第3話

 具合の程度はあるものの、姉は大過なく過ごしていた。季節は春になり僕は高校二年生になった。元々親しい友人などいない僕にはクラスが変わっても、新たな友人ができることはなかった。僕にとって大事なものの九割以上は姉であって、残りの一割はせいぜい大学に行く程度のことしかなかった。僕にとって高校生活などは人生で通り過ぎるだけの灰色の景色でしかなく、そこに多少の起伏があったとしても、何も感じることはなかった。僕が見るべき景色はあの病室にいる姉であり、治療の傷で美しさが滅んでゆく姉の左手であり、生きる為に艶かしく動く口であった。時折浮腫んだ足をマッサージしたり気分が悪い時には背中をさすったりすることが、その光景の中にいる僕の大切な役柄だった。

 病気の影響もあって、姉はガリガリだった入院当時よりも、普通の人並みの肉付きになっていた。その殆どは浮腫みではあったが、姉の美しさはこの病院に居れば居るほど増していくように見えた。女性の肉体的なピークが彼女にもやって来て、儚げな少女から大人へと完成を迎えていた。僕は時折、姉の美しさに惑わされるようになってしまっていた。靴下を履かせるとき、脛を軽く押してもなかなか戻らない様子をじっと眺めたり、入院服がずれる度に見える下着をまじまじと見てしまうのだ。僕にとっての姉は看病をする病人から、一人の大人の女性へと変わりつつあった。


 何も望まない学校で、僕にとっては無視し得ぬ事が起きた。GWになる前の放課後、僕に彼女と呼べるような存在ができてしまったのだ。

 僕には看病すべき姉がいて、自分の恋愛に時間を割く気など微塵もなかった。だから、彼女から告白を受けた時はどうやって彼女を傷つけずに断ろうかということしか考えていなかった。僕はまず、彼女が告白をしてくれたことに感謝をして、次に自分の身の上を話して彼女と付き合う為のリソースがないことを説明をしもう一度感謝をしてから、最後にきっぱりと断った。彼女は僕の一連の言葉を真正面から受けとめていた。肩下まで伸びた姉に負けないくらいの綺麗な髪の先に触れながら、視線は僕をじっと見ていた。僕が話しを終えると小さな口を開いた。

「お姉さんのことは知っているの。知っていて、君に告白したの」

「どうして姉を?」

「何度かだけど、委員会でお世話になっていたことがあって。とても綺麗なお姉さんだったのを覚えているわ」

「そうなんだ……」

 僕はどう答えて良いかわからず、黙ってしまった。姉は退学の件や入院先を誰にも教えなかった。親しい友人達にすら何も言わずに消えたのだ。その想いを考えると、僅かとはいえ、姉と繋がりのある彼女とこうして話をしているのが気まずがった。

「だから、わたしに時間を割いてとは言わないから、学校に居る時だけでも、彼女として見てはくれないかな?」

 彼女は美人な姉とは違い、どちかというと可愛らしい人だった。おそらく僕ら男子生徒が彼女から告白されれば、誰もが有頂天になっても仕方ないくらいの、愛くるしい容姿だった。

「申し出は本当に光栄なんだけど、僕は姉の看病と大学進学以外に興味はないんだ」

 敢えて冷たい言い方をして彼女に諦めてもらおうとしたが、彼女は首を横に振ってそれを拒否した。僕はなかなか厄介な時間を過ごしていた。

 最終的に彼女の熱意に負け、なんとか友達からということで勘弁してもらった。彼女は不満足そうであったが、そのあたりで手を打ってもらった。幸いにも姉の病院に向かう時間が近づいたので、僕はそれを理由にして別れようとした。彼女から連絡先を要求されたので、仕方なく彼女と交換すると、その場はどうにか凌ぎきることができた。


 彼女から逃げる様に病院に来たので、いつもより大分早く病室に着くことになってしまった。この日は治療がなく、姉はベッドの中でスマートフォンをいじっていた。僕は姉の邪魔にならないよう、丁寧に手洗いとうがいを済ませ、除菌スプレーを制服にかけてからソファーに座って、宿題を広げようしてた。姉は黙々とスマートフォンに何かを入力していた。入力する姉の指が僕がするのよりも早く動いているのが肩越しからでもわかった。しばらくすると、姉はうつ伏せになってなにやら笑っていた。入院時には貧相だったお尻が、ふくよかになった分だけ揺れた。

「なんだか、楽しそうだね」

「えー、そうかなぁ?」

 治療がないからなのか、姉の声が弾んでいるように思えた。僕は特に返す言葉が見つからなかったので、英辞書を鞄から取り出して本格的に宿題を始めることにした。僕は宿題であってもスマトーフォンで調べるよりも辞書の方が好きだった。辞書には未知の言葉を探し当てる楽しさと、かつて訪れたマーカーの跡の懐かしさがあって、愛おしかったのだ。

