第6話

 自分自身が試された夏休みをどうにか駆け抜けることができた。僕は自分に対して毎日何度も弟であることを言い聞かせて姉と接してきた。あの静かな病室で姉が普段通りにベッドに寝転び、入院着から下着をちらつかせながら足をバタバタさせてスマートフォンを弄っているときでも、姉が無造作に入れた洗濯物の袋を開けるときでも、洗濯ネットに下着を入れるときであっても、僕は今まで通りに弟としての役目を果たそうとした。時折浮腫む姉の足をマッサージする時には、いやらしい気持ちにならないよう、無心でやってきた。逆に言えば、それくらい姉の事を一人の女性として意識をしてしまっていた。最早僕自身でも否定しきれない気持ちが姉にぶつからぬよう、僕は息を潜めながら静かに姉を見るようにしていた。姉自身はこれまで通り、良くも悪くも容体が安定していて、見た目では病人だとわからないくらいに元気だった。車椅子に乗せる時に触れる長い髪にも艶があり、手や足の爪も健康だった。もしかしたら、あの病室に居なくても良いのではないかと思うくらいに無邪気に生活を送っていた。病院の駐車場で催された夏祭りには、久しぶりに外出をした。姉は彼女に浴衣を着せてもらってとても上機嫌になっていた。僕は彼女に感謝しながらも、視線は姉に釘付けになった。浴衣姿の姉はいつも以上に大人びていてとても素敵だった。あまりにも僕が姉を見ているせいで、彼女がむくれてしまい、慌ててフォローするくらいに、僕は姉に見惚れていたのだった。


 平穏な秋が急ぎ足で過ぎ、冬を迎えクリスマスのイルミネーションが目立ち始めたある日、彼女は僕の部屋で「制服を脱がしてほしいと」迫ってきた。僕はそれまで彼女に対して、のらりくらりと緩い交際を続けてきた後ろめたさもあったので、これまでもやんわりと誘ってきていた彼女の願いに、とうとう向き合う覚悟をした。彼女は鞄から茶色で無地の小さな紙袋を取り出すと、僕に渡した。僕はそれが何なのかくらいは理解していたから、黙って受け取った。彼女が制服のまま僕のベッドに寝ると、目を閉じで、お腹の上で手を組んだ。

「何も君を食べるわけじゃないのに」

 僕は緊張もあっておどけてみせたが、彼女は何も言わず、その先を待ち続けた。僕は愛想のない紙袋から中身を取り出し、ベッドに膝をかけ、彼女の上に跨った。彼女は小さな声で、いいよ、と言うと、両手で僕の肩を優しく掴んだ。僕はそんな彼女にキスの雨を降らせた。キスを終わると彼女は目を開け、僕に微笑んだ。ようやくだね、と彼女は言うと、僕の頭を撫でてくれた。僕は頭の中で何かが弾けるのを感じながら、貪るように彼女を抱いた。

 事が終わると、彼女は僕の横で静かな寝息を立てていた。僕は彼女の寝顔を見ながら、これまで目を逸らしていた二つの件について考えてみた。一つは両親のことだった。姉と二人で暮らすと言いながらも経済的には父に依存していて、母の看病もしていない。文字だけなぞってみれば、僕はただの親不孝者だった。だけど、両親については、彼らの方から僕らを見放した経緯があるのだから、罪悪感や申し訳なさを覚えることはなかった。むしろ、父への憎悪や母への無関心が時間を経てば経つ程、拍車がかかるだけだった。だから、僕はこの件ついてはいくらでも目を逸らして良いと、自分に言い聞かせているのだった。

