川崎の同期生 後編

 湯気の消えたカップのひとくちめを口に運ぶ。からからになっていた喉にぬるいコーヒーが流れ落ちていく。

「はぁあ」

 目の前で尾羽を打ち枯らした美女が肩を落とした。

 客もまばらな喫茶室の一番奥で、弥生さんと僕は向かい合って座っている。


 街角の路上で猛烈なアプローチを受けた僕は、見事にデコレートされたその据え膳をぎりぎりのところでご遠慮申し上げることに成功した。とは言え、そのままリリースしてしまうには弥生さんの様子があまりにも不安定すぎたので、すぐ近くにあった喫茶店ルノアールに緊急避難したのだ。


「どうしてこうなっちゃうのかなぁ。私の住んでる街なら、このやり方で大抵はうまくいくのに」

 そりゃあなた、北欧みたいな性の自由化先進国と保守一辺倒のこの国を較べられても。

「日本の男の人はセックスに余分な気持ち乗せすぎだよ」

 弥生さんは吐き出すように言い放った。思わず店内に目をやった僕。ふたつ向こうの席でテーブルに置いたパンフレットについて説明している中年女性とその相手には聞こえなかったようだ。向き直った僕に、弥生さんは言葉を重ねる。

「あんなのスポーツみたいなもんでしょ。うまくいけばすっごく気持ちのいいスポーツ。そうでなきゃ将棋や対戦ゲームとか」

「スポーツとか言われても……」

「皆川くんだってスカッシュとかするでしょ。知り合ったひとともう一歩踏み込んでみたいなって思ったら一緒にするよね、そういうの。このひととはどんなラリーができるかなって、楽しみに思ったりしながら」

 おんなじじゃない、と言い捨てたショートカットの美女はレモンスカッシュのストローを咥え、膨らませた頬をすぼめた。

「弥生さん、杜陸もりおかにいた頃もそんなふうにしてたの?」

 半分ほどに減った背の高いグラスを置いた弥生さんは、僕の問いに質問で応えた。

「皆川さんは噂話を聞かなかった? AVに出演てる駅弁大女学生の話」

 記憶を辿る。そういえば聞いたことがあった。一年の中頃か終わり頃だったかで耳にした、都市伝説みたいなその噂話。うちの女子が女優をやってるめちゃくちゃハードな無修正動画があるらしい、と。実物を実際に見たという奴は、少なくとも周囲にはひとりもいなかった。けれどあの噂を聞いたあとのしばらくは、学内の女の子を見るのにも少なからずの意識をしてしまった……。

「あれ、実話よ。出演てのは私。入学したての五月に悪いひとに騙されて撮られちゃったの」

 あまりにも軽く語られた酷く重い話に、僕の頭はタイムラグ無しにはついていくことができなかった。

「田舎の高校卒業したばっかで、まだなぁんにも知らない純情な新入生だったのにね」

「ちょっ! それ、酷すぎないですか!?」

「皆川くん、声おっきいよ」

 苦笑しつつたしなめる弥生さんの台詞に狼狽えた僕は、反射で見回した視線の先で隣の席の中年女性と目が合った。体裁を繕った会釈でごまかして姿勢を戻す。

「一ヶ月くらいの間にいっぱい教え込まれちゃったんだけど、そのとき気づいちゃったの。気持ちいいのを求めるだけでも別にいいんだ、って」

 エクセルの新しい関数を教わった報告でもするような明るい表情で、弥生さんはそう言った。コーヒーを飲むという選択すら思いつけない僕は、ただただ目の前の美しいひとを見つめて絶句していた。

「うん。私、セックスが好き。自分の気に入ったひとと裸で抱き合って、ゼロ距離でお互いの気持ちいいとこを探し合うのが。だから機会チャンスがあったら迷わずに求めにいくことにしてるの」

 一気にそこまで語った弥生さんは、ふぅとひと息ついてレモンスカッシュに手を伸ばす。グラスの氷が軽い音を立てた。


「皆川くんのさっきの質問。杜陸もりおかでもそうしてかっていうの」

 グラスを置いた弥生さんは、フェロモンを溢れさせていた路上での痴態など想像もさせない平坦な調子で話している。緊張してる僕がバカみたいだ。

「それほどでもなかったのよ。お世話になったひとたちに釘刺されてたから。っていうのもあるけど、留学っていう目標もあったし。それになにより、コロナがあった」

 そうだ。あの他人ひとと会えない期間があったから、噂やなんやらも広がることは無かったんだな。

「ゆかりんは弥生さんのその……性癖、……のことを知ってるの?」

「うん。彼女も助けてくれたひとたちのひとり。いっときの私、外にも出られないくらい壊れてたから。身の回りのことなんかも含め彼女には本当にお世話になった。搾取されてた出演料を取り返してくれたのも彼女たち。おかげで留学に必要なお金には苦労しないで済んだし」

