さざんか

鈴ノ木 鈴ノ子

山茶花

 書斎で単行本を読みながら、ふとコーヒーカップに手をかけた。ふと、庭先にある八重咲の山茶花の一輪がポトリと落ちて転がる様に視線を取られた時のことだ。

 その根元に毛玉の塊が丸くなりながら、打ち捨てられた雑巾のように転がっていた。朝方まで降り続いた雨に濡れた毛並みは晴れた空から降り注ぐ光を浴びて輝いているが、その身は微動だにせず、ピクリとも動かない様子で、私はそれが酷く気になった。


「頼子さん、何か布で包むようなものはあるだろうか?」


 最近、結婚した妻の頼子に向かってそう多少大きい声で呼ぶと、やがて軋む廊下を片足をずるような音がして、書斎と廊下を隔てる襖が開く。


「あなた、こんなもので構わないかしら?」


 きっと同じものに気がついたのだろう、私の使い古してボロ布のようになってしまった外套を解いて布にした物を、頼子は手にしていた。


「ああ、ありがとう。あれは私が拾ってくるから、箱と水などを頼むよ」


「はい。用意してお持ちします」


「うん」


 布を受け取りながら、そっと頼子の耳元で囁く。ついでに悪戯心から細い腰にそっと手を回して軽く抱きしめてから離してやると、可愛らしい丸顔を紅色に染めながら、お勝手へと早足で離れていった。


「なれんもんだなぁ」


 そう漏らしながら布を片手に書斎を抜けて、縁側に置かれた使い古された下駄を出して履き、そのまま坪庭の飛び石を伝いながら毛玉の元へと歩み寄った。


『にゃあ』


 その身へと布を掛けてやる。

 心細い声ではない、抗議をするような確かな声が聞こえる。身を起こすことは叶わないだろう、顔のみをもたげて、白く濁ってしまった目と、色合いが落ち精悍さを失った痩せた顔がこちらを見てきた。


「なに、ここではつまらないだろう。程よいところに行くだけだ」


 私はその身を布で包み、軽い身を持ち上げた。酷くすえた匂いが鼻をつく。市中の者ならば嫌悪するであろう匂いだが、その匂いは何処か戦地で嗅いだ香りによく似ていて、私はちっとも不快には思わなかった。


「あなた、ここが良いのではないのかしら?」


 お中元で頂いた少し大きめの菓子の木箱に真っ白な晒し布が引かれ、それが縁側の日当たりの良いところに置かれていた。買い置きされていた白磁の醤油皿が脇に用意されていて、きらりと光を反射した水が少し眩しい。


「ほれ、ここで眠ると良い」


 箱の中へと毛玉を優しく入れると、頼子が懐中で温め折りたたまれていた晒し布を取り出して下半身を隠すようにかけた。私は下駄を揃えて脱ぎ、縁側から書斎へと戻ると、刀掛けに置かれていた軍刀に手をかける。剣帯金具を取り外して軍刀のみにしたそれを縁側の菓子箱の側に置いた。


「魔除けには大袈裟ですわね」


 頼子がくつくつと笑う。

 若い頃にモダニズムに傾倒していた頼子には、古めかしく思えてしまうのも仕方のないことだろう。


「短刀では心許ないだろう」


 私は笑ってそう言って箱の中で絶え絶えな息をする毛玉を頼子と同じように見守ることにした。

 もう、助かることはあるまい、と言う軍医である私の診断は間違いはないだろう。幾千とまでは言わないが戦地の野戦病院で1人孤独に死んでゆく兵士を見送った経験則がそう裏打ちをする。死には独特の障りがあり、私は肌身でそれを感じるようになってしまった。


 孤独に死んでゆくのは寂しいことだ。


 それは人も動物も変わらぬと思う。

 それは孤独に死ぬものだ、と宣う輩がいるが、お前がそうしてみたら良い。誰も彼も孤独に死ぬのは辛いことを悟るべきだろう。

 無論、それから勝手に隠れてしまうこともあるだろう。

 ならば祈ってやれば良い。

 誰か彼がが心配しやがて悼んでいると言うことを祈るならば、それは通じるのだ。非科学的と言われてしまうかも知れないがそれは確かに通じるのだと私は思う。

 しばらくの後に、それは最後に一声鳴いて、ゆっくりと旅立った。頼子は少し目を潤ませて、一輪のついた山茶花の枝を折り、その枕元にそっと添わせた。


 我が家の山茶花の根元は死地であり安息の地だ。

 

 戦地から帰った直後より瀕死の毛玉が寝そべるようになった。最初こそ頼子は気味が悪いと言ったが、やがて天命なのだと悟ったと見取りをするようになり、かれこれ何匹を見送り、そして荼毘に付したことだろう。


「あんた達の運命なんでしょうなぁ」


 毛玉に経を上げてくれる物珍しい近所の神奈寺の住職から、3回目の荼毘を頼んだ際に真面目くさった顔でそう言われたとき、ああ、そうなのかもしれぬ。と腑に落ちた。


 それは時より、人のように振る舞い、人のように人を翻弄する。人のように癒し、人のように怒り、人のように拗ね、人のように甘えてくる。ああ、時より人のように冷たくもなる。


 人もそれも非なるものながら似ているのだ。


 だから、長く関係が続いているのだろう。


 気まぐれな隣人。


 それを猫というのだ。


 

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さざんか 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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