第5話

 あれ程楽しみにしていた夏休みを、母の見舞いの時に知ってしまった真実のせいで、それからの数日を無駄にしてしまった。僕はその数日を自宅で過ごしていた。真実を知ってしまったことで、自分の立っている地面がぐらぐらと揺らされ、自分の立ち位置と心の居所を見失ってしまった。数十枚の書類が僕と姉との関係を変えてしまった事実に対して、どうしても感情の整理がつかなかった。

 結論を知ってしまえば過程に納得できる、後出しジャンケンのような答え合わせでしかないが、確かに僕は姉が父とも母とも似ていないと思ってはいた。僕の顔は父親似だと親戚連中に言われて育ってきた。一方、姉に対しては誰も容姿について触れる者はいなかった。せいぜい、大きくなったねとか大人になったね、くらいのものだった。姉の白い肌、長い髪やまつ毛、しなやかな首から肩までのライン。過不足を感じさせない乳房、女性的な腰や尻、そしてカモシカのような長い足。その一部でも姉を褒める者はいなかった。今となればわかる。姉が養子だという事は公然の秘密だったのだ。そう考えれば、姉の容姿が褒められてこなかったことは、僕の推理に対して十分な根拠になりえるのだった。

 理由がわかっても僕の気持ちは晴れるわけではない。僕の一番の悩みは、これから姉にどう接していけば良いかわからなくなったことだ。姉弟だから姉の世話をしてこられたことを、これからも続ける自信がどうしても持てなかった。洗濯物や姉に触れないとできない補助。例えば、ベッドから車椅子への移動、髪や爪の手入れ、浮腫みのマッサージ、具合悪くなったときの着替え、そして生理の手当。姉として見られたからこそ、抵抗なくできたことのひとつひとつが、これからもできるなんて、僕にはどうしても思えなかった。いくら姉が真実を知らなくとも、僕が意識してしまえば、躊躇してしまう。その戸惑いを姉は不思議に思うだろう。僕はその時にどう弁明すればよいか、アイデアが頭に何も浮かばなかったのだ。

 

 そもそも父は何故、このタイミングで真実を僕に伝えたのだろう。いくら記憶を浮かび上がらせてきたとはいえ、母に会わなければ僕には真実に辿り着く術はない。僕が父を憎んでいる事など、父は百も承知だ。なのにわざわざ母を介して真実を知らせてきた。僕は何故かを知りたいとは思ったが、父には聞かなかった。正解に言えば、聞けなかった。父とはあれからも無視し合っている。だから父の思惑は永遠に闇の中なのである。

 それよりも大事なのは、姉が本当にこの真実を知らないのだろうか、ということだ。もし知っていたとしたら、僕のそれまでの弟としての言動は何だったのだろうと思うし、知らないのであれば、僕は姉にどう接していけば良いかという悩みと、いつ姉似真実を伝えれば良いかという重い命題を抱えなければいけなかった。どちらにせよ、今までの自分に何枚もの仮面をつけて姉に接しないといけないと思うと、どうしてもあの病室に足が向かなかった。夜を徹して考えても、僕がすべき役柄は確定しなかった。だから、中途半端な自分を姉に見せたくなくて、姉だけでなく彼女との連絡も絶って、自室に一人籠っていたのだった。

 実の所、これだけの事柄や自分への気持ちを理屈で並べることは難しくなかった。僕が自分の中にある嘘偽りのない本当の気持ちさえ無視すれば、僕はこれからも姉の弟を演じれば済む話なのだ。だけど、僕がどうしても認めたくなくて——認めたかった感情のせいで、身動きができなくなっていた。この数日を総括すれば、それが全てだった。だから、僕の気持ちはグルグルと回って彷徨い続けていた。この苦しみを誰かに理解してもらうことは、非常に困難どころか危険極まりない行為だった。だから僕はこの苦しみを一人で抱える為に、一人の女性をこれからも愛おしい姉として見なければならないと、結論を下し、あの病室に戻る事に決めたのだ。姉には死ぬまで姉でいてもらい、僕は沸き続ける”あの人”への感情に蓋をして生きていこうと、この時はそう決めたのだった。