「――彼女、どうだった?」

 僕は辞書から追いかけるという意味の単語を振り返っていた。表面上はそれを理由として、姉のその突然の言葉にすぐには応えなかった。顔には出さないようにしていたが、僕は不愉快になっていた。その出来事は二人しかいないこの病室では、ただの異物でしかなかったのだ。姉が何故それを知っているのかはわからなかったが、僕はこの病室に居る為に、服装の除菌だけでなく、高校生活のささやかな私的な部分も漏らさず消していた。両親や学校のことなど、僕たちには必要のない菌でしかなく、口の端に上ることも許せなかった。事実、その日まで僕は姉に対して学校の宿題以外の話をしたことはなかった。無論、家族というのは僕と姉しか存在していなかった。僕はこの部屋にふさわしくない返事をしなければいけないことに失望しながらも、姉の質問に向き合うことにした。

「友達だよ。女の友達。それだけ」

「へぇ」

「そんなことはどうでもいいじゃないか。僕は早く宿題を終えて姉さんの浮腫んだ足をマッサージしてから、姉さんと――少しの量でいいから、お茶でもしたいんだ。いつもみたいに。いつのものように」

 僕には避けたいことがあると、その強さに比例して言葉が増えていく癖があった。

「どうして、友達なの? 彼女、こうちゃんに告白したんでしょ?」

「姉さんは、僕の学校生活にそんなに興味があったの?」

「いいえ。あるのは、こうちゃん達の恋の行方だけだよ」

 姉は恋愛小説の一説をなぞる様な台詞を言うと、僕の隣に座った。長い髪が僕の膝にかかるのも気にせずに肩を寄せた。僕の右手からシャープペンシルを取り上げると、自分のスマートフォンを握らせた。

「ね?」

 そこには彼女とのやり取りらしきものが表示されていた。僕はすぐに目を伏せた。いつどこでそのやりとりが始まったのか知りたくなかったし、姉と彼女がどこまで親しいのかなど、もっと知りたくなかった。だから一文字も読む事なく、姉に返した。その僅かな過程で彼女が「がんばります」と伝えていたのだけが目に入ってしまった。

「彼女、いい子でしょう?」

「いい子も何も、初めて話をしたよ。クラスメイトだけど、今日まで彼女の顔を一秒以上見た記憶もない、他人でしかないよ」

「どうしてそんなことを言うの」

 姉は僕の太腿を自分の髪ごと拳でグリグリと押した。姉とは違って健全な僕の太腿は、姉の手が離れた瞬間に、何事もなく元の形状に戻った。

「本当は断りたかったんだ。だけど、しつこいから友達からということにしたんだ。もういいだろう? 僕はこの部屋で学校の話をしたくはないんだ。いくら姉さんが彼女を気に入っているとしていも、それは僕には関係ないことなんだよ」

「……そんなに、彼女が嫌なの?」

「嫌とかそんなことを言っているんじゃない。――いや、嫌だ。この部屋で、姉さんが僕以外の人間について話をするのは、堪らなく嫌だ」

 できるだけ早くこの話を終らせたかった。姉は、「残念」と言いながらスマートフォンに何かを入力していた。少しだけ気になって覗いてしまうと、「恥かしがり屋の弟でごめんね」と書いてあった。姉の下着の洗濯や生理の処理を手伝うこともある僕が恥かしがり屋だとしたら、この世の高校男子はどうなるんだろうかと、僕は言わずにはいられなかったが、口にすることなく、一刻も早くこの部屋が僕たちだけのものに戻るように、姉の関心が僕だけに戻るように、静かに祈ることにした。


 翌日は学校を休む事にした。別に彼女と会うのが気まずいとかではなく、姉がこの病院で一番嫌いなMRI検査があるからだ。僕も小さい頃一度だけ受けた事があったが、巨大な円筒形の中に入れられて、狭い中で二十分位の間じっとしながら、ヘッドフォンから流れる音楽など何の慰めにもならないような爆音を聞かされる検査は確かに気持ちの良いものではなかった。姉は閉所が苦手なようで、狭い所でじっとしていると落ち着きがなくなり、やがで恐怖に変わってしまうのだ。MRI検査が姉が何とか耐えられるギリギリの時間なようだった。

 僕は前泊をして、朝食を姉と一緒に病室で済ませていた。本来は泊まる事は良くないのだが、僕達の身の上と個室である事を勘案してか、病院側は見て見ぬフリをしてくれた。僕はソファーで横になり、姉はベッドで寝る。姉のスマートフォンの光だけが室内を照らしていて、その光が消えると、僕が安心して眠ることができた。夜十二時の看護師の巡回が終われば、後は朝まで誰も来ることはなかった。

