第2話
春先に入院してから半年が経った。姉は最早この病院から出ることの望めない、ただ生き続ける為の治療を続けていた。それは半年経とうが一年経とうが死ぬまで行わなければならないものだった。治療後の姉は、普通の人のように元気になることもあれば、ぐったりとして呼吸が荒い状態で病室に帰ってくることもあった。一番酷いときは心停止を起こして還らぬ人になりかけたこともあった。その時は有難いことに迅速な処置が功を奏して、冥府に誘われることなくこちらに戻ることができた。そのことを後日姉から聞かされた僕は、週末だけ病院に通っていたのを辞め、できる限り病室にいることにした。治療の痛みは最初くらいしかないとはいえ、その後の姉の状態は丁度その頃の秋空のように不安定だった。僕はその不安さから、学校にいる時も魂をあの静かな病室に置きっぱなしだった。姉が入院したら、僕が姉にできることは洗濯と買い物くらいになるのではないかと予想していたので、夏の盛りを過ぎた秋風のような寂しさを感じると思っていたのだが、実際には、姉の無事を祈り時間を過ごすという仕事が鉛のように重くのしかかり、精神的に多忙になっていた。
姉の治療は午後から始まり、終わるのが夕食の時間くらいだった。僕は学校が終わると家に戻り、すぐに支度を済ませて病室に行った。治療中で姉のいない病室で宿題を済ませたり、姉の洗濯物を持ち帰り用の袋に入れたり、僅かしかない姉の私物の整頓をすることで無事を祈っていた。それでも落ち着かないときは、ベッド横のサイドデスクにあるブラシについた毛を一本一本抜いたり、何本かの化粧品を高さ順に並べ替えたり、何か夢中になれることを求めて、その日を大過なく終えられる事を願った。ほとんどが無駄なことだとわかっていても、自分が何かしてないと姉が無事にこの病室に帰ってこれないのではないかと深刻に思い込んでいた。僕にできることは、やはり待つことしかなかったのだ。
治療が終わる頃、僕は治療室の隣にある待合室に、胸から飛び出しそうな不安をおさえながら、車椅子を押して向かった。最初からそこに居ても構わないのだが、僕と同じように治療している患者を待っている人たちに、どうしても馴染めなかった。夫を待つ老婆が僕や姉を孫のように接してくれる優しさもにも、常に職場と患者の陰口ばかり言い合っている看護師たちにも、テレビを見ながらどうでも良い事をぶつくさ言い合う中年女性たちの集まりにも、僕には煩わしさしか感じることができなかった。僕にとって病院とは、あの静かな病室のことでしかなかった。姉と二人きりになれる検診と清掃以外に邪魔の入ることのない、密やかな空間こそが病院であるべきだと思っていた。本来ならば、姉は女性のみの複数ベッドの部屋に入院していて、僕が見舞いに行くのもためらっていただろうから、このことについては、僕は父に感謝しなければならないのだろう。しかし、今になって婚約者にそれを促されても、父に対する凍てついた心が溶けることはないのだった。
やがて姉がヨロヨロとしながら治療室を出てくると、僕はようやく安堵することができた。自分の足で歩けるのなら、ありがたい部類に入るからだ。僕はその日が無事に乗り切れたことに感謝しながら、姉に声をかけた。
「お疲れ様、姉さん」
「ありがとう。ただいま」
治療の影響で姉の声は乾いていた。姉の透き通る声が聞けないのは少し残念だったけれど、この日の体調の良さに僕は少しだけ安心することができた。
姉を車椅子に誘うと、姉は静かに座った。僕は姉の束ねた髪の先を慎重に椅子の中にしまった。看護師や治療スタッフからは暗に髪を短くするよう促されていたが、姉はそれを拒んでいた。何事も自分よりも周りを気にして生きて来た姉が、髪の毛についてだけは頑なだったのは不思議だった。僕は姉にとって大事な髪が車輪に巻き込まれぬよう、ゆっくり車椅子を押した。車椅子をゆっくり押すようになったのは、姉の髪を心配してのことでもあるが、入院して三ヶ月くらいのある日に自分で車椅子に乗ってみると、視線が低いせいなのか常人の歩く速度で動かすと意外に怖いことを知ったのが大きかった。姉は何も言わなかったが、後で聞いてみると「やはりちょっと怖い」と漏らしていた。僕は何故もっと早く自分で試さなかったのかと後悔した。同時に、姉に対してほんのささやかでしかないが、何かを共有できたの気がして嬉しかった。僕が姉の世話をするときに感じている、自分が姉と同じ女性ではない絶望感を少しだけ癒すことができた。僕が男である限り姉を本当に理解してあげられることはできないと、当時の僕は本気で思っていたのだった。