 七月の末日、姉は病室のベッドで僕に二つのお願いをしてきた。その一つはとてもささやかな願いで、焼いたパンを食べたいというものだった。病院食はパンを焼く事ができず、代替として蒸したようなパンが出てきた。何が契機なのかは不明だったが、姉はパリッとしたパンを食べたくなったらしい。僕は家にある、焼けるとガシャンとパンが上にあがるトースターとパンを持ってくれば大丈夫と伝えると、姉は首を横に振って二つ目の願いを言って来た。

「彼女が美味しい食パンを知っているから、彼女をこの病室に連れてきてくれないかな?」

 僕は、なるほど、と唸った。姉は姉なりに僕がこの病室に誰も入れたくないのを理解していて、どんな口実を作れば良いか考えていたらしい。それまでの僕であれば、姉という特別な親族への甘えもあって、断固拒否しただろう。しかし、僕の中で自分でもまだうまく具体化できない遠慮のような気持ちが心の中で生まれてきてしまい、「彼女に伝えてみるよ」と姉に言ってしまった。僕の言質と取った姉は間髪入れずに彼女にメッセージを入れると、彼女からもすぐに返事が来た。僕のその茶番に苦笑しながらも、「いつ持って来ればいいの」と尋ねると、姉は「明日の午後」と言った。僕のスマートフォンの着信音が鳴ったのでスワイプしてみると、彼女がウインクした自撮りの画像が送られてきていた。


 翌日の昼。高級そうな食パンが一斤丸ごと入った紙袋を持った彼女が僕の自宅にやってきた。彼女を迎え入れ玄関のドアを閉めると、この時間には誰もいないことを知っている彼女は、僕に抱きついてキスをした。僕はいつのようにそれを受け入れ、頃合を見計らって彼女を引き剥がした。

 彼女に幾つかの注意事項を告げてから、電車に乗り、病院の自動ドアをくぐると、彼女は受付で見舞用の用紙に記入を始めた。見知った中年女性の看護師が通りかかり、彼女を見て、「貴方の彼女さんかしら」と悪戯っぽく笑いながら言ってきた。僕が曖昧な返事すると彼女は不満そうな顔をしたが、書き終えた彼女の手を優しく引いてエレベータに乗ると、彼女の機嫌は直ぐに回復した。気分の良くなった彼女は調子に乗って、姉の病室のある四階のボタンを素早く押した。その慣れた行動が、彼女が何度もきている証拠になった。僕はそれを見て見ぬ振りをしたが、あの病室で僕の知らない姉を彼女が作り出していることに、僅かながも不快感を覚えていた。

 四階に到着し病室のドアをスライドすると、この病室では初対面のはずの姉がソファーから立上って、彼女を抱きしめて迎えた。

「本当に久しぶりね」

 しれっと、久しぶりの対面を演じる姉に対して、不器用な彼女は不器用な反応で返した。僕は二人に見られぬように顔を背けて苦笑した後、トースターを彼女に預け、トーストを食べるおやつの時間までは、二人にしてあげることにした。

「下にでも行って来るから、食べる時間になったら連絡してね」

 彼女にそう言うと、彼女は姉を見たままの格好で「わかったわ」と言った。


 エレベータに乗ろうとナースステーションの前に行くと、最近入院してきた若い女性入院患者がベテラン男性看護師に不満と要望を言っていた。個室の設備に不備があるらしく、女性がネチネチとその看護師に言うと、気の強そうな彼は彼女の言い分を聞きながらも、要望についてはきっぱりと断っていた。僕も彼くらいの気概があれば、父や彼女との関係をもっと別なものにできていたのではないかと思った。

 エレベータが来ると隣で待っていた膠原病で入院している年老いた男性患者と一緒に乗った。僕は一階を押すと、彼は遠慮がちな態度でそっと地下二階を押した。

 一階に降りると、外来患者と病院スタッフが慌しく往来していた。その風景に僕は一気に現実世界に引き戻された気分になった。入院当初、一階の隅にある売店に姉と行ったとき、姉は「あの病室がいかに静かなのかわかったわ」と呟いていた。僕も小さく頷きながら「そうだね」と返した。同時に、この世の中から切り離されたあの病室の存在に感謝をした。僕はこの為に姉をあの病室に入れたのだと、一階の喧騒によって再確認できたのだった。