 もう一つは彼女についてだった。これまでは姉の希望として彼女と付き合いを続けるという建前で彼女と接してきたが、僕には僕なりの理由があった。それは彼女が姉にどことなく似ていたからだった。多分、彼女は意識的に姉に寄せてきていたのだとは思う。髪型を変えるため、姉のように髪を伸ばし始めた。この時は彼女の髪はすでに肩甲骨あたりまで伸びてきて、背格好も似ていることから、後ろ姿を見ると姉と間違えそうになるくらいだった。それ以上に僕を惑わせているのは彼女の目元だった。彼女のそれは姉によく似ていて、特に笑っている時には彼女を通して姉を見ている気分になった。そんな彼女だからこそ、僕はなんだかんだ言いながらも、傍に居ることを許してきたのだと思う。夏休み以降も、彼女が姉との二人だけの空間に入ってきても、僕は彼女を許すことができた。二枚目の写真立てを見る度に、僕は姉のことを思いながらも、彼女を忘れることがなくなっていったのだった。

 彼女について最も目を逸らしてきたのは、姉との関係と彼女自身についてだった。あの病室に入るために、自分の大切な友人や学校まで捨て去った姉が、何故彼女だけには執着を示しているのか。スマートフォンで楽しそうに彼女とやり取りをしている姿を見て、僕はそっとしておいた方が良いと思い、これまでは目を逸らしてきた。だからどう考えてみても、姉はどうして彼女を大切しているのか。この時の僕にはまったくわからなかった。

 初体験を済ませた彼女自身をほとんど知らないことに気がついた僕は、彼女が何者であるのかも知らなければならないような気がしていた。彼女について語れることは、姉が在校時に委員会だか何かで知り合ったということ。恥ずかしいからと彼女の家には一度も行ったことがないこと。姉にどことなく似ていること。そして、僕を好きなことだけだった。思い出しても彼女の好きな食べ物や趣味など、これまで付き合った時間の中で幾らでも知る機会があったのに、僕はその機会の全てを流してきた。大事なのは姉のことであり、彼女はどこまでも姉を喜ばせるために付き合ってきたのだから仕方ないことだと言えばそれまでだが、こうして情を通じてみると、姉とはまではいかないが、それに近い愛おしさを感じるようにはなっていた。

「君は一体、何のために姉と僕の前に現れたのかな」

 僕は彼女のおでこにキスをした。彼女は言葉になっていない寝言を言いながら、顔をベッドに埋めた。


 クリスマスイヴは彼女と過ごしなさいと姉から厳命されていたので、従うことにした。彼女はやはり自宅には来てほしくないというので、少しだけ背伸びしたレストランで夕食を食べてから僕の部屋で過ごすことになった。彼女からはマフラーをもらい、僕は彼女が欲しがっていた万年筆をプレゼントした。ベッドでキスをして互いに触れ合いながら、新しく買ってきてはいても、あの同じ色とサイズの無骨な紙袋に入ったもの取り出し、何度目かの睦み合いをしてから一緒に朝まで寝た。


 クリスマスは学校をサボって姉とささやかなクリスマスパーティーをする予定だったので彼女を誘ってみたのだが、彼女もサボっていながらも、せっかくだからと二人で過ごすよう勧めてきた。髪をかきあげる仕草が少しだけ姉に似ていて、僕はドキッとしながらも彼女にお礼を言って、唇にキスをした。すっかりキスにハマっていた彼女はあらゆる方法で僕と口で繋がろうとした。僕はチラッと目を開けて時計を見て、まだ時間があることを確認してから、彼女を押し倒した。

 お昼になったので、僕は彼女に急かされるように着替えをさせられ、家を出で彼女と別れた。姉とクリスマスを過ごすためにスーパーで食べやすいチキンを選び、ケーキ屋に寄って小さなホールケーキを買って病院に着いた。一階の受付の横には数日前からクリスマスツリーが飾ってあり、小児科の入院患者であろうパジャマ姿の子供達がクリスマスグッズのサンタクロースやトナカイの被り物をして集まっていた。サンタクロースの恰好をした若い事務の男性が彼らにリボンのかかった小さな箱をプレゼントしていた。近くにある耳鼻咽喉科の外来患者と思われる老夫婦が目を細めてそれを眺め、前側にだっこ紐をした母親が赤ちゃんにツリーの飾られた金色の星を触らせていた。僕はこの病院の小さなクリスマスに胸が温かくなりながら、エレベータに乗って姉の病室へと向かった。


