ハルピュイア
藤田桜
記憶
──買い取ります。O型が不足してい
──胃弱にはニンニクが効くってアルバロが言うから試してみたんだけど
──木から果実みたいに吊るされた無数の死体
。いならわ終がグンニーュチもてっ経でまつい。るすりざんう──
──手を取って、くるくる踊る。オルゴールから流れる曲に合わせ
──もう何十年も前の流行り歌を口ずさんでいた。「デリア/デリア、泣かないでくれ/お前のところに帰りたかった/俺だってもう一度お前を抱
──犬が鳴いている。のわあ、のわあああ
──
──太平洋には人食い部族の島があって
──
──いつになく眩しい星空だった
──噴火。血の赤。日輪は濡れ。
──噎せ返るようなブーダン・ノワールの匂い。思わず酔い
──いつからだろうか。屋敷の窓は全て板で塞がれていた。間違っても日射しが入り込まないように、濃い色のカーテンも被せてある。吸血鬼にとって、太陽は毒だから。今となっては、光に身を曝してでも外に出ようという気力もない。ウーゴはいつも蝋燭の明かりを頼りに動いている。彼は
。るすが音るれ垂が滴とゃちぴゃちぴ。ため止を手す回をみまつ。だれこ──
ただの人間だから、夜目が効かない。ことあるごとに何かに躓いていた。可愛そうなことをしたと思う。僕が考えなしに攫ってしまったせいで、あらゆる扉の幸せを閉ざされて。こんな化け物と恋人ごっこをさせられている。
夜ごとに僕はウーゴの血を啜る。しなやかな首に牙を立て、消えない痕を付けるのだ。まるで葡萄酒のように喉の奥が灼ける匂いがした。その度に僕は我を忘れて貪り尽くす。血色の良かった少年の頬も、今ではずいぶん青褪めていた。気を失って寝具の上に倒れてしまった肢体に口づけをする。恍惚と後ろめたさに追われるように。産毛がくすぐったかった。
「フィーネウス」いまだ幼い声が反響している。「このままおれのことぜんぶ喰い尽くしてね。おれ、溶けてあなたと混ざり合いたいんだ」
だから、ほら。
はだけさせ、晒し出された鎖骨のか細さ。燭台の火に照らされて。まるで古い女神のような、抗い難い何かを孕んだ少年の姿。くらくらする。
「おいで。フィーネウス」
蕩けるような微笑みに。気付けばまた、ウーゴの喉に犬歯を立てている。
「あなたはおれの血を吸って膨らんでいくんだ。はちきれそうな風船みたいに。いつか、ぱぁんって割れる日まで。おれで、ぜんぶおれだけで満たしてあげるからね」
巻き毛の隙間を縫うようにして、柔らかな指が僕の頭を撫でてくる。まるで子を慈しむ母のよう。僕の方がずっと年上なのに。おかしいなんて笑みを漏らす余裕はなかった。途方もない渇き。ただ喉を潤したくて。昔はこんなことしなくても良かった。
イシュネナ。
僕の存在理由。僕は、いまだに君を
。いな上のことこいした立腹。る出が吐反──
、てがや。るなく濃。るなく薄。くいてし出け溶が識意のたなあに牢い暗。だのくいてち落にまさ逆っ真、てっ回、てれ揺。るれ揺がばとこ。るせか聞い言にうよの歌守子、てれ触に頬なから滑た似もにトーレコョチ。にめたるわ代り成に一唯のたなあ。でん蝕をて全の去過。にうよるえらもてい向り振にたなあ。だび遊いなもいわた、なうよるすにか密が女少。のもないささなうよのい占花。るけ掛をい
。らかるせみてっ合け溶とたなあとっき、はれお。れくてせ見。かのるいてい抱を
──《農園》から抜け出せるのなら。そう思って手を取った。
──逃避行の夜は星一つなかった。北は、あちらだったと思うのだが。吹き抜ける風からは、凍えるようなにおいがした。俺たちは今、だだっ広い草原に二人きりで。心細さが背中を這いずり回る。縋れるものは、絡めた指の温もりだけだった。
「イシュネナ、本当にこの川を渡るの」
振り返ると、フイネの不安そうな顔があった。「大丈夫。そんなに深くないさ」なんて微笑んでみせるが、お前はずっと俯いたままで。視線の先では、水が獣のような唸り声を上げている。飛沫は牙だ。お前の脚は動かない。雲が流れて、二人の上を影が過ぎった。
フイネ、俺の大事な幼馴染。
お前はこの川を渡らなくちゃならない。日が昇る前に、ここを抜けなきゃいけないんだ。じきに農場主の猟犬が追いかけてくるだろう。波のように並んで揺れる松明の火が。無数の怒号がお前を追い詰める。事態は刻一刻を争うのだ。
「でも」を繰り返すのを押し切るようにして、俺はフイネを背負った。丈比べで勝てなくなってから、もうずいぶん経つ。大岩のように重かった。
水に片足を浸ける。喰いちぎられるような冷たさに顔を顰めた。頭上から聞こえるフイネの声は今にも泣きそうだ。大丈夫、俺は何ともないよ。
押し流されるような勢いに逆らいながら、一歩、一歩また前へ。俺たちはいつも、こうやって生きてきたんだ。今更何を怯むことがあるか。俺はお前のためなら何だってできる。お前も、俺のやることなら何だって信じてくれる。川の中ほどまで進んだころには、フイネの膝も呑み込まれていた。縋りつくように、首元を抱きしめてくる。それだけで、俺には巨人のような力が湧いてくるのだ。かっこ悪いところなど、見せられるものか。