 その隅にある売店に寄ってみると、本棚には週刊誌と、血圧や糖尿病、腎臓病などの病気を解説する本、そしてそれらに対する食事療法の本が置いてあった。僕は姉と一緒にいることで、それらが必要と感じて購入する頃にはほとんど期を逸していることを知っていた。姉もその対象だったのだが、姉には本の代わりに医師からの指示と栄養士の指導があったので、それらの本は無縁なものになった。


 売店には時間を潰せそうなものはないとわかった僕は、会計課からエレベータを挟んだ隣にある喫茶店に足を運んだ。多くの見舞客やパジャマのままの入院患者が遅めのお昼とカフェを嗜んでいた。僕は隅の一人用のテーブルに座ると、アイスティーを頼んだ。本当はコーヒーを飲みたかったのだが、ここの煮詰まったコーヒーは僕には耐えられないものだった。代わりに頼んだとはいえ大して美味しくもないアイスティーがやってくると、僕はすることもないので、姉と彼女がどんな話をしているのか想像することにした。僕の知らないところで彼女は姉に会っているのだから、積もる話などはないだろう。せいぜい、僕と彼女の近況とか学校のことくらいなものだと思っていた。その時の僕はガールズトークというものがどんなものか知らなかったから、二人が話している内容など呑気なものなのだろうと決めつけていたのだった。後年になって彼女にこの日に何を話していたかを尋ねたことがあったのだが、彼女は少しだけ照れた笑いをしながら、自分が僕にどんなキスを試しているとか、その時に僕の股間がどうなっているのとか、あられもないことを姉に話していたと言った。当時の僕が知っていたら卒倒しただろう。説明してくれた彼女に対して、僕は複雑な気分になりながらも、その時の姉についても語ってくれたことも含めてお礼を言った。

 スマートフォンに帰還指令のメッセージに添えられた二人の投げキッスをした写真が送られてきた。僕は頬を引き締めながら会計を済ませて、エレベータに乗った。四階に着くとナースステーションは静寂を取り戻したようで、あの女性患者は居なかった。僕の顔を見た先程の看護師が、「おやつの時間だから」と僕に袋に入ったクッキーを数枚くれた。僕はお礼を言うと、彼は先程はあれだけ勇敢だったのに、恥ずかしそうに「メーリークリスマス」と呟いた。僕は同じ科白を返してから、病室に着く前にそれをポケットにしまった。


 病室まで来ると、香ばしいパンの香りが漂っていた。僕はこれでは内緒でパンを焼く事はできないなと苦笑いしながらドアをスライドさせた。

「おかえり、!」

「君にその呼び方を許したつもりはないのだけど」

 姉の口真似をした彼女は、悪びれることもなく舌を出して笑った。

「さあさあ、早速食べましょうよ」

 待ちきれない姉は僕らを促してソファーに座らせた。テーブルには焼きあがった何枚かのトーストと、イチゴとブルーベリーのジャムがあった。僕は座った視線の先に違和感を覚えたのでテレビの棚を見てみると、そこには写真立てが二つ置いてあった。きっと彼女が持ってきてくれたのだろう。左の写真立てには入院初日に姉と撮った二人の写真が飾られていた。おどけた顔をして撮ったせいか、一年しか経っていないのに僕も姉も幼く見えて懐かしさを覚えた。おどけていてもこの病室で一生を過ごす覚悟をした姉の顔は、何度見ても綺麗だった。右の写真立てには何も写真が入っていなかった。恐らく、そこには彼女を含めた三人の写真が入るのだろう。この病室に僕と姉以外の異物が増えることに諸手を挙げて歓迎する気にはなれないが、これはこれで姉の思い出になるのなら許容しようという気持ちにはなれた。事実、今まで彼女がこの病室に何度か潜んでいたことについても、純粋な怒りを感じることはなかった。