長い渡り廊下をゆっくりと進むと、僕らの部屋に着いた。僕はドアをスライドさせると車椅子をベッドまで進めて姉を降ろした。ここに来るまでに会話こそなかったが、姉がぐったりすることも呼吸が荒くなることもなく、穏やかに車椅子に揺られていたことがとても嬉しかった。
「夕飯、取ってくるね。あと、お茶ももらってくるからね。治療が終わったから、少しぐらい飲んでもいいよね?」
「ありがとう。そうしましょうか」
僕はナースステーションに向かい、そこにとめてある大きな配膳車の窓から姉の名前を探し、窓を開けてトレーを引き抜いた。姉の夕飯は、皿に被せてある半透明の蓋の上から見ると、ハンバーグのようだった。声がしたので振り向くと、もはや自分で食べることが難しいと思われる車椅子に座った男女二人の老人が、ナースステーションの中で看護師に食べさせてもらっていた。男性の方は言葉にならない言葉を発していた。看護師はその言葉と言葉の間に粘性のなにかを口に入れていた。女性の方は耳が遠いのか、看護師が大きな声で呼ぶと目を開けて口を動かすが、数秒すると目を閉じて口から食べ物を出していた。しばらく見ていたが、看護師は根気強く同じことを繰り返していた。老婆も同じように夢と現を往復していた。僕はやかんからお茶を入れ、病室に戻ることにした。背中からは同じ科白を言う看護師の声が聞こえてきた。
「持ってきたよ。今日はハンバーグみたいだよ」
病室に戻りベッドテーブルの上に食事を置くと、姉はベッドから起き上がり、髪を縛り直した。既に手は洗っていたようで、水面台が少しだけ濡れていた。ベッドテーブルには車輪がついていて、簡単に移動することができ、姉がベッドで起き上がればそのまま食べる事ができた。――もっとも、体調が悪い時はその機能を発揮することはできないのだが。
姉は食べ始めようとはせず、少しだけそわそわしていた。そして視線を僕とサイドテーブルに交互に向けて何かを訴えていた。僕はそれが何であるかを知っていたから、少しだけ意地悪したくなり、「ハンバーグが冷めない内に食べた方が良いよ」と言った。姉の調子が良いから言える軽口であったが、この数週間は厳しい状態が続いていた。久しぶりの体調の良さだったから、僕は浮かれしまっていたのだろう。我に返ると、姉にそんな言い方をした自分に幻滅した。
「こうちゃんの意地悪。今日は調子いいから大丈夫なの」
姉は我慢できなかったのか、サイドテーブルの上から二番目の引き出しに手をかけた。開けると、そこには宝物のように大事にしまわれた食べかけのポテトチップスの袋が入っていた。湿気らないように袋が丁寧に畳まれ、可愛らしいマスキングテープで封をされていた。テープにプリントされている熊が自分が大事な役目を任せられていること理解しているかのように、得意気な顔をしていた。
「ね? 少しだけ、いいでしょ?」
姉は僕よりも幼い顔をして頼んできた。姉は水分と食事の量を制限されていたが、大体の物は食べることができた。しかし、塩分とカリウムとリンの多い物は控えてるように言われていた。僕は最初それを聞いたとき、カリウムやリンという単語と食べ物が結びつかなかった。僕の中のカリウムやリンは元素周期表に書いてある文字上のものでしかなく、食べ物どころか身近に感じることのない化学の中の単語でしかなかった。
「血液検査でカリウムとリンのこと言われるんだから、少しだけだよ」
僕は水面台で手を洗うと、姉は嬉しそうに返事をした。洗い終わると、水面台の水滴が面になって残っていた。