押し流されるような勢いに逆らいながら、一歩、一歩また前へ。俺はお前を連れて行く。お前を地獄から、連れ出してみせる。
──俺とフイネは《農園》で生まれた奴隷の子だ。果実に膝を折りながら、異人どもの気まぐれで殺される惨めな種族。俺たちが育てているこれはバナナって言うらしい。皮を剥いて食べると甘いんだってさ。教えてくれたやつは鞭打ちにされて殺された。商品に手を出す泥棒は死んで当然だって罵られて。誰がチクったのかは未だに分からない。急に羽振りが良くなったシナンは怪しかったが、酒瓶を持って泡吹いて死んでるのが見つかってからは、それきりだ。
フイネは昔から気が弱かった。夜の畑仕事はいつまでも怖がって慣れないし、木登りを覚えるのも一番遅かった。人見知りで、ずっと俺の後ろに隠れていたし、泣き虫だし、喧嘩なんて、考えたこともないようだった。俺たちは同じ日の夜に生まれたが、前を行くのはいつだって俺の役割だった。兄貴分のつもりだった。フイネに尊敬の目を向けられる度に、自分が少しだけ大きくなれたような気がした。ただ異人どもになぶり殺されるだけの無価値な虫けらじゃないのだと、そう思えた。普段は「おい」としか呼ばれない自分の名前を、思い出せたのだ。
「イシュネナ」
魂の片割れの声はどこまでも優しげだった。俺たちはたった二人で地獄に取り残されていたんだ。
大人たちは亡者のように項垂れて果実を運ぶばかりだった。ときおり熱に浮かされると、侵略者に立ち向かって死んでいった祖先の話をする。すぐに稼ぎを酒につぎ込んで、朝が来れば道端で死んでいた。これが、生きていると言えるものか。
俺たちだけが生きていたんだ。肺が焼けるような草いきれ。太陽は呪いのように輝いている。お前の瞳には黒曜石のきらめきがあった。腫れたような空の青。虻の羽音が耳を撫でる。鼓動。肌の温もり。まだ声変わりの来ない声。腐った沼からは血の臭いがする。死体が捨てられたきり、誰も弔えていないのだ。木が切り倒される。空が一瞬暗くなって、また明るくなる。びっくりして上げられた小さな悲鳴。気恥ずかしそうに笑う顔。土で汚れた髪の毛に。触れようとして。きょとんとした目。俺は。
──だから、フイネが殺される前に逃げ出そうと思ったのだ。
どんな手段を使っても。他の何を捨てようとも。
──俺たちはどこまでも逃げて行った。北には奴隷でも自由に暮らしていけるような国があるらしい。おとぎ話だが、何も望みがないよりはマシだ。
川を越え、荒地を抜けて、また鬱蒼の森を行き。そこで初めて海を見た。誰が建てたかも分からない碑の側を過ぎ。いちめんの花。薄紅、白、黄。若草の色。轟くような大瀑布。夜明けと共に鳥が一斉に飛び立っていく。いつになく綺麗な星空。見たこともない景色を見た。遠く、遠くへ。俺たちはどこまでも逃げて行ったのだ。
──死んだフイネが木に吊るされている。赤く膨れた丸い実が爪先から垂れる滴さっきまで光。を宿していた瞳は今じゃこん、なに虚ろだ力なく項垂れている姿は《農園》の大人、たちのよう。で悪い夢だこんなことあって。いいはずがない
森の奥から猿の嗤い声が聞こえるけたたましく鳥が鳴く狼かコヨーテか何か獣が吠えている弔うような虫の音雨が激しく地面を打つ風風風葉末が擦れ合う悪霊が唸っているようだった泣き喚く声が自分のものだと気付くにはずいぶん時間がかかったあらゆる全てが叫んでいたのだ
楽園など。な、かった
辿り着い、た先には《農園》と全。く変わらない光景が、あったがなりたてる異人諦め。た顔で従事する同、胞この世のどこにも逃げ場な。んてなかったのだ俺、たちは野良犬のように追。い立てられた。
俺は最後。の最後で怖くなって逃げてし、まったフイネを。置いてたった一人で逃げ出したの、だ助けてたすけてとうわ言。のように繰。り返される声今も耳、に焼き付いて離、れない、俺はあの声を見捨てたこれが。その結果だ
よろめきなが。ら立ち上が、る異人ども、が様子を見にくる前にフイネの死体を降ろさな。ければ手を伸。ばすが届かない木に登ろう、として足を滑、らせた強かに打つ痛。みに呻きながらまた立。ち上がる彼を、見捨てた俺が泣いて、いいはずなどない。のに雷が遠。く聞こえた獣たち。のざわめき死体はゆあ。んゆあんと揺れている死。体冷たくなったそ、れに触れよう、ともがく。
俺は。俺は。
──「ただい、まフイネ」
あの とき縄を噛 み、切って フイネを地面。に降ろ したのは一匹の大鹿だったそのま ま死体の上を 跨いで去っていこう。 とす る後ろ姿に「 待っ、てくれ」呼び止めると幾 本もの角が。生 えた顔が振 り返っ た湖面の、ような 瞳で見つめら、れると息が できなくなる呆然。としている内に 大鹿はいな、くなっていたきっ。とあれは 神様の。使いだと 思ったフ、イネに