「あ、首にキスマークがある」

 病室に入るなり姉の先制攻撃を受けて、僕は慌てて首を隠そうとするが、両手に荷物を持っていたので、ケーキを崩さないよう慎重にテーブルに置いてから、洗面台の鏡で見てみた。

「――何だよ、ないじゃないか」

「ふーん。こうちゃん、あの子としたんだ」

「……そりゃあ、さすがにね」

 僕は姉に背を向け、手洗いとうがいを済ませ、コートに消毒スプレーをしてハンガーにかけた。

「ねえ、こうちゃん」

「なに?」

「……キスって、どんな感じなの?」

「この前、僕にしてくれたじゃないか」

「あれは頬だし。お姉ちゃんが言っているのは、唇の方」

 姉の声がどこか探るような感じだったので、僕は振り向いて姉を見た。姉は長い髪を弄りながら、ソファーに正座して僕を見ていた。

「どうってことは無いよ。ただ、唇に唇がくっつくだけだよ」

「ドキドキはしないの?」

「それは、多少はするかな」

「感触は?」

 姉は真剣な表情で僕を見ていた。

「どうかな。言葉ではうまく言えないよ。唇は唇だし」

 テーブルにあるチキンとケーキを取り出そうと手を伸ばすと、姉は僕のその手を掴んだ。

「お姉ちゃんにもしてほしい、って言ったら、どうする?」

 僕を見上げる姉を眺めながら考える。どうしてそんなことを言うのか理解できなかったからだ。クリスマスイヴを彼女と過ごしたことに嫉妬をしているのか、あるいはそのことに当てられて、女性としての欲求が動き始めてしまったのか。僕は慎重に考え行動しなければならないと肌で感じていた。

「姉さんはキスをしてみたいの?」

「――うん」

「それは、僕じゃなくてもいいの?」

 大事な切り分けポイントだった。僕はできるだけさりげなく聞いて姉の反応を伺った。この問いに対する回答次第では、僕は理性を失いかねないからだ。

「多分、そうじゃない、と思う」

 姉はぽつりぽつりと言葉を漏らした。僕は思わず天井を見上げた。

「僕にしてほしいの?」

「うん」

 姉は掴んでいた手を放して、俯いた。

「急にどうしたの。今まではそんなことを言わなかったじゃないか」

「そうね。お姉ちゃんもどうかしてる、とは思っている」

 姉はスマートフォンから彼女からの写真を僕に見せた。そこには僕の胸に無数にある唇の跡が映し出されていた。

「アイツ、姉さんにこんなものを!」

 僕はカッとなってしまい、姉からスマートフォンを取り上げた。姉は小さな悲鳴を上げたが、構わずにその写真を削除した。

「姉さんとアイツはこんなことまでやり取りをしているの?」

 僕は怒りを何とか抑えながら、姉に問うた。姉は掠れた声で、「ごめんなさい」とだけ言って黙り込んだ。

「いったい姉さんはどうしたの。急にそんな写真を見せたり、キスしたいとか言い出したり」

 彼女と愛情が結びついて、そちらの欲求には満足しているからなのか、この時の僕は、純粋に姉として見ることができた。すなわちそれは僕が弟として姉に接していることを意味していた。僕は念の為、一旦自分の怒りと邪気を溜息で散らしてから、完璧な弟として優しく姉に言った。

