりと下ろされた彼女の腕には痛々しい青痣が刻まれていた。教室では長袖の下に隠れて見えなかったその傷の存在を、薄暗い公園灯に照らされて初めて僕は知ることになった。
「だから、こんなに歪で出来損ないのわたし達をさ、赦してあげようよ」
耳元で少女の囁く声がする。浅く重なっていた呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していく。浮遊していた意識が現実へと収束するにつれて僕は何とも言えない罪悪感を覚えた。背中に覆い被さった少女の重みが十字架のそれのようだった。「ねぇ、せんせ」だからだろうか、
「いつかわたしのことも精一杯殴ってね」
湿った声で少女が懇願するのを僕は黙って聞いていることしかできなかった。このままじゃいけない。このまま一緒にいれば、いつか僕は彼女を壊してしまう。そう分かっているのに、そのとき僕は僕にしがみつく彼女の腕を振り解くことができなかった。
高校の頃のことだ。バンドを組んでいた昔は何かこう、社会に打ち出したい強烈な衝動のようなものがあって、何かに取り憑かれたように一日中音楽と格闘していた。ロックは僕の心を強く動かした。きっとこれは天命で、僕はそのために生まれてそのために死んでいくんだと本気で思っていた。
そんな自分自身の情熱を信じられたのも、大学の頃に運良くデビューして数ヶ月くらい経った頃までだった。社会は僕達に無難な曲を求めるようになった。ターゲットはどの層で、どんな曲調が流行りで、どうやってカタルシスを与えるかとか、このくらいの年齢層ならこんなものは受け入れられないだろうとか。気がつけば僕達は息苦しい水槽の中に囚われていた。尖ったまま生きていけるのは一部のカリスマ的な天才だけなのだと思い知った。
昔から何をやってもそれなりに結果が出る人生だった。中学時代、友達に誘われて入ったバスケ部は気がつけばエースになっていたし、模試ではしょっちゅう首席をとっていた。でも簡単に叶う夢っていうのは大概つまらなくて、手を伸ばしても届かない物に人は憧れるものなんじゃないだろうか。誤魔化し続けた人生の途中で僕が立ち止まったのは、内定のオファーが来た時だった。差し出されたこの手を取れば僕はきっと二度と戻れなくなる。漠然とそんな気がした。完璧人間製造工場の最終工程で、白衣にマスクの検査員が段ボール箱に封詰される直前の僕を覗き込んでは品定めするような目で厭らしく笑っている。ああ、きっと今奴らは僕の現在価値を確かめているんだろう。こいつは金のなる木になるぞ。我が社でこぞってこの人材に投資すればきっと多くの利益をもたらしてくれる。そんな風に言っているイメージがふと浮かんだ。バンドを辞めた僕は結局、夢を諦めきれなかったんだと思う。オファーを断った僕は、細々と楽曲を提供しながら、一丁前にジャケットスーツを羽織って白チョークを片手に未来ある中高生にありきたりな将来の話なんかをして食い繋いでいる。大学の同期はそんな僕の人生を勿体無いと言った。僕の実力ならもっと上を目指せるのだそうだ。同棲中の彼女はとっくに社会の一員になっていて、社会の役に立ちたいから、と真っ直ぐに自分の夢を語っている。いつか僕もそう思える日が来るんだろうか。結局のところ、僕はまだ子どものままということなのだろうか。
「この星に巣食う魑魅魍魎の怪物さん達。さあ、覚悟なさい!」
スマホの小さな画面の向こう側にいる魔法少女マジックリリィは輝いていた。あの時彼女が飲んでいたお酒のラベルの色と同じ桃色で着飾った少女は、二次元的な巻き髪を揺らしながら、ステッキを片手に弾けるような笑顔を振り撒いていた。ステージ上に立つ彼女はまるで本当にそこに実在するかのように映し出されていた。ライブ映像の手前側、ステージの下で熱狂的なファンが少女と同じ色のペンライトを振り回し、ホログラムの少女が近づくと彼らは少女の方へ一斉に手を伸ばした。まるで神の一端に触れようとしているようだと思った。