「MRIなんてしなくていいのに。なんでやるんだろう」

「それは必要だからだよ。この病院で不必要なものは、何ひとつないんだよ」

「ある」

「何があるの?」

「……MRI」

「一年で何度も検査するわけではないんだから、諦めて。僕も一緒に入室するから」

「子供以外で付き添い入室する人、お姉ちゃんくらいなんだって」

「姉さんはまだ子供だから、遠慮せずにいいんだよ」

 僕は軽口で応えながら、車椅子を用意した。朝方の病棟は入院患者と言えども生活の始まりがあり、洗面や歯磨きの為に共同水道に向かう人たちや、血液検査をする為の検査師が忙しなく動いていた。個室病棟であっても当直の看護師が巡回して、少しだけ気だるそうにしながら血圧や体温、排泄の回数などを調べていった。当然この病室にもやってきて、姉におきまりの項目を聞いていた。特に異常がなかったので看護師が、「この棟の地下二階に行ってください」とクリアファイルに入った書類を僕に渡して部屋を出ていった。僕は車椅子をベッドの近くまで寄せた。

「姉さん。じゃあ行こうか」

 姉は返事をしなかった。普段、我侭を言わない姉がイヤイヤをしているのだ。僕は少しだけ笑ってしまったが、午前中の病院の忙しさを知っていたから検査スタッフたちを困らせぬよう、姉の手を取って車椅子に座らせようとした。やや不機嫌な姉はベッドの上から大股で移動して、床にあるスリッパを履いた。あまり大股すぎて、淡い青色の下着が容赦のない範囲で見えた。姉が座ると背もたれの中に髪を入れて、ブレーキレバーを解除してから車椅子を押した。部屋のドアをスライドしようしたが、書類を持っていくのを忘れたことに気づき、慌てて取りに行き、それを姉に手渡した。姉はこの後に及んでもなお渋い顔をしながら、それを受け取った。


 車椅子用の大きなエレベーターのドアが開くと、地下二階のボタンを押した。ドアが閉まると普通のエレベーターよりもゆっくりと降下しているのが体感的にわかった。姉はクリアファイルをパタパタと団扇代わりにしていた。――その日は特に暑くも寒くもなかったのに。

「緊張してる?」

「……してない」

「それはよかった」

 僕達は互いの存在を確認するだけの意味しかない短い会話すると、エレベーターは地下二階に到着した。ドアが全開になると、正面二十メートル程先にある受付まで車椅子を押して、受付の若い男性に姉の名前を言って書類を渡した。男性は姉自身に名前をもう一度言わせ、生年月日を尋ねると、二番のMRIに言ってください、と告げた。僕はお礼を言って車椅子を反転させた。姉は無表情のまま座っていた。二番の部屋はエレベーターのすぐ横の部屋だった。姉は、「最初から二番に行けばよかったのに」と拗ねた子供ような口ぶりてぼやいた。

「病院ってのは、そういうところなんだよ」

「知ってる。そんなの、お姉ちゃんの方が知っているから」

 二番の部屋の前で二度目の名前確認をすると、姉を立ち上がらせて入室させようとした。姉は仕方無しに左足を床につけ、三秒くらいしてから、ゆっくりと右足をつけた。彼女のささやかな反抗虚しく、女性検査スタッフが姉の手を引いて慎重に部屋に連れ込んでいった。僕は車椅子を畳んでから入室した。

 更なる名前の確認の後、姉はMRIの検査台に寝かされた。中年男性スタッフが位置を確認しながら、姉に細かい位置を指示した。姉は普段の温厚さと気遣いの心をあの部屋に置いてきてしまったようで、彼に触れられたくないことを露骨に顔に出してしまっていた。僕は慌てて姉に近づいて移動を手伝った。男性は無表情で僕たちを眺めていた。

 やがてセッティングと説明が終わると、姉は僕の方を見た。

「こうちゃん」

「何?」

「わたし、嫌だけど頑張る」

「大丈夫。すぐ終わるよ」

「わたしも頑張るから、こうちゃんも――避けてないで、彼女と付き合ってみない?」

「……今する話?」

「する話。わたしの言う事聞いてくれるなら、まずはちゃんと彼女に返事しなさいね」

 僕は無言で頷いた。姉が何故、彼女をそこまで気にしているのかわからなかったが、この時は、姉の心の安寧が少しでも保てるなら彼女に挨拶くらいのメールは返しても損は無いかな、と思っていた。

「お願いします」

 僕がスタッフに言うと、低い音のブザーが鳴り、姉を乗せた寝台は円筒形の中に吸い込まれる様に入っていった。


(続)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る