密やかな卒業
犀川 よう
第1話
十九歳という大半の人間が死と無関係でいられる年齢でいなくなってしまった姉と心の中で出逢うとき、僕が何度も想い浮かべる姉の顔は、終わりの時を迎える間際の灰色の顔でも、閉じ込められた箱の中にいる薄白い顔でもなく、入院初日の顔と姉と僕だけの病室での卒業式に見せた顔だった。
そのときの姉は確かに綺麗だった。眩ゆい笑顔ではまったくなかったけれど、密かに何かを決意していた姉の顔は、この世のすべてに認められたかのごとく光輝いているように見えた。入院時髪の長かった姉と卒業間際に短く切り揃えた姉は本当に綺麗だったのを今でも覚えている。
人はあれだけ死に吸い寄せられながらも透明でいられるのだということを教えてくれた姉を、僕は今でもいとおしく思っている。これは姉以外の家族や婚約者にすら感じることのない唯一無二のものだ。血を分けた者にもそうでない者にも感じることのない特別な気持ち。あの誰よりも有限でありながら終わりの見えない時の中に潜んでいた密やかな気持ちを想い出す度に、いとおしさが湧き上がり胸が一杯になる。今の僕にとって何よりも大切にすべき婚約者にすら感じない、別格な想いを姉は遺していったのだ。
十年以上経った今も僕はこの想いを抱いている。同時に、この想いをどうすれば良いのかわからないでいる。忘れることも昇華することもできずに心の淵に引っかかっている。何度振り返っても答えは無い。無いのをわかっていながらも思い返してしまう。時には一日の大半を記憶の中にいる姉と過ごしている。姉は何故僕にそんな想いを植えつけて亡くなってしまったのだろうか、と。
そして今もなお僕は姉に出逢うために、瞼を閉じて、返ってくるはずのない答えを求めにいくのだった。
病院というは残酷なくらいに平等だった。それを入院する高校二年生の姉とタクシーで病院に向かった初日に味わった。手続きをする為に会計課前の受付機の「入院」のボタンを押すと、既に待っている人が症状の軽重関係なく三人いた。僕は入院書類を取り出して目を通した。病状に限らず入院当日に本人に書類をサインをさせる部分があり、僕はそんな病院の隔たりのない扱いに腹が立った。検査入院のピンピンしてやたら声の大きい中年男性や、小指を骨折しただけの老婆が姉より先に受付に通されるのか本気で理解できなった。僕はそんな彼らを差し置いて一秒でも早く手続きを終え、姉をベッドで横にしてあげたかった。付き添いに来ている僕ですらうんざりしているのに、こんなところで姉の命が削られなければならないのは理不尽でしかなかった。
「大丈夫よ、こうちゃん」
姉は小さく笑った。その小ささに僕の怒りの温度が更に上がったのを覚えている。
「もうすぐだからね、姉さん。それとも看護師か誰か呼ぼうか?」
「大丈夫よ。お姉ちゃん待っていられるから、こうちゃんも落ちついて」
年子なのに姉は圧倒的に落ち着いていた。その日だけではない。生来の気質なのか姉が慌てたり感情を露わにすることはほとんどなかった。高校に入り、医者から最早戻らぬ道を歩いていることを告げられても、姉は静かだった。僕はその時世界の終わりを告げられたような絶望感に襲われていたが、姉は表情を崩すことなく自らに残された時間について、それまでに過ごす場所について医師に質問していた。どうしてそんなに冷静に聞けるのか本当に不思議だった。
ようやく僕たちの番になると僕は受付の神経質そうな女性に書類を渡した。待っている間にサインを終えた姉は外の長椅子に座っていた。女性は書類のひとつひとつ指でなぞりながら確認した。僕の隣にいる親子は退院手続きをしていたが、今度の入院はいつ頃、という会話が漏れ聞こえた。
「手続きは以上です。外に担当の者が迎えに来ますのでお待ちください」
後で知ることになるが、病院でさせられる最たるものは待つことだった。入院でも検査でも治療でも手術でも、最後を過ごした病室でも僕に課せられたものは待つことだった。
僕は姉の横に座った。姉の左腕が僕に触れた。姉の腕は生きる為の治療で荒らされた傷痕だらけになっていた。
「手続き、終わったよ」