「クリスマス、しようよ。チキンもケーキも買ってきたんだよ」

「そうだね。二人でクリスマスをするんだものね」

 そうは言いながら、姉は立ち上がるとヨロヨロとしながら、僕の胸に飛び込んできた。受け止めると、彼女が僅かに熱っぽいのを感じた。額には汗が浮かび上がっていた。

「無理しちゃ駄目だよ。ほら、ベッドに行こう」

 僕は姉の返事を待つことなく、肩を貸してベッドまで歩き、寝かしつけようとした。我慢していたのだろう、怠そうな姉はぐったりとベッドに寝そべった。そのだるさは医師を呼んでも仕方のないことを承知していたから、僕はパイプ椅子を持って来て、姉の傍に座り、ハンカチで汗を拭ってあげた。

「ごめんね。無理をさせちゃって」

「ううん。お姉ちゃんこそ、ごめんなさいね」

「いいから。今は少し休もうよ」

 姉は潤んだ瞳を僕に向けて、無言で首を振った。

「こうちゃん。お願いだから、黙ってキスしてほしい」

「まだ、そんなことを」

「あの子にはしているじゃないの」

「アイツは彼女だから」

「お姉ちゃんも、こうちゃんの彼女になりたいな」

「姉弟なのに、何を言っているの」

 僕はまったく自分が嘘をついている自覚もなく、そう言った。

「違うの」

「何が?」

 微妙な沈黙が漂う。

「――お姉ちゃんは、お姉ちゃんじゃ、ない、でしょ?」

 そう言うと、姉は僕を強引に引き寄せて、唇を重ねた。僕はその瞬間、これで、今まで逃げてきた姉についての全ての事に、向き合わなくてはならなくなったと感じた。

 僕はキスをしながらも体勢を変えて、姉を上から優しく包み込むようにした。一旦唇を放すと、姉の顔は具合の悪い土気色をしていたが、頬だけは僅かに赤くなっていた。

「もしかして、姉さんは知っていたの?」

 姉は黙って頷いた。

「でも、こうちゃんには一生話すつもりはなかったの」

「じゃあ、どうして今になって、想いを解放してしまったの?」

 姉はまたスマートフォンを取り出して、僕に見せた。

「こうちゃんが、知ってしまったから」

 そこには彼女が撮ったであろう、大きな茶封筒から出された書類が映っていた。

「――そうか。そうなんだね」

 きっとこの日を境に、僕と姉は終末への階段に足をかけてしまったのだと思う。僕はまた天井を見上げてから、自らの意思で、姉にキスをしてしまった。ようやく弟としての感覚を取り戻したのに、僕は愚かにも姉の誘いに乗って自分の本心を行動によって漏らしてしまった。そうなってしまえばもう、後はなし崩し的に姉へ自分の恋心をぶつけていくだけだった。

「好きだよ。姉さん。例え血がつながっていなくても、いても、関係ない。僕は姉さんのことがずっと、ずっと、好きだったんだ。あれだけ一生懸命、隠していたのに。姉さんは僕の気持ちを引き出してしまった」

「そうだね。本当にごめんね。だけど、お姉ちゃんも、ずっと前からこうちゃんのことが好きだったの。こうちゃんが知ってしまった以上はもう、すべてを話そうと思う」

 姉は三度、スマートフォンを手にして電話をかけた。その相手は言うまでもなく彼女なのだろう。

「――うん、うん。わかった。ありがとう、じゃあね」

 通話を切ると、姉は僕を見た。

「あの子からは許可をもらったわ。だから、お姉ちゃんがこれから言うことを黙って聞いてほしい」

 僕はベッドを降り、椅子に座り直した。姉が養子だということが互いに認知しているから、恐らく姉の話は彼女についてがメインなのだろう。だから僕は、本当は理解したくなかった彼女への結末を予想し、これから更なる苦しみを背負って生きていかなければならない覚悟を作るために、目を閉じた。姉は手を伸ばして僕の唇をそっと撫でた。

 目を開けて立ち上がり、チキンとケーキを冷蔵庫に入れてから、座り直して姉を見た。

「姉さん、すべてを教えて」

 姉はぐったりはしていたが、意思のある強い声で、わかった、と言った。


(続)

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