第4話
待望の高校二年の夏休みがやってきた。僕が高校生活で最も待ち遠しかったのはこの年の夏休みだった。何故ならば、姉と毎日あの病室で穏やか居られる最後の年だと、その時の僕は思っていたからだ。前の夏は姉の具合が安定しておらず、涼しい病室で僕は、冷汗をかいて姉の治療の終わりを待つしかできなかったし、この次のそれは、流石に受験勉強で毎日病室に居ることは難しくなるだろうと考えていた。だから、その年の夏休みが僕と姉に与えられた事実上最後の自由時間だと思っていた。
僕が大学に入った時に姉が生きている保証はない。僕と姉には今日一日を与えられたことに感謝をしながら、終わりが来ないことを祈ることしか選択肢がなかった。姉は僕よりずっと前からそのことを理解していて、入院してから毎日書いていた日記を一年経過したこの年の春先にパタリとやめてしまった。僕はある日、何故やめたのかと軽い好奇心で姉に尋ねてみると、姉は、「自分の遺書が積み重なるみたいで嫌だから」と笑いながら言った。僕は姉に「そうなんだね」とだけ伝えると、何事も無いかの様にそっと病室を出て、急いで階段を駆け降り、一階の血液内科外来にあるトイレの個室のドアを乱暴に閉めて、盛大に吐いた。いつ訪れるかわからない死を待つ恐怖を、姉は涼しい顔をしながら一人で受け止めていた現実を、僕はようやくその日に身を以もって知ったのだ。
僕は姉の事ならすべて理解しているつもりだったのに、実は何も知ってはいなかったことに酷く幻滅し、何故、姉について"知らないことが存在する"のだと自分自身を責めた。この病院に入院する何か月か前、「姉のことは自分が守る」と大見栄切って、姉を自宅療養ではなく通院と入院メインの生活にさせようとしたのは僕であった。姉は僕のそんな気持ちを知っていたから、何も言わず従ってくれて、あの病室を終の棲家とまで決め、そこまでしなくても良いのに高校を退学した。だから、姉が涅槃に至る日が来るまで、僕には姉を守る義務があるのだ。
僕は
夏休み二日目のことだった。自分でも抑えきれない不謹慎な高揚感の中、僕はあの病室に泊まる用意をしていた。その最中、暗黙の了解で互いに"いないもの"であると無視し合っている父から声を掛けられた。
「母さん――早期の癌みたいなんだ」
僕は何か月かぶりに父を真正面から見た。そのもみあげには去年まではなかった白髪があり、あれだけ姉を詰めてきた悪魔のような眼には力が無く、頬も衰え垂れ下がっていた。姉の不治の病という現実を受け容れられず、不都合な記憶を消して姉と僕を捨てた母に付き添っている父。彼らの間には"子供がいない"ことになっていて、僕も姉も母を見舞ったことは一度もなかった。父は母に合わせるように、母の病室に飾る為の写真には、彼ら二人しか映っていないものを選んでいた。
僕は父を憎んでいたが、母を憎むことはできなかった。父は姉に対して直接的な攻撃をしていたが、逃避が始まっていた母はその様を呆然と見ているだけだった。父は母が無垢な世界に行ってしまった原因である姉に酷く当たっていたが、姉の病が発覚するまでは、どこにでもいる普通の父親だった。妻を愛し、姉も僕も愛されていた。だけど、彼にとって最も愛していた妻が遠くへ行ってしまったことで、彼自身の理性もどこかへ旅立ってしまった。僕はそれに嫌気がさして父を認めることがができなかった。――今もなお、婚約者にどんなに諭されようとも、僕は父を恨み続けているのだ。
「――それで?」
どう考えても、それしか返事が思いつかなかった。父は何も反応せずに続けた。
「母さんな。あの病院で癌が見つかってから何故かわからないが、少しずつ記憶が戻ってきているみたいなんだ。それは断片的だったり、ただの虚構だったりあいまいなものでしかないのだが、過去の事実も口にするようになってな」