それから俺 は森の。中に隠、れ潜んだ吸 血鬼が。目覚めるまでフイネの死体が誰に も穢されないよう。に枝を組んで葉で覆、っただけの簡素な ものだったけれど不思。議と 獣に荒らされるこ、と はなかった こうして目を瞑らせて横た。える と眠っている だけのように、も見える額 から髪。の間に指を這わ せて撫。でる 真似 をすると蜜を固め たような肌触 りがした冷 、たさが彼は死んで いるの だと囁き。立てる
俺はその枕元 に跪。いて 毎日のよう に祈りを 捧げ、たこの亡骸をフ イネ。とし て扱っ ているのか 吸血。鬼として扱って。い るのか自分で も分、からな ってくる
あの異人ど。もを 全員殺 し、てくれ俺 の大切なもの。を踏み躙った化け物どもを殺してくれ。一人残らず、恐 怖と絶望に叩き落 してくれ。どうか
正気じゃ な いのは 自分でも分 かっていた、初めはぼ そぼ、そと呟く、だけだっ た声はや がて絶叫の ようになり乱。れた 息を整えよ、うと顔を上げ た瞬間、
目 が合 っ た。
吸血 鬼はただ じっと俺を見 つ、め ていた不 意に「君は」と言。いかけて 口を閉じ るフイ。ネ と寸、分変わ らな い声だったた だ声。色だけが違った。
「ごめんよ。苦しませてしまったね」
なんでそ んな悲。し そう な顔をす る、んだ なんでお。前がそんな顔を。するお前 はただ彼 の、体に憑りつ。いただ けの亡霊なん だろう? まるで生き。返っ たんじゃない かと思。い違いをし そうになる、吸血 鬼は 俺の首筋に 唇。を寄せて
「怖かったね。つらかったこと、嫌なこと、ぜんぶ忘れて眠ろう?」
背 中を撫。で られるおば けのくせに妙に温か、い手のひら だったいつ、もは俺がフ イネの背中 をさ。すってや って、いたから何 だか新 鮮 だ血を吸わ。れているう、ちに一緒に 何か大切。な、 ものが失われ てい くのが分かる。
おやすみ、イシュネナ。
薄れ ていく意、識のなか 声。が聞こ、えたよ うな気がした。
。憶記いし苦。憶記いならい ?うおましてれ忘。いなくしわさふにたなあ、憶記なんこ──
──父さんが言っていた。
窓辺から、赤い陰が投げかけられている。足元にはぞっとするような美貌の男が倒れ伏していた。何度か蹴って突いてみる。革靴がぶよぶよとした肉に沈み込むような感覚。何の変哲もない、生き物の死体だ。仰向けにひっくり返して確かめてみれば、もう息はないようだった。苦痛に歪んだ表情をしてなお、男の姿には蠱惑的な何かがあった。でも、これは死体だ。何にもできない、ただの死体。
間に合ったんだ。僕は、吸血鬼を討ち倒せたんだ。喜びに思わず声が漏れる。
「僕は、やり遂げたぞ。フィーネウス、これでお前を」
自由にできる。
恐る恐る口にすると、急に実感が湧いてきて。笑みが溢れ出す。安堵に喉が緩んだのだろうか、抑えようとしても止まらない。やった、やったんだ。フィーネウスを救い出せるんだ。この幽霊屋敷から。狭い鳥籠の中から。
右手に握ったナイフの背を撫でる。父さんの形見だ。きっと、今日のために託されたのだと思った。存外、吸血鬼の血は普通の人間とそんなに変わらないような色をしている。指先に付いた赤を見つめながら考えた。本当は、吸血鬼に自分自身の血なんかなくて、奴の体から流れ出している全てが、元は犠牲者のものだったのかもしれない。この中に、フィーネウスの血も混ざっているのだろうか。光に透かしてみた。そんなことで、分かるはずないのだけれど。おかしくなって、また笑みが零れる。
階段を上ってくる音が聞こえた。きっと彼だ。顔を合わせたらまず何て言おう。そう胸を弾ませている内にドアがノックされる。返事をする間もなく扉が開くと、
「オリヴェイラ、どうしたの? さっき大きな音が……」
と言い終わらないうちに、フィーネウスが表情を凍らせた。途端に小さな悲鳴が上がる。目線は足元の死体に向けられていた。後ずさろうとして、何かに躓いたらしい。尻もちをついたのを助け起こそうとして手を差し伸べる。「フィーネウス、僕だ」と呼び掛けると彼は「バーナード?」と細い声を漏らした。
なんで。
「何を、しているの」
彼の瞳は見開かれていた。突然こんなことになってびっくりしているんだろう。なるべく優しく微笑みかけながら告げる。
「お前を、助けにきたんだ」
上手く呼吸ができないようだった。背中をさすってやろうとすると、一瞬体を強張らせる。大丈夫だよ、大丈夫と言い聞かせるうちに落ち着いてきたのか、フィーネウスは口を開いて、乾いた唇を震えさせた。
「違う。僕はこんなことしてほしいなんて言ってない」
「え?」
耳が何かを拒んでいるのが分かった。怯えたような瞳が僕を見る。全てがガラス越しのように感じられた。まさか、そんなこと
「バーナード、違うんだ。その人は違うんだよ」
──この国に引っ越してきたのは、母の友人を頼ってのことだった。
「あの幽霊屋敷に近づいてはいけないよ」
僕ら母子に不動産を紹介してくれた青年は、訪ねてくる度に口を酸っぱくして言い聞かせる。どうも街外れにある邸宅のことらしかった。幽霊屋敷、という割には小綺麗な外装をしていたし、庭に咲き誇る白い花たちは明らかに人間の手が加えられているのだが。何と言い返しても絶対に「ダメだ」と叱られるので諦めた。
