十 氷山の一角

10-1

 九月十一日、金曜日。張の事件がテレビに取り上げられることが少なくなった頃、写真週刊誌に載った記事が、再び事件にスポットライトを当てた。

 その記事には、刺された脇腹を押さえながら張を睨みつける翁の表情が大きく掲載されていた。

「『技能実習生を食い物にする巨悪に立ち向かった三人の実習生はどう裁かれるのか?』随分派手な見出しを付けられましたね」

 中本はそのページを開いてデスクの上に置いた。

 三人の実習生というのは、李、唐、張の三人だ。三人の中でも、特に両親が人質同然になっている唐は、日本中の同情を集めた。

「三人、か……。あの子のことは触れられていませんね」

 祥子が虚しさに支配された表情で言った「あの子」とは、海浜公園で李を襲い、専務によって殺害された女のことだ。

「去年、二〇一四年度の一年間だけで、失踪した中国人実習生は三千人以上だって佐々岡さんが言っていました。一年間だけでですよ。彼女はその中の一人でしょう。しかし、吼吼吼で繋がっていた人も、誰一人として彼女の本名を知らない。雇った翁も彼女がどこの誰か知らないかもしれない。間違いなく彼女が今回の事件の、最大の犠牲者だよ」

 中本はそう嘆きながら、再び週刊誌を手に取った。

 その週刊誌に情報をリークしたのは、既に帰国している楊だった。仮に翁が有罪判決はおろか、送検さえされない事態になったとしても、唐の家族や、李姉妹のような悲劇を繰り返してはいけない。張のように手を汚す者を出させてはいけない。名も知られていない彼女の様な被害者を生んではいけない。

 大きな後悔を背負った楊から、マスコミへの情報提供を相談された中本が、世論を動かす方法としては少々荒っぽいが、楊のその決断に反対する理由はないと、雑誌社に連絡だけは取ってやっていた。

 李と唐の二人は、一旦は逮捕という形を取られていたが、不起訴処分が確定している。住所を知らせていなかった李は、強制退去処分の対象ではあるが、翁の判決が出されるまで証人として日本に留まることになった。

 殺人未遂で現行犯逮捕された張も、ブランド葡萄を栽培する目的で蔓を国外に持ち出そうとしていた郭も、共に実刑判決を受ける可能性は低く、強制退去処分になるだろうと週刊誌には書かれている。

「唐さんの両親が心配ですね」

 読み終えた週刊誌を差し出しながら呟く中本に、週刊誌を受け取った庄司が「大丈夫です」と慰めでもなく請け負った。

「これだけ日本で大きな騒動になっていますからね。中国当局も、翁太元を放ってはおかないでしょう。日本の実習生制度も、中国の戸籍制度も、必ず改善されるはずです」

「そう祈りますけどね。俺たちにできるのは、選挙の時に、代わり映えのしない候補者の名前を書いて投票するだけですからね……」

 嘆息する中本に、今度は横山が笑顔を浮かべながら口を開いた。

「そんなら、所長が立候補したらええやないですか」

「冗談じゃないですよ。俺は政治家って柄じゃありません」

 中本が横山の言葉に苦笑していると、事務所のドアがノックされた。対応に出た祥子が笑顔で戻ってくる。

「所長、楊さんからの荷物です。麻花(マーホア)が届きましたよ。食べましょっ」

 祥子が開封した小包を持ってはしゃいでいた。中国菓子の麻花のことを日本では「よりより」と呼んで、各地の中華街などでも売られている。日本で売られている「よりより」を食べたことのある楊が、本場の麻花は歯触りがサクッとしていて美味しいと言っていたのを聞いた祥子が、彼女に本場の麻花を催促していたのだ。

「うわっ! ほんと美味しいですね」

 早速一口食べた悠も目を丸くして感心していた。

「本当! 中国に行って作り方習いたいくらい」

 祥子も口に入れると、パッケージの文字を何となく眺めた。普段見慣れた漢字とは微妙に姿の違う明朝体の文字に、何とか意味を見つけようとしている。

「本来はそういうものなんやろうな」

 美味しそうに食べている二人を眺めていた横山が、そう言って小包に手を伸ばし、まだ開けていない袋を取り出した。

「ですね」

 庄司が相槌を打って、横山の手にした袋から一本取り出して口に放り込む。

「なんの話ですか?」

 祥子が口をもごもごさせながら聞いた。

「技能実習制度だよ。麻花を作る技能を身に付けて、それを日本に持ち帰りたい。そういう本来の目的で国境を越えていたら、あんな事件なんて起こらなかったのかもしれない。そんな単純な話ではないだろうけど、やっぱりそこが一番の問題のような気がするな」

 中本が祥子の問いにはそう答えたが、技能実習制度が抱える問題の答えではないことは充分分かっていた。

「今回は、改めて人の心の弱さを思い知らされたよ」

「助け合えればいいんですけどね。翁のような人間に利用されるとキツい」

 中本が溢した嘆きに、庄司も嘆息と共に同意の言葉を口にした。

「ほんとに氷山の一角、だよなあ」

 中本は、張が報道陣に吐き捨てた「こんな事件は氷山の一角だ」という言葉を思い出しつつそう呟き、麻花を一本、祥子が持っている袋から取り出した。

「あ、所長。氷山の一角で思い出しましたけど、みんなで温泉旅行に行きません? 今回ちいちゃんはずっと事務所で留守番ばっかりでしたし、ねえ?」

「祥子先輩、グッドアイデアです! 行きましょう、温泉。私、皆生(かいけ)温泉がいいです。蟹です! 紅ズワイガニ!」

「ちょっと待った。氷山の一角でどうして温泉旅行になるんですか?」

「そんな細かいことは良いんですよ。行くんですか? 行かないんですか? お盆休みがまだなの忘れてないですよね?」

 祥子と悠に詰め寄られ、中本は横山たちの方を見たが、二人とも苦笑している。

「分かりましたよ。行きましょう。ただし、一泊ぐらいしかできませんよ」

 中本の言葉を聞いて歓声を上げた祥子と悠は、早速スマートフォンを出して宿を探し始めていた。


 カスケードクライシス 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カスケードクライシス 西野ゆう @ukizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