「いただきます」

 姉は早口で言うと、焼いたトーストを食べた。余程美味しかったのか目に涙を浮かべて、「おいしい。おいしいよ」と言った。僕は茶化すように「泣くほど美味しいの」と言うと、彼女が僕の脇腹を肘でつついてきた。彼女が言うにはこのパンは姉が食べたいと言ったもので、彼女が前日に一時間並んで買ってきたのだそうだ。彼女はそう説明すると、僕の前に拳を差し出してきた。僕は自分の拳を彼女のそれに当てて、彼女を労った。

「こうちゃんたちも食べてみて」

 姉が感激しながら言うので、僕も食べてみた。高級な食パンらしく生クリームとバターがふんだんに使われていて、正直僕には甘過ぎた。彼女も食べてみると、彼女は苦労した分の下駄をはかせた感情込みの大げさな「おいしい」を口にした。姉は僕たちを見て満足そうな顔をしてから、彼女にブルーベリージャムを塗ってもらったパンを口にした。何度も「おいしい」と言いながらパンを食べた。夢中になった姉の口の周りにはブルーベリーの紫が付いていて、僕は反射的にそれを拭こうとしたが、思い留まった。彼女は自分の二枚目のパンにイチゴジャムを塗り、それを半分に千切って僕に渡した。もう半分を彼女が食べると、僕は彼女のダイエットに付き合う為にその半分を口にした。唯でさえ甘いパンに甘いイチゴのジャムが塗られていて、僕は思わず眉を顰めてしまった。姉は吸い込むようにパンを食べると、三枚目に手を出そうとしていた。僕は止めるべきだったのだが、姉の笑顔を壊したくなくて、それを咎めず、黙って自分の残りをやっつけた。


 ささやかなおやつタイムを終えると、僕と彼女は片付けをした。彼女は食器を洗い、僕は彼女の横でトースターの中に残ったパン屑を本体ごとひっくり返して叩いてシンクに落としてから、外側を布巾で拭いた。姉はそわそわしながら僕ら二人が片付け終わるのを待っていた。

「どうしたの。今度は何かあるの?」

 僕が姉に言うと、彼女は視線を写真立てに向けた。僕は納得すると、「もう少しで終わるから」と伝えた。

 片付けが終わると、姉が待ち侘びていた撮影タイムになった。彼女は携帯できる三脚を持ってきていて、脚を伸ばしてから自分のスマートフォンを取り付けた。姉が手鏡とブラシを持ち出したので、僕はそれを受け取ろうとしたが、また思い留まってしまった。これまで姉の髪をブラッシングするのは僕の仕事であり僕の特権であった。それは弟だったからできたのあって、そうではなくなった自分ができるものではないと、本能的に考えてしまったのだ。僕がしないのであれば、手鏡とブラシは自然と彼女の手に渡り、彼女が姉の髪の面倒を見る役目になった。姉の長い髪を戸惑うことなく梳いていく彼女を見て、僕は嫉妬を含んだ寂しさを覚えた。僕が姉に触れる機会を一つ奪われたような気がして、少しだけ哀しくなった。

「こうちゃん、来て」

 ブラッシングをしてもらった姉は、手招きして僕をベッドの上に座るよう誘った。僕はベッドの真ん中に腰をかけると、姉は僕の左側に座った。

「タイマーで撮るからね!」

 彼女はそう言って、スマートフォンのカメラアプリにある十秒タイマーの撮影ボタンを押すと、急いで僕の右隣に座った。その後、姉と彼女の二人は僕の頬に、キスをした。カメラの撮影音が鳴っても僕の両頬は温かいままだった。僕の心臓は情けないくらいに暴れ、耳が熱くなるのを感じた。僕は左側の頬の感触がいつまでも続かないかなと思いながらも、なんとか理性を保とうと目を閉じた。それでも自分を抑えられそうもなくて彼女の方の手を握って、自分の秘めた想いが溢れないように誤魔化そうとした。彼女は僕のそんな気持ちを知る訳もなく、優しく握り返してきた。

 二人のキスはまだ続いていた。僕は姉にキスをされている喜びを、否定し続けなければならなかった。それが僕にとってどんなに残酷な行為であるかも知らずに、姉はキスを止めることなく、僕に身体を寄せて腰に手を回してくるのであった。


(続)

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