あそこに住んでいるのは、僕と同じくらいの普通の子どもなのに。
フィーネウスと初めて出会ったのは、去年の冬のことだった。その頃の僕は散歩をする度、風に揺れるクレマチスやマーガレットに惹かれて、幽霊屋敷の周りをうろついていた。いつもは誰かが庭にいる、なんてことはなかったのだけれど、その日だけは違ったのだ。木陰で誰かが休んでいる。話しかけて、一、二輪、花を摘ませてもらえないかと頼もうと思った。
近寄ると、そこで微睡んでいたのは一人の少年だった。
貴族の子弟が纏うような上等のシャツを着てはいるが、どこか異国を思わせる顔立ちをしている。むかし挿絵で見たアビシニアの王子のようだと思った。吸い寄せられるように手を伸ばす。不意に少年が身じろぎをした。動揺に後ずさると、落ち枝が踏まれて鳴いた。警告するかのように折れる音。目が合った。チョコレートのように滑らかな頬が、ふわり、と緩められる。
「君、どうしたの。迷子?」
子供扱いされたのが分かった。向こうもそんなに年が変わらないはずなのに。
「迷子じゃない。近くに越してきたんだ」
むきになって言い返すと、少年はいっそう優しげな顔をする。
「挨拶にでも来てくれたの」
「違う。庭の花がきれいだと思って、それで」
ついぶしつけな物言いをしてしまう。でも、抑えられない。口を動かす度に後悔のようなものがじくじくと疼く。なのに彼は顔をほころばせたまま
「そっか。じゃあ、お土産にいくつか持たせてあげよう。君、名前なんて言うの」
「バーナード」
答えると、じっと見つめられた。ほんのわずかな沈黙。
「僕はフィーネウス。よろしくね」
何かが受け入れられたような気がした。花のようなひとだ、と思った。
──それから、僕は幽霊屋敷に通い始めた。フィーネウスに会うために。大人たちには内緒だった。こっそり黙って抜け出すのだ。いつも彼は白い花が揺れる庭の木陰にいる。どうも日射しが苦手らしい。最近は屋敷の中にまで上げてくれるようになった。気を許してくれたように思えて嬉しかった。
フィーネウスは僕がねだると色んな話をしてくれた。この国の果てにあるという美しい景色のこと。マユイという、死者に憑りつく恐ろしいお化けの怪談。アルバロという名の男の冒険譚。何々という。という。したたかな老家政婦の話、マチルダという。呑気なヴァイオリン弾きの話、イポリットという。という。という。まるで実際に会ってきたような口ぶりだった。彼の語る物語の登場人物には、みんな名前が付いている。その名を呼ぶ度に、愛おしげな顔や悲しげな顔をするのだ。何か、触れてはいけない秘密に触れているような気さえした。
僕はといえば、雑誌を持ってきたり、流行り歌を教えてやったり。フィーネウスは奇妙なほどにいまどきのことに疎かった。まるで、ずっと屋敷に閉じ込められてきたみたいに。僕が外の話をすると、目をきらきら輝かせて聞いてくれるのだ。でも、
「今度、劇場に連れてってやるよ。ちょうど面白いのがやってるらしいんだ。そのあとはカフェで一休みして。綺麗なテラス席があってさ、」
と誘えば、彼は寂しそうな顔をして首を横に振る。
「いいなあ、そうできたらなあ。僕ね、体が弱くて、って言えばいいのかな。とにかく、外に出れないんだ。本当は庭に出るのもよくないんだけどね。だから、約束は、ごめんだけど、できそうにないや。折角言ってくれたのに、ごめんよ」
「じゃあ、僕が覚えてきて、お前に教えてやる。だからそんな顔するな。お前は、笑っている方がずっと似合ってるよ」
見ていられなくって。フィーネウスの顔を両手で挟んでこちらを向かせた。お前がどこにも行けないなんて、そんな表情をしなきゃいけないなんて、間違ってる。いつか彼がそうしてくれたみたいに、微笑みかけてみせる。彼は、くしゃくしゃになった僕の頬に手を添えて、
「君は、いい子だね」と微笑んだ。
「フィーネウス」不意に、背後から声がかかる。ひどく淡々とした声だった。
振り返ると、そこにいたのは。ぞっとするような美貌の男。ガラスのような瞳がじっとこちらを見ている。色素が薄い。まるで幽霊のように透き通っていた。
フィーネウスが、驚いたように「オリヴェイラ」と呟いた。男の名前だろうか。男は僕の方を一瞥すると「彼は?」
「僕の友達だよ。遊んでもらってたんだ」かすかにうわずった声。
「そっか。あまり君の我儘に付き合わせすぎてはいけないよ。いつか、迷惑をかけることになる」
あまりに冷たい声色に、気付けばかっとなって、
「僕は」思わず声を上げていた「迷惑だなんて思いません。彼は大事な友人です。力になれるなら、何だって……失礼ですが、あなたは?」
男はわずかに目を見開くと「そうか」と呟いた。「君はそれも教えてもらっていないのか」日が傾いて、夕焼けの色に染まっていく。男の表情は陰に隠れて、よく見えない。ただ目だけが爛々と輝いて見えた。
「俺は、この館の主だよ。彼の保護者のようなものでもある。だから、ごめんね? 色々と口を挟ませてもらうけれど」