スマホで「マジックリリィ」と調べるとバーチャル配信者魔法少女マジックリリィに関する記事が検索欄のトップに並んでいた。なるほど、彼女の名乗った魔法少女はそれなりに有名らしい。その記事の次には同じ名前の花の記事があった。淡い桃色の花を咲かせるその花は彼岸花の一種で、夏になると何もない地面からスッと伸びて花を咲かせるのだという。それはまるで、魔法にかかったように。
あの日以来、塾の授業がある度に僕は帰りに同じ道を通った。少女は決まって同じ公園にいて、僕を見つけるなり無邪気に両手を振って得意顔でピースサインをしてきた。その指を僕の頬に押し付けてくるところまでセットだ。相変わらず地面には空き缶が転がっていて、近付くと甘ったるい香りに混じって電子タバコ特有の臭いが漂っていたけれど、先日のことで少女に負い目がある僕にはそれ以上のことを口にすることが出来なかった。情けない奴だ、と自分でも思う。別の道を通って帰れば見えない振りして素通りすることも出来たのだろうけれど、僕にはそれが出来なかった。あの夜の柔らかい温もりを、熱を、疼きを思い出す度に僕は何とも言えない心地がした。またあのキスをしてしまったら、またあの蕩けるような、懐かしく甘美な成分の味を思い出してしまったら、きっと次こそ取り返しがつかなくなるだろう。それが分かっていながら、僕は性懲りも無く同じ道を選んでしまうのだ。僕の脳味噌を破壊する味。僕と怪物とを一つに至らしめる薬の味。それを求める日々は年を越してからも変わらずに続いた。
ある日、僕は彼女に昔のバンドの話を打ち明けた。誘導尋問の末に言わされた、と言うのが正しいだろうか。彼女がどうしても当時のライブ映像を見たいと言うので、僕は逆らえずにバンド名を教えてやることにした。
「糞みてぇなしみったれた面しやがって」彼女のスマホの画面では一人の大学生が声高に叫びながら、浴びるように飲んだ酒をステージの上で撒き散らし、アンプを蹴飛ばしたりギターを壊したりと、みっともなく衝動のままに行動していた。
「腐りかけのチキン野郎ども、よく聞けよ。俺はロックの世界で誰よりも伝説になる男だ、よく覚えておけ!」
気がつけば掌には大量の汗が滲んでいて、喉がカラカラに乾いていた。今すぐそばにある缶を飲み干して全てを無にしたい衝動に駆られた。彼女の目は真っ直ぐに僕の方を向いていて、これは傑作だとでも言いたげに半円を描いている。
「ねえ、せんせ。これやってよ」
「やらない。特に君の前では絶対やらない」
「わたしのお酒もう少し追加であげるから」
「もうその手には乗らないからな」
「えー。ケチ」
本当を言えば、やらないのではなく、出来ないと言った方が正しかった。僕の情熱はとっくの昔に死んだのだ。当たり障りのない、よく売れるものを求められるようになって、大人の世界に足を踏み入れるというのはこういうことなんだと自分自身に言い聞かせているうちに、かつて押さえつけていた幼い少年のような情熱は窒息し、気がつけばそれは僕の胸の中で息を引き取っていた。今は昔の自分を見ても恥ずかしいだけで何の感慨も湧かない。自分が何を目指していたのか、何者だったのかすら、漠然としてもう上手く思い出せない。非常勤塾講師として働きながら、大して売れない楽曲を提供する日々。優秀な大学の友人にはそれでいいじゃないかと慰められ、きちんと社会人になった同棲中の彼女に甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、なけなしの小遣いで食い繋ぐ日々。意思も目的もなく、薄暗い工場のベルトコンベアに乗せられて段ボールの中で出荷を待つだけの製品。それが僕。何とも情けない話だ。
「せんせ。どうして先生になったの」
少女は地面の一点をじっと見つめていた。小雨が振り始めたので、僕は手に持っていた折り畳み傘を少女の上に差してやった。制服のスカートを握り締める拳を中心にしてシワが台風のように渦巻いていた。
「魔法少女になるとね、皆と繋がれるんだよ。魔法少女の中身が実は屍体でゾンビだっていうのに、誰も気がつかないの」
「君はゾンビなんかじゃない」
「ブッブー。そう思うでしょ? 人間に化けるのは得意なんだから」