 僕は圧倒されていた。目の前に居る、ヒマリたちと同い歳の同窓生が語るとんでもなく非日常な経験に。

「とにかく私は、あの半年あまりで人生観がすっかり変わってしまったの。世間体やつまんない倫理観で世界を狭くするのは大いなる無駄遣いだってね」

 僕の混乱をよそに、弥生さんは清々しい貌をしている。可愛い、とか色気があるとかとは真逆の。誤解を恐れずに例えれば、自信に満ちあふれたイケメンのそれみたいな。

「エスポーに住むようになって私、本当に解放されたのよ。私のような考え方もあそこでは受け入れてもらえる。それどころかもっと開放的な女性が、応えてくれる男のひとたちがあの国にはあふれてるの。こここそが私の街だ、って」


「ひさしぶりに帰ってきたこの国で、私の理想はどこまで通用するんだろう。この国の物差しは、三年間でどれだけ変わってくれたんだろうか。そう期待してたんだけど……」

 やっぱり駄目だったぁと吐き出して、弥生さんはテーブルに突っ伏した。

 なんだか申し訳ない気がしてきた僕は、弥生さんの肘に当たりそうだったグラスを手前に寄せつつ気休めを口にした。

「たまたま運が悪かっただけだよ。声掛けた相手が僕じゃなければきっと思い通りの展開になった、と思うよ。たぶん」

 もちろんそんな思いつきのような空疎な言葉など、気休めにすらなれるはずはない。眉をひそめた弥生さんが顔を上げて僕を睨んだ。

「わかってない! 誰でもいいはずないじゃない。全部投げ出した無防備極まりないコミュニケーションなのよ、セックスは。このひとがいい、信頼できるって思う自分の直感を信じないでこんな危なっかしいこと、できるわけない」

 さっきまで纏っていたオトナの余裕をかなぐり捨てた弥生さんは、凄い剣幕で僕に噛みついてきた。そんな姿を見て、僕はなんだか安心した。

 他人ひとよりも遙かに高いリスクを自覚し、それでも自分の欲求に正直でありたいと頑張ってる二十代前半の女の子。この国の社会では絶対に共感されることのないマイノリティ。異性からは揶揄され、同性からは嫌われることも覚悟の上で、自分が見つけ出したオーダーメイドの物差しを守ろうと健気にもがいてる。

 こいつはめちゃくちゃ面倒臭いけど、けっこう、いや、かなりいいぞ。

 中嶋弥生。この風変わりな同期を、僕は好きになった。性愛の絡む恋愛感情ではなく。


「なに笑ってんのよ」

 毒気が抜けて、代わりに不審者を見る表情に変わった弥生さんに僕は右手を伸ばしてこう言った。

「弥生さん。僕たち、友だちになろう。恋人でも愛人でもセフレでもない、フラットでプラトニックな友だちに」


 僕を凝視する瞳が力を緩め、視線を落した。弥生さんは大きな溜息をつく。

「はあぁ。またこうなるのね。私が好きになる日本の男たちは失礼なやつばっかり。こんなに手を掛けて美味しくできあがった私を抱こうともしないで、ただ、友だちになろうって」

 真底のあきれ顔でもう一度深く息を吐いた弥生さんは、それからゆっくりと顔を上げて右手を出してきた。テーブルの真上に伸びたその手を僕は掴む。

「よろしく」

 力無く差し出された右手は、僕が握るのに呼応して指に力を入れてきた。

「つぎ逢うときも私きっと言うよ、セックスしよ、って。私にとってイイオトコの友だちはセックスしたいって思う相手でもあるんだから。どうしてもプラトニックじゃなきゃ駄目って言うんならその度に断ってよね。自己責任で」

 中嶋弥生はそう言って、艶やかな唇を尖らせた。


 令和六年四月二十九日夜、僕、皆川みながわ笠司りゅうじには新しい友だちができた。

 問題は、この友だちのことを福岡に暮らす恋人にどう伝えたものかである。いやそもそも伝えるべきなのか、はたまた否かというところから。


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彼らのそれから 深海くじら @bathyscaphe

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