これに懲りたら、フィーネウスとは、もう会わないでほしいな。
思わず息を飲んだ。いつの間にか近づけられていた男の顔。ガラスのようだと思った瞳は、澱んだ血のような赤色をしていて。墓場にも似た、陰湿なにおい。口元からは、狼のような鋭い牙が生えている。それは、まるで地獄の亡者が這い上がってきたような。背筋が凍える、とはこういうことか。
「っ、ばけもの」漏らした声に、なぜかフィーネウスが悲しそうな顔をした。
──「あの屋敷には、決して近づいてはいけないよ。邪悪な吸血鬼がいるから」
──助けなきゃ。僕が、フィーネウスをあの化け物から守らなくちゃいけない。
──「僕も吸血鬼なんだ」と彼は言った。
「冗談、言うな。お前は違うだろう? だって、こんなに」
温かい、と言おうとして。フィーネウスは首を横に振った。やがて彼は「バーナード、見てて」と言うなり口を開けて、指で広げる。そこにあるはずの犬歯は、まるで錐のように長く鋭かった。それは、紛れもなくあの男と同じもので。
「僕は吸血鬼だから、日射しの下には出られない。君と一緒には、行けないんだ」
それに、と彼は続けた。
「あの人は、僕の兄みたいな人だったんだ。優しい人だった。文字を教えてくれたのも、この名前をくれたのも、行き場のなかった僕を受け入れてくれたのも、あの人だった。どうしたって裏。切れないよ」
じゃあ僕は何。のためにあの、化け物を殺したんだお前を。こんなに苦し、ませて花のように、輝いて、いた表情が今では萎。れて影もない少な。くとも、お前を地獄に突き落、としたのは僕。だ手のひらに付い、た血が乾いて。いく不快感吐き気。がした
これ。じゃ僕はただ、の人殺しじゃ。ないか
──家に帰、ると大蒜の、花が玄関の花。瓶に生けられていたアザ。ミのよう、な薄紫がきれいだ。と思った触れよ、うとして手が。空を切る何、もかもが現実、味のないように感じ。られた
誰かが駆け寄、ってくる音がした返り血で。真っ赤に染まった僕を母さ。んは強く抱、きしめる「無事でよ。かったあな。たがあ、の屋敷に入っていくの。を見たって聞い、たときにはど、うしようかと」震える声で泣き、ながら彼女は悍ま。しい人殺しをこう。やって抱きしめて、いる自分の体さ。え汚らわしく感じら。れた
それから風呂に入って寝。室に閉じこ、もった何も見た。くない誰、にも触れたくない夜。がいつま、でも続いてい。くような気がした
暗がりのなか赤。い瞳が僕を見つめているオリヴェ、イラそうフィーネ、ウスが彼を呼ぶと。きの声を思い出すきっと怨んで。いるだろう意識、から振り払おうとしても瞼の裏に焼。き付いて離れ。ない体のう、ちを支。配する得、体の知れな。い感情に呻いた何か、に呪われてしまったの。かもしれない僕は、彼の彼らの敵だ人殺し化け物背中を這う暗闇囁くような声後悔を恐怖が塗り替えていく音。がした
僕。は僕、は
──ここに 忍び込むの は何。回目 かあの日、から僕 は間 違った手。段ばかり選ん でいるき。っともうあ の扉 は正、面 から叩いても開か。れることは ないのだろう
寝室 は二、階の東 側にあ るまだ日。は高いこの 時間な。らフィーネウスも ちょ うど眠って。いるは ず だあの。頃は彼 も無理し。て木陰、の庭で待。ってくれてい たようだけ。れど今は もう、そんな必要も、ないから
そっとド アを開ける蝶 番。が軋む音が した中を窺。うと若草、色の毛布 が掛けられたベッ。ドが膨ら んで。いる足音を、立てないように近 づいた。
魘さ れている。よう だった額。の汗を拭 って、やる 本 当。にこれが人に 害をなす吸血。鬼な のか息を、整える右手。に握 ったボ、ウイ・ナ イフ を振。り上げ て
殺す。んだ今 か、ら大。切 な友、人を
だって そう。じゃな きゃ僕。は何 のた、めにあ の男を殺。したんだ? 人間が邪。悪な吸血 鬼を倒、した ただそれ、だけ の話 だただそ。れだけ のはず。なんだ そう。思わなき、ゃとても耐。えら れないき っと。フィーネウスも僕のこと、を憎んでいる 仇復讐このまま 何、もしな ければ僕 が殺され るかもしれ、ない一人で。じっとしてい ると声。が聞こえ。るんだ許さ ないゆるさないって
ナイフ、を掲げた まま寝具 の上の少年 を睨。み付け る吸、血鬼を討ち倒さなければ いけな。い化け物を 殺さな。くちゃいけな、いんだかすか。な呼吸 に上、下する喉元 彼は確。かに生き、ている僕はそれ。でも
目が合った。
フィーネウ スが目 を覚ま。したのだ「バー、ナード?」少 しび。っくりしたよ うな表。情頬に柔 ら、かな指 が触れた。
「ずいぶ、んひどい顔だねこんな。に窶れて」
ナイフを、突き刺。そうと する、力が入ら ない涙が。溢れ てく、るいやだいや だ殺し たく ないでも 殺さなきゃ
「そっ、か君は」
どこまで も優し。い声だった 後、ずさる 間もな。く抱き寄せ られる不意。に首 筋に触れ た生温、かく鋭い もの噛み。つ かれた。の だろう血を、吸われ る感 覚にして。は痛み。も痒みも なかったで も何、かが失われてい く何。かが零れ 落 ちていく。