魔法にかかってるみたいでしょ、と付け加えてから、少女は僕を小馬鹿にしたように笑った。ふと、あの夜目にした痛ましい青痣が頭の裏を掠める。「君は……」僕はそれから先の言葉を口に出来なかった。余計な詮索をしたところできっと彼女の救いにはならないだろうとわかっていた。
「せんせはどうして……たの」
少女の声は途中で一度途切れた。聞き返すと、少女は何事も無かったかのように得意げに鼻を鳴らした。
「せんせ。人は痛みで繋がれるんだって、知ってた?」
少女は少女の兄について語った。大好きな兄のこと。優しい兄のこと。身体に刻まれた痣は兄との絆であること。大嫌いだった痛みですら今では愛おしいと思えること。かつてステージ上に立っていた憧れの人との出逢いがそうさせてくれたこと。暴力を受けることで、嘘偽りのないありのままのその人自身と繋がれると確信していること。きっとそれは辛い相手の暴力を受容するための無自覚の逃避の現れに違いないと思ったけれど、結局のところ彼女の本心は僕に理解出来ないだろうと思った。それをわかった気になって、偉そうに慰めを口にすることはしたくなかった。
「僕には君を傷つけることなんて出来ないよ」
ある日僕は彼女にそう言った。それは、彼女を大事に思っていたからなのだろうか、それともただ単にこの奇妙な関係から決別したかったからだけなのだろうか。一瞬真っ白な顔になった彼女はけれども、すぐにいつもの子猫のような顔つきになって、そっかそっかあ、と間の抜けたように笑ってからお決まりのピースサインを向けてきた。その日の彼女は指先を僕に押し付けて来なかった。
その日を境に少女は塾へ来なくなった。試しに例の公園へ行ってみたけれどそこに彼女の姿はなかった。やがて冬季講習が終わり、塾の時間割が夜に設定されるようになった頃。世間では一人の少女が傷害罪で逮捕されたニュースがやたらと騒がれていた。世間の反応は様々だった。少年法を厳罰化すべきだとか、青少年を保護するための法律を強化すべきだとか、若者の心の闇がどうだとか、云々。尤もらしい専門家がそれっぽくカテゴライズして、偉そうな口調で考察を繰り広げているのを見ていると何だか酷く馬鹿らしく思えて仕方なかった。何言ってんだ、コイツら。電車に揺られながら僕はスマホを閉じて頭上を仰いだ。視界の端に動画の広告が映って、小さなゆるいキャラクターが「一人で抱え込まないで」と語りかけている。例の事件、ネットニュースにでかでかと書かれていたタイトルは某少女の台詞で、「痛みで繋がろうとした」という言葉がいつまでも僕の頭を支配していた。誰も少女のことなんて理解できやしないのだ。誰も少女に手を差し伸べることなんて出来なかったのだ。そうに違いないのだ。
気がつけば僕はどうでもいいような知らない駅で途中下車していた。心臓が激しく鼓動を繰り返していた。改札を出たらすぐに細い下り坂があった。浅い呼吸が小刻みに震えていた。魔法少女と名乗った少女が最後に見せた諦めたようなあの笑顔が脳裏を過ぎった。僕の足は僕の意思とは無関係に坂を駆け降りていた。すれ違う通行人が驚いて僕の方を見ている。僕はどうやら、叫んでいるらしかった。大人になりきれなかった出来損ないは笑いながら泣き、泣きながら笑っているらしかった。仕方ない。もう手遅れだ。僕は心の奥に巣食っていた扱い難い怪物を外に解き放してやった。そいつは線路沿いの細い坂を猛スピードでダッシュしていた。そいつは喉を枯らして叫んでいた。そんな怪物を側で眺めながら僕はふと思った。魔法少女と名乗った彼女は今も変わらず飄々と笑ってピースサインをしているのだろうか。いや、もう彼女に会うことはないだろう。もし仮に僕が情熱を取り戻して、彼女が見たいと言った僕が生き返ったとしても、そのとき彼女はいないのだろう。社会の圧力に潰されてゾンビになってしまった少女はもう二度と魔法少女を演じることはないのだろう。叫び続ける声は自分のものとは思えないほど大きな声で、思わず笑いが込み上げてきた。通行人の目線は最早気にならなかった。怪物が僕に問い掛ける。
「糞みてぇなしみったれた面しやがって!」
自分の人生、このまま逃げ続けるだけでいいのか?