僕は酷く不愉快になった。だから何だというのだ。僕や姉が見舞いにでも行けば何か思い出して、元の家族になれるとでも言うのか。確かに、僕は母を恨んではいなかった。それは母に非が無いからではなく、僕も母を記憶から消したからだった。居ない者に抱く感情などは持ち合わせていなかったから、今更家族関係の再構築に乗り出す気持ちなど、一切持てなかった。
「明日、これを持って母さんの所へ行ってやってくれないか?」
父はA4サイズの書類が入る封筒を僕に渡した。その封筒の表面には父の会社の名前や住所が書かれていた。
「見舞いの際、これを俺から預かって渡すように言われたと、母さんには伝えて欲しい。母さんの体調も良くないし、記憶で混乱してもいけないから、あくまでも使いで来たことにしてくれ。病院と母さんには、俺の会社のバイトとしてお前を向かわせると伝えてある。勿論、母さんはお前をまだ認知はしていない。これを渡すだけで良いから、会ってやってはくれないか?」
あまりにも一方的な話に言いたいことは山程あったが、僕は「わかった明日行くから」と呟いた。僕の知っていた父であれば無駄なことなどはしないはずだ。きっと何か意味があるのだろう。だけど、こんな小芝居を考えられる時間があるのなら、その百万分の一でも姉について心配しても良いではないかと、無駄だとわかっていながらも、感情的な怒りを蒸し返してしまった。
僕は父を睨みつけてから、当てつけるかのように乱暴に書類を鞄にしまった。
行く前にスマートフォンで調べてみると、母の病院は自宅から電車で二時間近くかかる、海の見える小高い丘の上にあるようだった。僕は夏休みに一緒に出掛けたいと言う彼女の願いを、このイベントで"ついで"に消化してしまおうと考え、彼女を同行させていた。姉と結託している彼女は、僕が知らぬ間に友達のポジションから恋人になっていた。僕は彼女に構う暇も気持ちもなかったが、彼女のことを好ましく思っている姉のご機嫌を取る為にも、仕方なく彼氏でいることにしていたのだ。彼女は多分僕のことが好きで、本来ならそのことは幸せであるのかもしれないが、電車で僕に肩を寄せて居眠りしている彼女を見ても、可愛らしいとは思えても、愛おしいとはどうしても思えなかった。いつかきっと、僕は彼女で初体験を済ますのだろうとは思っていたが、その時の僕は、彼女と上手くできるイメージなどまったく浮かばなかった。
最寄り駅に着き、駅前の喫茶店ででも待っているようにと彼女に一旦別れを告げると、僕は病院行きのバスに乗った。ぼんやりと外を眺めていると、バスは絶えず登り坂の山間部を走っていた。時折、山から抜けると海が見えてのどかな光景が広がった。都市ビルの合間にある姉の病室から見る人工的な景色とは違い、自然豊な風景だった。にもかかわらず、どこか油絵の中に居るような非現実的な世界に見えた。
バスを降りて病院の自動ドアをくぐり、言いつけられた名前で受付を済ませると、母の病室を知ることができた。僕は受付の横にあるエレベーターで十二階に上り、長く幅の広い廊下をひたすら歩いた。時折、白いリノリウムの床に僕の靴が擦れるとキュッと鳴った。それが目立つくらいに誰もいない静かな廊下だった。百メートルはあろう廊下には窓がなく、蛍光灯と天窓がついていた。強い日差しが天井から降り注ぎ、僕に暑さを容赦なくぶつけてきていた。
姉には何も言わずにここまで来ていた。前日、彼女にも姉には内緒にするように厳しく言いつけたが、どこまでそれを守っているのかは不安だった。僕は姉には知られたくはなかったので、念の為、彼女には「姉とは仲の悪い叔母の見舞いに行く」と言った。それを聞いて彼女は「そんなのうそだぁ」と快活な口調で笑いながら言ったが、僕が眉を顰めると黙って頷いた。その後、僕は姉にはあの病室以外のことで心が乱れて欲しくはないのだと、キスをしながら偽りの無い気持ちを彼女に伝えて、秘密を守るように頼んだ。自分でもひどい奴だとは思ったが、僕にとって、姉以外に配慮すべき存在はこの世にいないとその時は信じ込んでいたので、誤りの無い自然な行為だと思っていた。彼女は「秘密にする」と言ってから、何度もキスをせがんできた。