「ごめんねご。めんよバーナ、ード君の人。生を壊すような、こと。をしたせめて」
全部忘れさせよう。元の君に戻せるように。
声。が聞 こえ。たよ、う な気がし た。
。憶記いなくし正。憶記たっ違間 ?うおましてれ忘。いなくしわさふにたなあ、憶記なんこ──
──ギィが死んだ私たちを守って死。んだんだ狼、たちの吠え立てる声はもう聞こえない即席、の覆。いの中から這い出せば床の。上に小さ、な犬がぐった。りと倒れている
「ギィ!」
駆け出。した体の至ると、ころが噛み。ちぎられている抱き上げよ。うとしてそ、の体が驚。くほど、軽くなってしまった。のに泣き、そうになった冷。たいもう息をし。てなくっ、て血がち。ろちろと流れている。
「ギィ、ねえ、ギィ……」
褒めてあげなくち。ゃいけないのに守ってくれ、てありがとうってこんな。小っちゃい体でたったひ。とりで、何匹もの怖いお。ばけの狼に、立ち向かったんだ偉。いよかっこ。よかっ、た凄いんだ。ねって褒め、てあげたいの。に涙がぼろぼ。ろ溢れてき。て声がちゃ、んと、出てこない。
「ギィ、いや、死なないで。いや、いやだ」
「ミシェル」クロード、の手が肩に触。れた「戻ろう。ここでじっとしていたら、また奴らに出くわすかもしれない。ギィが助けてくれたのを無駄にする気か」
「でも、ギィが、ギィが!」
「抱えたままでいい。とにかく、ここを離れるぞ」
二人に支。えられながら、立ち上がる遠慮が。ちにフィ、ートが「僕も、ギィに触っていい?」と聞いて。きたので頷、くすると泣き。そうな顔で「ごめんね。ごめんねぇ」と頭を撫で、るものだから私ま。でまた泣、き出しそうになる
「……うん、ありがとう。もう大丈夫。行こう」
フィートはそう言。って洟を啜りな、がら手を放し。た私たち。は歩き出す廊、下の角を見てく。れていたクロー、ドが問題ない、と合図をくれる追い、つくために小走りで進、むと余計にギィの。軽さがはっ。きりと、感じられた。
ギィは本、当に。死ん。じゃったんだ。
でもそ。れで。も私た。ちはこの霧の屋。敷から抜け出、さなく。ちゃいけないギィをせめ、て亡骸だけは連れ、て帰るためにも絶。対に生きて、帰るんだ
──幼馴染のクロードと避暑に向かうはずだった。家族ぐるみで仲が良かったから、せっかくなら両家で一緒に行こうということになったのだ。父様と母様に連れられて、のんびり車に揺られながら。ギィは私よりクロードに懐いていたけれど、それでもやっぱりうちの子なのだ。餌で釣れば、ちょっと悩んだ末にこっちの座席に来てくれる。気性の穏やかな優しい子だから、いくら撫で回してもわふわふと鳴くばかりで怒らない。でもクロードがおやつをちらつかせるとすぐにそっちに行ってしまった。あなたのご主人は私なのに、なんて口を尖らせる。
車が大きく揺れたのはそんなときのことだった。咄嗟に体を縮こませる。母様の悲鳴。いつになくギイが吠え立てている。クロードが私の名前を呼んでいた。何が起こっているのか分からなくて。何が。どうなっているの。ふと指先に誰かが触れたのを感じた。顔を上げるとクロードがいた。瞬間、揺れが止まったような気がした。実際はそんなことなくて私たちの周りは目まぐるしく回転していたのだけれど。
世界はどんどんぐちゃぐちゃになっていって。その中に私とクロードだけが取り残されて。
「大丈夫」
俺が守るから。
そんな声が聞こえた気がした。
──目が覚めると、何もかもが白く染まっていた。霧、だろうか。肌寒い。手を伸ばすと、指先が見えなくなった。途端に不安がこみ上げてくる。
「かあさま」
呼んでも返事はない。
「とおさま」
呼んでも返事はない。
「おじさま」
呼んでも返事はない。
「おばさま」
呼んでも返事はない。
「くろーど」
もうダメだと思ったとき、ふいに左手に誰かの温もりを感じた。その手のひらの大きさには覚えがあって。
「もしかして、クロード?」と問えば、
「ミシェルなのか?」と返ってきた。安堵に力が抜けて、へたり込んでしまう。
「おい、手を放すな。また逸れたらどうしようもなくなるぞ」
「だって、」
と言いかけたところで何かの鳴き声が聞こえた。
「ギィだ」クロードが言った。「追いかけないと」
待って。こういうときって変に動いちゃいけないんじゃ……なんて言う間もなく、手を引かれて進み出す。はぐれたくなくて、必死に付いて行くうちに、ギィの鳴き声は聞こえなくなっていた。
──霧のなか、私たちは彷徨い続ける。
──「それで、迷い込んできたんだね。大変だったろう」
屋敷の主人だと言う少年は、困り顔でブランケットを手渡してくれた。
「ここはどこなんだ? あの霧は何だ、なんでこの家だけ霧に覆われていない」
こういうとき、いつも冷静に対処してくれるのはクロードなんだけれど、その態度をどうにかできないものか。身の置き所がなかった。幸い、少年は気を悪くした様子もなく、屋敷の住所を教えてくれた。なのに、
