赤い電車は海を目指して
popurinn
第1話
なあんだ、まだ来てないじゃない。
改札を出て、陽菜は背中のリュックサックからスマホを取り出した。
蒼太からのメールが入っていた。
「五分遅れる、ごめんね」
文字のあとに、ふざけたような絵文字が続き、なんだか莫迦にされたような気分になった。こんなことなら、もうちょっと寝ていればよかったと思う。
横浜から京浜急行の特急に乗り、浦賀で普通に乗り換えてほぼ三十分。
陽菜はこの汐入の駅に降りたの初めてだった。
今年の夏の休暇を、汐入にある叔父さんが残してくれた家で過ごさないか。
蒼太がそんな提案をしてきたのは、七月に入って最初のデートだった。叔父さんは一年ほど前に他界し、残されたその家の処分を蒼太にまかせたのだという。
付き合いはじめて二年目。三十歳を超えた二人にとって、将来を示唆する大事な夏だと陽菜は思っていた。蒼太はお互いの気持ちにズレがあるとは思っていないが、陽菜は違う。陽菜の気持ちは、まだ磐石じゃない。
自分の気持ちを確かめるためにも、二人で休暇の四日間をいっしょに過ごすのは悪くないんじゃないか。本当はもう少し長いほうがよかったが、お互いの仕事の休みが合うのが、四日間だけだった。
叔父さんの家というのが、神奈川県の三浦半島の、汐入という場所にあるというのも、おもしろいと思った。田舎の、なんの刺激もない場所で二人きり。そこで充実した休暇がおくれなかったら、長い結婚生活なんて無理に決まっている。
足元に涼やかな風が吹いてきて、陽菜は駅前の通りに目をやった。閑散とした駅前に、まぶしい夏の朝日が照りつけている。海は見えないが、東京ほど蒸し暑さを感じないのは、ここが名前のとおり海辺の町だからかもしれない。
ふいに、よっ、悪いなと後ろから声がかかった。
「昨日は夜中まで残業でさ」
「休暇の前日なのに、残業だったわけ?」
ふくれた頬で応えながらも、陽菜は蒼太の忙しさを承知している。そして、蒼太が仕事優先に生活していることも。
蒼太はいわるエリートだ。名のある大学を卒業し、日本屈指の企業に勤めている。
今度の彼は安心ね。
陽菜の母はそう言うが、陽菜は曖昧な笑顔しか返せない。
叔父さんが残してくれた家というのは、汐入駅から徒歩二十分の場所にあった。といっても、山へ登る細い、冗談としか思えないような細い階段を上った二十分だ。汐入地区の山側には、車が通れない道を上った先に、住宅が点在する。
定年退職した蒼太の叔父は、退職金の一部を使って、格安の値段でその家を買った。汐入地区の過疎化が問題になった頃だったから、とりわけ安い値段で買えたのだろう。
叔父さんが亡くなってからも、電気、ガス、水道は止めていなかった。今日のような使い方をするかもしれないと、親戚の誰かがそのままにしているのだという。
「どうしてこんな場所に買ったの?」
息を切らして階段を上りながら、陽菜は訊いた。東京で話を聞いたときは、三浦半島にある別荘だと思っていた陽菜としては、なんだかあてが外れた思いがする。
「現役時代は忙しく過ごした人だったから、静かな場所に行きたかったのかもね」
階段は横がスロープとなっていて、自転車やバイクがようやく通れるほどの幅だ。しかも、緩やかとは言い難い傾斜だ。いくら静かな場所がいいといっても、重たい荷物を持っているときや、雨の日はどうするのだ。
そのとき、前から、杖をついたおばあさんが、ゆっくりと階段を下りてきた。こちらに人懐っこい笑顔を向けてくれる。こんにちはと返しながら、陽菜はおばあさんのことが心配になってしまった。おばあさんは杖をついていないほうの手に、買い物袋を下げている。転んだらどうするの?