突き当りを右に曲がり、再度、数十メートルの白い廊下を歩くと、よくやく母の病室に着いた。僕は心の準備をすることもなく、ノックして部屋のドアをスライドさせた。母も個室に入院しているようで、一人で姉よりも広い部屋で寝ていた。あたりを見渡すと、窓が少しだけ空いていて、薄黄色のカーテンと白いレースが競うようにゆらゆらとしていた。姉の病室に比べると母のそれは母自身の部屋という感じがして居心地が悪かった。姉の居る病室は誰も来ない為の部屋だが、母のそれは誰かを迎え入れる為の部屋のように見えた。ソファーも机も普通の家庭にあるような一般的な家具で、ベッドも姉のようなパイプ型ではなくて、自宅の寝室にあるような木製のベッドだった。天井には不愛想な蛍光灯ではなく、可愛らしいカバーに囲まれた白熱灯の照明があり、冷蔵庫は木目調の上品なものだった。ベッドサイドの戸棚には写真立てがあり、父と母の二人だけで映ったあの写真がおさまっていた。その前には母の指輪が置いてあり、二人の愛情がこの空間を満たしているように見えた。僕は父がここで母と過ごす時間を想像してしまい、吐き気を感じた。きっと父と母以外の部屋であったら、仲睦まじい二人の部屋でしかないのだろうが、あの父をことを思い出してしまうと、どうしても気分が悪くなるってしまうのだ。
「あら、貴方は?」
母は目が覚めたらしくベッドから起き上がった。僕が最後に見た母に比べるとやはり老いていた。目の隈がひどく髪にも元気はなかった。
「突然すいません。あなたの――旦那さんから、この書類を渡すように言われた者です」
吐き気を抑え、そう言い終わっても、母は五秒程僕をじっと見ていた。
「――ああ、そうそう。主人から聞いていましたわ。ごめんなさいね。わたし、記憶力が良くないもので、こんな遠くまでわざわざすいませんね。どうぞ、座ってください」
点滴してベッドから離れられないのか、母は僕にパイプ椅子を勧め、僕はそれを手にして母の前に置いて座った。認めたくはなかったが、僕は何年振りかの母への対面に、やはり少しだけ緊張していた。
「こんなお若いのに。主人とは仕事の関係ですか?」
「はい。旦那さんの会社で学生アルバイトをしていまして。旦那さんにはいつもお世話になっております」
「まあまあ、そんな挨拶が出来て、立派ね」
母は楽しそうに笑った。最早老婆と言ってしまっても良い様な姿からでも、その笑顔は僕の記憶の隅に残っている、母の笑顔だった。
「……素敵な、部屋ですね」
しばらく沈黙が続き、僕は耐えられずそう言葉を漏らした。母は「ありがとう」と言うと、窓の方を向いた。
「……貴方、主人から他に何か言われてはいませんか?」
さりげない母の問いかけだったが、僕の本能が警戒の信号を脳に送って、冷静に返答すべきだと用心することができた。
「――いいえ。これと言っては。この封筒を奥様にお渡しするように頼まれただけです。すいません。お見舞いではなかったので、何も持ってきませんで」
「いいのよ。ごめんなさいね。変な気を使わせちゃって。わたし、この頃、変な記憶みたいなものを夢で見たりするのだけれど、それを夫に話すと、何故か話をはぐらかされてしまって。もしかしたら、夫が何か隠しているのかな、なんて疑ってしまったりしているのよ。だから、もしかしたら夫は貴方になら、何かわたしの愚痴や不満でも漏らしてはいないかと思って、つい――」
母は窓を向いたまま続けた。
「本当に、聞いていないかしら?」
「……すいません」
僕は自分の感情を切り離して、反射的に答えた。
「そう……」