「嘘を言うな。ここが街の中なわけがないだろ。霧ばかりで何もなかったんだぞ」なんてぶつぶつ文句を言う。
「それに関しては僕も分かんない。なにしろ何十年もこんな感じだからさ。一応まあ、霧に縁がある身ではあるんだけど、それが原因ってわけでもなさそうだし」
少年は微笑みを浮かべたまま「ストーブのある部屋に案内するね。多分、まだ昔の薪が残っていたはずだから」と言った。
「あの、」どうにか心を決めて声を上げる。「私、ミシェルって言うの。それと、こっちがクロード。受け入れてくれて、ありがとう」
少年はきょとんとした後、得心したように頷いて、
「どういたしまして。僕はフィーネウス。よろしくね」くしゃりと笑った。
──「ああ、この子?」
フィーネウスはギィと楽しそうに戯れながら言う。
「迷い込んできたんだよね。すっごく可愛いでしょう? ……え、君たちの飼い犬? あー、その、ごめんよ。考えが至らなかった」
何だか、緊張していたのが無駄になった気がした。
──
本来はフィートの故郷のことばで霧を意味するんだとか。
死んだ人間の体の中に入り込んで悪さをする幽霊。色々な言い伝えがあるけれど、どれが本当かはよく分からない。マユイを生前のその人と勘違いして家に招き入れると、願いを叶えてくれる代わりに寝ているときに血を吸われるとか。マユイに血を吸われた人間は記憶喪失になるとか。怪力だとか。血液感染するとか。不死身だけど喉を掻き切られると死ぬだとか。マユイに見つめられると死ぬとか。香油が苦手とか。死体の上を動物が跨いだら、それがマユイが憑いた合図だとか、本当に色々。
「それが、僕」
にわかには信じられなかった。でも、信じざるを得なかったというべきか。だって何日も飲まず食わずで涼しい顔をしていた挙句、ある日突然、
「そういえば人間ってご飯食べないと死んじゃうんだったね。忘れてた」なんて言いながら「これ、台所から持ってきたんだ」と山のように瓶や箱を運んできたから。あるなら早く教えてほしかった。鞄の中身を必死にやりくりして命を繋いでいた私たちの努力は何だったんだろう。二人して閉口させられたものだ。
その後ものすごく落ち込んだ顔で謝られたので、責めるに責められず。
フィートが牙を見せてくれた。真っ赤な口の中、映画にでも出てきそうな、鋭い犬歯。
「これで首筋を穿って、溢れ出した血を吸うの」
「ねえ、フィート」ふと思ったことがあった。「じゃあもしかして、フィートってものすごくお年寄り? 私たち、ずっと子供扱いしてきちゃったけれど」
「やめてよ。僕は15歳だよ、ずっと。変に距離を置かれても、寂しいな」
──このまま孤独に狂ってしまうのだろうと思っていた。二人のことを、いつかの僕とイシュネナに重ねてしまって。だから、嬉しいと思ってしまったのだ。このままずっといてくれればいいのに、とさえ。
──シロツメクサの花冠、作り方を教えてあげると言うとフィートは嬉しそうに笑った。不思議なことに、庭には霧がかかっていない。それで私たちは花を摘んだり遊んだりすることができたのだ。
昔はフィートのお兄さんが手入れしていたから、季節ごとの色んな花が咲いていたらしい。今は雑草が思い思いに生えているだけだけど、
「でも、オリヴェイラは白い花なら何でも好きだったから。これはこれで良いのかも」なんて眉を下げながら付け加えた。
「そっか。天国のお兄さんの分も、作る?」
「天国? 天国かぁ……。そうだね、うん。手伝ってもらっても、いいかな?」
そう笑う目の端に、涙が光っているのを見た。「あれ、おかしいな。昔はこのくらいじゃ泣かなかったんだけど。なんで、」
──そこでやっと本当に、彼は私たちとそんなに変わらないんだと思った。
──クロードがフィートの肖像画を描く、と言って聞かないものだから、画材を探すのにずいぶんと探検をする羽目になった。
「だって、あいつ。これからもこの屋敷に住み続けるんだろう? それも、ずっと。俺たちが出て行ったら、あいつは永遠に一人きりなんじゃないか、って思う。一度この屋敷を抜け出せても、また何かの拍子に辿り着ける、なんて保証もない。だから何か、思い出になるものを残してやりたいんだ」
それ、フィートにも言ってあげればいいのに。素直じゃないんだから、なんて呟くと「こんな暗い話わざわざする必要ない」とぶすくれてみせる。
絵はもう少しで完成しそうだった。椅子に大人しく座るフィートの両隣には、私とクロードが描かれている。みんな口を真っすぐ結んで、真面目な顔。「私、本当にこんな美人なの?」と尋ねると「自惚れるなよ」と一蹴された。そういう意味じゃないのに。頬を膨らませると、今度は鼻で笑われた。
──Claude Michelle Phineus
そうやって、壁に彫刻刀で三人の名前を刻んだのだ。フィートに「本当に大丈夫? こんな悪戯して」と聞いたら「今は僕が家主だから。それに、オリヴェイラもこのくらいなら許してくれるんじゃないかな」なんて言うから、楽しくなって思わず笑っちゃった。