そう思ったとき、
「ここだよ」
と、蒼太が声をあげた。築五十年は経っていそうな、古びた日本家屋が、こんもりとした垣根の向こうにあった。
「気持ちいいねー」
窓を開け放し、空気を入れ替えた部屋で、蒼太が大きく伸びをした。蒼太の前には、雑草だらけではあるが、庭があり、その向こうには海も見える。
静かだった。山のふもとの住宅街も静かではあったが、こことは比べものにならない。関東とは遠く離れた場所にいるかのような錯覚を覚える。
「それにしてもさ」
蒼太が振り返って、言った。
「叔父さん、こんなところで退屈じゃなかったのかね」
「そうね。趣味を持ってたとか?」
「聞いてないな。仕事人間だったらしいから」
そのとき、玄関に、人の声がした。出てみると、八十歳は超えていそうなおじいさんが立っている。
「萩原さんのご親戚の方が来てらっしゃると聞いて」
萩原というのは、叔父さんの苗字だ。
「萩原さんにはお世話になっておりました。よかったら、食べてください」
おじいさんは持っていた袋を掲げてみせた。袋の中身は、庭で採れたトマトだという。
それからおじいさんは、ひとしきり、自分の畑の話をしたあと、帰っていった。
「僕らが来たこと、誰に聞いたのかな」
トマトを袋から出しながら、蒼太が首を傾げた。
「すれ違った人に聞いたんじゃないの?」
「叔父さんは人付き合いのいい人じゃなかったからなあ。近所の人と交流があったとは思えないけどね」
トマトは赤くておいしそうだった。洗って食べてみることになった。そろそろお昼に近いが、食料をふもとまで買いにいくのは面倒だ。
台所でトマトを洗っていると、また、玄関に誰かがやってきた。応対に出た蒼太が、ありがとうございますと、恐縮した声で言っている。
洗い終えたトマトを器に盛り終えたとき、とうもろこしが入った籠を抱えて、蒼太が台所に入ってきた。
「今度はおばあさんだったよ。叔父さんにお世話になったからって」
「えー? 叔父さん、何をしてたんだろ」
「なんか、イメージに合わないんだよな。叔父さんがじいさん、ばあさんと親しくしてたっていうのが」
「どんなイメージだったの?」
「どんなって、普通のビジネスマンだよ。仕事優先、効率優先でさ」
じゃ、あなたと似てるのね。
そう思ったが、陽菜は口に出さなかった。
この人と将来をともにできるかどうか。陽菜が蒼太にたいして一抹の不安を覚えるのは、ときどき蒼太から感じる疎外感だった。仕事に懸命なのはすばらしいことだ。
人生にたいして、筋書き通りに事を進めていく段取りの良さも、生活力と受け止めることができる。でも、それは、自分に不利益なものをさっと切り捨てられる、割り切りの良さに繋がらないか。きっと目標にたいして純粋なんだろうとは、思う。でも、陽菜にはちょっとそれが不安だ。
「ごめんくださーい」
玄関で声がして、思わず二人で顔を見合わせた。
「また? 誰?」
「あの声は老人じゃなさそうだけど」
言いながら、蒼太は玄関に走っていった。
玄関に立っていたのは、小学生の、まだ低学年と思われる少年だった。真っ黒に日焼けした顔、手足。足元がサンダル履きだから、近所の子だろうか。
蒼太に続いて玄関にやって来た陽菜が、何かご用ですかと言おうとしたとき、少年は不安そうに後ろを振り返った。するとパタパタと足音がして、若い女性が玄関先に現れた。
女性は少年の母親だった。
「突然すみません。萩原さんの親戚の方が来てらっしゃるってこの子に言ったら、また、お手伝いをさせて欲しいって。今、夏休みで暇だし、やらせてもいいかなと私も思って」
「手伝うって、何をですか?」
蒼太が聞き返すと、母親は、きょとんと目を見開いてから、慌てて言った。
「すみません、ご親戚の若い方が来てるって聞いて、てっきり萩原さんみたいになさるのかなと」
「だから、何をですか?」
蒼太の問いかけに答えたのは、少年のほうだった。
「運び屋さんだよ」
「運び屋さん?」
「何するの? それ」
蒼太と陽菜との同時に訊かれて、少年は二人の顔を困ったように交互に見た。その顔を見た母親が、助け舟を出した。
「萩原さんは、庭先に椅子を置いて座ってらして、家の前の階段をお年よりが通ると、荷物を持ってあげてたんです。この上のほうにも、まだ家が結構あって、お年よりがたくさん住んでらっしゃっいます。その方たちの日々の買い物の荷物運びをしてあげてたんです」
そして母親は少年の頭を撫でながら、続けた。
「萩原さん、自分の体を鍛えるためでもあるからだっておっしゃってました。ほんとに、おじいちゃん、おばあちゃんたち、助かってたんですよ」
「びっくりしたなあ」
もらったトマトに塩をかけながら、蒼太は、何度目かの呟きを漏らした。そろそろ日が傾こうとしている。
「ずっと経理畑だった叔父さんが、そんなことしてたなんて、ほんとに意外だよ」
「退屈してなかったわよね、きっと、ここで」
「だね。充実してたんじゃないかな」
「そう思う?」
うんと、蒼太は頷いて、トマトを齧った。その横顔に夕焼けが当たっている。
「ここに来たら、俺もやろうかな」
「運び屋さん?」
「そう、運び屋さん二号」
蒼太とやっていけそうだなと、陽菜は思った。これからいろんなことあるだろうけれど、その度に二人の気持ちが同じ方向に向けば、きっとやっていけると思う。
陽菜も紅いトマトに手を伸ばした。
了
赤い電車は海を目指して popurinn @popurinn
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