「ありがとう。助かった」
「とんでもない。こんなこと姉さんにさせなくて済んで良かったよ」
「ありがと。それと支度、ごめんね」
姉は静かに笑った。全身を襲う怠さに苛まれる姉の笑顔にはどうしても力がなかった。支度さえ僕がしないとままならなかった。高校生活途中の思春期の姉が自分の下着や生理用品を弟に用意されたことに平然としていられるわけがないはずなのに、姉は僕に感謝と謝罪をしてくれた。
やがて担当らしき三十くらいの男性看護師が車椅子を押してやってきた。僕は看護師に名を告げ姉を車椅子に座らせると、僕よりわずかに背の高い姉が腰上くらいの高さになり髪の毛の分け目が見えた。姉の髪は長く車椅子の外側に流れていた。僕はガラス細工を扱うようにそっと掬い上げて背もたれの中にしまいこんだ。
僕が荷物を抱え、看護師が車椅子を押した。エレベーターの前でとまると看護師は姉に、「今日の天気や受付混んでたでしょう」などと他愛もない世間話をした。姉はゆっくり返事をしていた。僕はもはや姉には関係のなくなるその他愛もない世界の話をする看護師に、少しだけ失望した。
四階の個室病棟に着くと看護師が姉が暮らす部屋のドアを開けた。姉はまだベッドは部屋の奥にあるのに、車椅子から降りようとした。僕は慌てて姉を支えようとすると、看護師が「ベッドまで座っていて大丈夫ですよ」と言った。僕らは体勢も気持ちも宙ぶらりんになったが、看護師の言うことに従った。
病室はとても綺麗だった。ベッドは無垢な状態でピンとシーツが敷かれ、ソファーや棚も丁寧に清掃がなされていた。無論この環境はそれなりの値段がするのだろうが、この場にいない父が出すのだから僕たちには関係のないことだった。
母は以前より別の病院に入院していた。娘の病状を受け止めることができずに一人心を閉ざして安寧の世界で暮らすようになってしまったのだ。入院後は僕たちがいくら声を掛けても母親だった人からは何も返事がなかった。父は姉と僕を放置してそんな母に付き添うこと選んだ。そして父は家に帰ると病人である姉を責め立てた。「お前のせいで――」、と。その呪詛を遠慮なくぶつける父の顔は、怒りを通り越すと救われたような表情を浮かべていた。姉はその過程を黙って受け容れていた。本当に理不尽ながら姉は父に詫び母に詫び、そして僕に詫び続けた。それがどんなに異常なことかを両親は理解できなかった。姉に対する仕打ちに怒った僕は父の胸ぐらを何度も掴んだが、迫力がなかったのか鼻で笑われるだけか、姉が止めに入るだけで何の意味もなかった。むしろそれが姉の負担を増やすだけだとわかると、僕は何も言わず責められる姉の横で歯を食い縛って耐えていた。姉の受ける苦しみに比べれば大したことはないはずだったが、当時中学生の自分には胸が裂けそうな位に辛かった。とりわけ僕を心配する姉の顔を見ると、胸がとても痛くなった。
車椅子がベッドの前に来ると姉はベッドのサイドバーに捕まり立ち上がる。歩くことはできる姉が安全のためにとはいえ車椅子に乗るっていると、いよいよ入院なんだなと思い知らされた。
僕は姉がベッドに横になりリモコンで上半身を起こしているのを見ながら看護師の説明を聞いた。検温や食事の時間、部屋の機能や面会時間、入院案内の内容をかいつまんで淡々と話していく。僕はそれを聞きながら、この人は何人の未来の死者に対して同じことを説明してきたのだろうかと思った。
説明が終わると看護師はあっさりと帰っていった。もう少し感傷的で同情的な態度を示してもバチが当たることはないだろうと、心の中で毒づいた。
ベッドの向こう側には大きな窓があった。窓から下を覗きこむと、春先のさわやかな緑の中で患者や病院スタッフたちが往来していた。穏やかなこの部屋から見ると、階下の人たちは動画を早送りしているような動きをしていた。
外服のままベッドにいる姉を着替えさせようとすると、姉は手で制止した。
「姉さん。今更恥ずかしがることないだろ」