母は僕の方を向き、点滴をしていない右手で僕の頬に触れた。僕はその急な仕草に戸惑いながら、何とか声を絞った。
「奥様は、どんな夢を見るのですか?」
苦し紛れに吐いた僕の言葉が母の心のどこかに刺さったようで、母は笑顔になって僕から手を戻して語り始めた。
「最近、よく夢を見て、記憶の様に思い出す話があるの。わたし達夫婦には子供なんていないのに、子供がいる夢を見るの。だけどね。わたしたちは何年もの長い間、子供を授かることができないの。わたしはその事にとても苦しんでいたら、ある日、夫が養子を迎えようと言ったの。わたしはビックリしちゃって。だけど、これ以上不妊治療で心身が痛めつけられるのに耐えられなくなって、それに同意をしたの。そしたらね――」
点滴をしているのに、母は両手を合わせた。
「なんと、可愛らしい女の子の赤ちゃんが家にやってきたの。それはもう、可愛くて堪らないの。だけど初めてのことだから、知識は勉強してあっても、実際目の前にすると、どうして良いかわからずに主人と悪戦苦闘するのよ」
そんな荒唐無稽な夢について遠い昔の記憶のように語る母を見て、僕はどう受け止めれば良いのだろうかと戸惑っていた。
「そんなこんなで精一杯お世話していたらね、あれだけできなかった赤ちゃんが、わたしたちにもやってきたの。もう、びっくりしてしまってね。女の子をお世話するのに夢中だった一年で、まさかあれだけできなかった、自分達の子供を妊娠するなんて。どんな奇跡が起きたのだろうかと、わたしも主人も目を白黒させて驚いたのよ」
僕は黙っていた。その話がどこまでが本当で、どこまでが嘘なのだろうか、母の口調や表情で切り分けようとしていた。――いや、切り分けようとしたがる時点で、僕はその話をどこか信じたい気持ちがあった。これは否定しなければいけない話なのだから信じては駄目だと、心の中で何度も理性で自分を抑えつけようとした。
「――奥様と旦那さんの間に生まれた子は、男の子でしたか? それとも、女の子でしたか?」
だけど、自分でも止められない何かが、僕の口を勝手に動かしていた。
「それはね、男の子だったわ。そうね、貴方に似たような顔をしていたような気がするわ。あら、可笑しいわね、わたしは何を言っているのかしら」
「……すいません、失礼なことを聞いてしまいまして」
「いいのよ。わたしが勝手に話し出したのだから。わたしだって、自分の夢でしかないことを本当にあったことの様に話をして、変だとは思ってはいるのよ」
母はそう言いながら、枕元にある僕が持ってきた以上の大きさと厚みのある、封印された茶封筒を渡してきた。
「たった今思い出して。ごめんなさいね。これ、主人から貴方に渡すように言われていたの。もうここの所、昨日今日の出来事をすぐ忘れるようになってしまって」
「……ありがとうございます。助かりました」
僕はそう言うと、全身が震えるのを悟られぬよう、できるだけゆっくりと立って、母に別れを告げた。母は「遠いところありがとうございました。今度は主人と一緒にでも来てくださいね」と言って笑った。それは、僕が捨て去った筈の、子供の頃の記憶をほじくり返すに十分な、愛情のある笑顔であった。
僕はただ黙って、頭を下げ、部屋を出た。そうしないと、自分が自分でいられなかった。
帰りもまた、あの長くて広く、白い壁と床の廊下を歩いた。僕は母の言葉のひとつひとつ思い出しながら、封筒の封を乱暴に破り、中に入っている書類を何枚か取り出して目を通してみた。そこには、僕は信じたくない――いや、本当は望んでいた――真実が書かれていた。
僕は天井を見上げた。天窓からは先程と何も変わらない、眩しい光と容赦の無い暑さが、僕に降り注いでいた。
(続)
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