姉がポテトチップスの袋を大事に胸に抱き込むと、僕はベッドテーブルを移動させて姉の横に腰掛けた。姉は袋に貼られている衛兵を労うと、とても丁寧にテープを剥がしていった。僕は髪の毛くらいにしか執着が見られない姉に危うさを感じていたが、こんなささやかな楽しみがまだ残っていることを確認できて嬉しかった。
姉は袋を僕に渡してきた。自分で食べるととまらないらしく、僕が食べさせることになっていたからだ。僕が袋の中を見るとチップスは半分くらい残っていた。そしてこの病室にはない匂いが漂い始めた。病院というのは病院の匂いしかなく、現実世界の匂いが入るとすぐに異臭として湧き上がってくる。個室でなければ、ポテトチップスの匂いが他の患者たちにどう思われるのか、想像に難くないくらいに際立つのだ。
「こうちゃん、早く」
姉が催促するので、僕はできるだけ大きな一枚を選び姉の小さな口に運んだ。姉はチップスを小さく齧りながら口の中に入れていく。僕はその動きをじっと見ている。二枚目は一口で入りそうなものを選ぶ。姉は彼女に出来る限りの口を開ける。虫歯のない白い歯が並んでいて、表面が少しだけ白い舌が慎ましく奥に引っ込んでいた。僕はチップスを姉の口内のどこまで入れるか考えていた。手前までにして前歯で噛ませるのか、あるいは舌の上にそっと乗せるのか、僕の指が姉の唇に触れるくらいに奥に進めるのか。僕は姉に食べさせるとき、姉の口を見るのが好きだった。僕にとって姉が生きようとしている一番の肉体の器官は口だと思っていた。姉が口に食べ物を入れて咀嚼しているのを見ることが、心臓が動いていることよりも生きていることを感じさせてくれたからだ。僕は触覚でも姉の生を感じたくなって、二枚目は奥に入れることにした。僕の人差し指が姉の舌と唇に触れる。チップスは噛むことなく溶けるように消えていく。姉は物足りなさと名残惜しさから僕の指を咥えた。姉にとっては毒になる塩分とカリウム、それとリンを、僕の手で与えた背徳感と姉の唇の温かさに、僕はドキドキした。やがて我に返り恥ずかしくなると、彼女の口から指を引き抜いた。姉の唇と僕の指先は銀色の糸で繋がっていた。僕はそれを断ち切ってから三枚目を取り出すと、まだ閉じている姉の唇に差し込んだ。姉は吸い込むようにチップスを口内に運び咀嚼を始めた。姉の唇に残っていた銀の雫も口の中へと消えていった。僕はその様子を一部始終見逃さぬよう観察した。ナースステーションにいたあの看護師のように、それが自分の仕事なのだと疑わずに真剣に見ていた。
「こうちゃん、あと一枚だけ、ちょうだい」
「うん。いつもは三枚までだけど、今日は調子良さそうだから、もう一枚だけね」
「やった!」
僕はハロウィンで小さな子にお菓子を渡すような愛おしさを感じながら、姉に最後の一枚を食べさせた。姉は自分が食べたい位置まで体を動かしてからそれを食べた。僕はその能動的な生に胸が一杯になった。
「おいしかった。ありがとうね」
「僕に感謝することはないよ。姉さん、今日もよく頑張ったね」
僕はウェットティッシュで姉の口を拭いてから自分の指を拭いた。もしかしたら、父も母に同じようなことをして食べさせているのではないのだろうかと頭によぎった。例えようもない怒りが湧き出してきたが、すぐにその想像を殺して落ち着こうとした。
姉は満足そうに熊のテープで再度、封をした。僕はそれを受け取ると、元の場所にしまった。
「換気しないとね。お願いできる?」
「もちろん。何だかいやらしいことしたみたいな気になるね」
姉は特に反応しなかったので黙って窓を開けた。秋のひんやりした空気が部屋に入ってきた。
「夕飯はどうする? 食べられる?」
「うん。じゃあ、食べられるだけ」
「僕が食べさせてあげようか?」
「何を言ってるの。それくらい、自分でできるから」
「そうだね。何事も自分でできるのなら、そうした方が良いよね」
僕がベッドテーブルを戻すと、姉は箸を取り小さな声で「いただきます」と言った。僕は姉にハンバーグを食べさせたい気持ちを抑えながら、窓を静かに閉め、姉の口元を見つめることにした。
(続)
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