家にいたときは姉の着替えや風呂の面倒を僕が見てきた。治療から帰ってきて息切れしながらソファーに倒れこむ姉を介抱するのも僕の役目だった。トイレと風呂、寝る際の寝室以外で僕と姉が一緒にいない場所はなかった。姉の綺麗な顔も苦痛に歪んだ顔も、汚れた衣類やあらゆる類の血液も、僕はみんな見てきたのだ。
「違う、の」
横になったいた姉は顔をベッドを沈めた。黒く輝く髪がだらしなく流れた。
「ねぇ、こうちゃん。お願い聞いてくれるかな」
「何? なんのお願い?」
まったく予想のつかない質問に戸惑っていると、姉はベッドから起き上がり、荷物からブラシを取り出した。
そして、僕が今までに見たことのない澄み切った笑顔でこう言った。
「この服――私服姿で一緒に写真を撮らない?」
少しだけ困惑をした。姉の顔はあまりにも澄んでいて何も迷いがなさそうだったからだ。僕にはそれが何かを終わらせる人の顔だと思えたから、姉の小さな願いに応えることが、何かを失ってしまうように思えて少しだけ怖くなった。
「もちろんいいよ。でもどうしたの? いきなり写真なんて」
僕は自分の心を落ち着かせようと、姉に会話のバトンをそっと渡した。姉は表情を変えることなく僕を見ていた。
「だって、たぶん、洋服を着て写真を撮れるのは今日までだろうから。だからこうちゃんと思い出を残して置きたくて」
「そんなことないよ。外出手続きすればいくらでも外にも――帰りたくはないだろうけど――家にも帰れるし、なんだったらここでも部屋着や入院着でなくたっていいんだよ」
僕は誰に向かって心を落ち着けようと試みているのか分らない話を続けると、姉は無言でブラッシングをしながらスマートフォンを取り出した。僕はその仕草にやるせない無力さを感じながらも、しなければならないことを理解して、姉からブラシを取り髪を梳かした。艶のある長い髪もよく見れば小さなほころびがあり、少しだけ切なくさせられた。
姉がベッドから立ち上がると僕も傍に立った。姉の髪と肩に触れるくらいに近寄ると姉の身体の薄さを感じてしまった。僕は姉からスマートフォンを受け取ると、お互いが映るように斜め上に腕を伸ばした。
「撮るよ」
「うん」
姉はそっと僕の腕に絡ませて胸を寄せる。僕は気づかない振りをしながら何枚が写真を撮り姉に見せて確認した。姉は黙って頷くと僕はまた撮影を続けた。
何十枚も撮影していると僕も少しだけ楽しくなってきた。姉が時折いたづらっぽい顔をしてみたり僕がおどけてみたりしていると、この時間が永遠に続けばいいとすら感じるようになった。姉の背中に腰に腕をまわすと姉の華奢な身体が少しだけ震えるのが、申し訳ないけど面白かった。
いよいよ撮影会が終わると姉は再びベッドに寝転んだ。僕もソファーに座ろうとしたが、姉はそれをとめてベッドに腰掛けるよう促した。
「ありがとう。楽しかった」
「そうだね。僕も久しぶりに姉さんが楽しそうにしてくれて嬉しかった」
姉はふふと少しだけ微笑むと、バックから封筒を取り出した。
「もうひとつのお願い」
姉は起き上がり、その封筒を僕に手渡すとまた静かに微笑んだ。先程以上に何かを捨て去った後の透き通った表情が、とても危なくて――美しかった。
「こうちゃん、これを学校に出してくれるかしら」
僕は無意識に姉を抱きしめていた。姉の顔を見たいようで見てはいけないような気がしたけれど、精一杯気持ちを抑えて姉の横顔を見た。姉はすべてに安心するかのような穏やかな顔をしていた。僕はそれを見て、もう外の世界での姉はいなくなるのだと観念した。
僕はその封筒――退学届を握りしめながら泣いてしまった。抱きしめた腕を離すと、姉の細すぎる身体も微かに震えていた。だけど姉は決して泣かなかった。この病室に守られたどこまでも穏やかで静かな瞳を携えて僕を見ていた。この時の顔を僕は一生忘れることはできないと思った。
外は夕暮れが近づいていた。いつの間にか斜め横の病棟の影が忍び寄ったかのように窓に入っていた。姉を見ると、姉は窓の向こうを眺めていた。僕は姉がその先に何を見ているのか知りようもなかったけれど、涙を拭き、黙って一緒に眺めることにしたのであった。
(続)
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