「腐りかけのチキン野郎、よく聞けよ」
この先一生、何かに怯えながら、人の目を気にして生きていくのか?
「俺はロックの世界で誰よりも伝説になる男だ、よく覚えておけ!」
坂の途中で足を躓かせて転び、僕の身体は交差点の中心に放り出された。幸い車通りがほとんど無かったため僕の生命は辛うじてここに留まっていた。僕は息を吸って吐いた。ただそれを繰り返した。太陽は眩しくて、空はどこまでも広がっていた。ロックの世界はきっと、もっと広い。僕なんかでは到底太刀打ちできないような才能の塊がひしめき合っている。だからもっと売れるような曲を作れって言われたんだ。わかってる。でも、これでいいんだ。歪で出来損ないの自分を赦してやろうじゃないか。真っ赤な海の中心で、顕微鏡で覗いてやっと確認できるサイズのミジンコが一匹、身分不相応な夢をクソでかな声で叫んでいる。それくらい良いじゃないか。
自分自身に、世界に言い聞かせるように叫んだとき、僕はほんの少しだけ自分が何者だったのか思い出せたような気がした。それはまるで、魔法にかかったように。
僕は塾講師を辞めた。同棲していた彼女は僕の将来性に疑問を抱いたのか、別れを提案してきた。至極真っ当な正しい判断だと思った。僕は瞬間瞬間を全力で生きることに決めた。解散したバンドメンバーをもう一度集めた。僕は曲を書き続けた。それは僕にとって生きているのと同じだった。誰かが勿体無いと言った。誰かが君はもっと社会の役に立つべきだと言った。誰かが君ならもっと上を目指せると言った。上って、何だ。社会なんてクソ食らえだ。僕は自分自身に嘘をつくことをやめて、本当の僕を取り戻す作業を続けた。いつか魔法少女が見たがっていた僕になれるように。
数年の時が巡り、季節は夏を迎えた。僕のバンドはアンダーグラウンドに生きる住人達の間でちらほら名前を聞く程度になった。きっと皆似たようなわだかまりを感じているんだろう。地下のスタジオを出て昼間から連中と酒を飲み、メンバーと解散したあとは電車に揺られ、機材を買いに御茶ノ水まで向かった。
駅を降りると熱気が蒸していた。澄み渡る快晴の夏空で、飛行機雲が白いチョークのように線を描いている。Tシャツの内側に汗が滲み、左手に持ったペットボトルの表面を水滴が滑り落ちていく。練習してきた新曲の鼻歌を口ずさんでいたところで、僕はフードを被った人物とのすれ違いざまに脇腹を刺された。「あっ」という声が漏れた。
白いTシャツに血が滲んでいく。突き立てられた銀色の凶器の周囲にじわり、じわりと赤が広がっていく。知らない誰かが金切り声を上げたり、怒声を飛ばしたり、周囲は散々だったけれど、僕は狂乱に満ちた周囲の世界をただ傍観者のように眺めていた。あ、そうか。遺言。ユイゴン、って何だっけ。駄目だ、酒飲み過ぎて頭、回んねぇ。取り敢えず見上げた空が相変わらず広かったので、僕は世界の中心で一人、中指を大空に突き立てながら、
「俺の人生、最高にロックだぜ!」
と、残りの命をかけて精一杯叫んでやった。これが本当のデスボイスだな。くだらないことを考えているうちに周囲の叫び声が歓声に変わった気がして、僕は何だか最高の気分で満たされた。これでいい。これでいいんだ。僕は歪で出来損ないの自分をようやく赦してやれたような気がした。
道端には少女によく似たマジックリリィが凛として咲き誇っていた。
【短編】魔法少女とゾンビ達 優月 朔風 @yuduki_saku
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