──何かが私の上に覆い被さろうとした。
押し倒される。「ミシェル!」ほとんど悲鳴のようなクロードの声。私は無我夢中になってそいつを蹴り上げた。生温かい液体が頬に落ちる。ひどい悪臭がした。腐った
頭上ではフィートが額縁を持って、息を整えている。それで殴りつけたのだろうか。転がるように彼の後ろに逃げ込んだ。そのまま体勢が崩れたのを、クロードが抱き留めてくれた。普段は穏やかに笑っていることの多いフィートが、いつになく険しい顔をしている。目線の先には、
「……狼?」
ほとんど陰になっていて、分からなかったけれど。そんな輪郭をしていた。聞こえてくるのは、地の底から響くような唸り声。気付けば取り囲まれていた。どこかに逃げ道はないか。狼たちの向こうに何かがいる。人、というにはずいぶんおどろおどろしかったけれど。そいつは確かにこちらを見つめていた。
「オリヴェイラ、」呆然と、フィートが呟いた。
──この屋。敷は呪わ、れているきっ。とそのせ。いでフィートは囚わ。れ続けているんだ。
──クロード。が 倒れ伏 して、いるもうぴ くりとも動。かないフ。ィートは 体中から血。を流し、てそれでも私。たち を守ろ。うと立ち続けた
ギィ。
神さ ま。
誰か。
誰。でもい いから助、けてよ私 たちは。屋敷に巣 食う。悪霊に勝ったフィー。トの大切 な人。を解き放って天、国に送り 出せ。たその はずなのにど、うしてか胸が。苦 しくて仕、方が ないクロードに。駆け寄って
「ねえ、クロ ード。起きて、死 んじゃダメ だよ。やっと帰れるんだから」
必死に 肩を揺さ。ぶる反応 はないな。んでな。んで 私から全。部奪う、のこん なこと あってい いはず、がな いのに冷た。かったま。るで枯 れ果。てたみ たい に生気のない。顔だ、らんと垂 れ下。が った腕を持ち上、げることもできなくて。
ぐら ぐ。らと足 元から 崩、れ落ちて。いくよ うな感覚。
あ、ああ あ、ああ、ああ あ ああ あ、
泣き叫 ぶ クロードを抱き。しめ ようと伸ば、した手は宙を。切ったまと。もに立 っていられな、い目は。見えてい るはずな、のに視界に映る。全てが意、味を結ば ないどこ ど。こにいる のね、えクロード。
「ミ、シェル? どう。したのね、え、落ち。着いて」
フィート の 声。が聞こえ、る必、死に縋り つい、た届か。ないいやだ助け。てたすけておね がいくろーどを たすけて。全、てが 溶け、ていくようだった 世。界が溶、け落ちるわ たしが。くずれていく。
「ミシェル」こえ がきこ えた。「僕、君の記憶を奪うよ」
なにをい、って いる。の
「次目覚め、た時には全。てが終わって。いる君は全て忘れ。て生きていくん、だ恨んでくれ。ていい全部僕があのと、きの清。算を済ま。せていなかっ、たせいだ君までいなくな。るなんてダ、メだよだからどう、か生き、て」
薄れ、てい く意 識。のなか
「おやすみ、ミシェル」
僕の、友達。
泣 きそ。うな声が 聞こ、えたよ。うな 気がした
。憶記いためろ後。憶記の罪 ?うおましてれ忘。いなくしわさふにたなあ、憶記なんこ──
?うおましてて捨、部全。だりかばのもいらつ、は憶記のたなあ──
──やめてくれ。それは、■■■■■のヴァイ オリ ンなんだ。壊さ ないでくれ。踏みつけない でくれ。これがな くなったら、彼は どうすれば。男たちの笑い声。お手玉のよう に投げ交わされて木 目が反射した
。だ憶記な要不──
──目を覚 ましたとき、彼が ナイ フを振り かざしているのを見て「ああ、もう死んだってい いや」と思った。けれど、彼 は酷く憔 悴 した様子 だった。泣いて いたんだ。だから、僕は良 かれと
。だ憶記な要不──
──「マユ イよ、マ ユイよ、マユイよ、俺の 願いを 叶えてくれ。あの異人どもを全 員 殺してくれ。俺の大 切なも のを踏み躙った化け物どもを、殺し てくれ。一人残らず、恐 怖 と絶望に叩 き落してくれ。どうか」
そん な顔、見 たく は な かった。思い 出 の 中の君は、いつだって太 陽の ように笑っていた というの に。
。だ憶記な要不──
──「まさ かわたしが誰かに看取って もらえるな んてねえ」老女が言 った。「■■■ ■、すぐに■■■■■■が帰ってくるよ。だから
。だ憶記な要不──
──愛おしいと思 ったのだ。不器 用なが らも、真っ直ぐに向き合おうとしてくれる少 年が。白 い花 の似 合う、はにかん だ表 情が。これは友 情なのだろうか。恋 情な のだろうか。とにもかく にも
。だ憶記な要不──
──■■■ ■はバカだった。底 抜けに バカな 男だった。だから笑って見送れ ると思って いたのに。なんで。なんで。
。だ憶記な要不──
──「■■■、」優しげ な幼馴 染の声。「ちょうどい い隠れ場 所を見つけた んだ。おいで」彼が僕 の世 界の全てだ った。幸せだったのだ。例え明日 死ぬ ような命だっ たとしても。■■■■■、僕は君と一緒 に死ねるなら構わな いと
。だ憶記な要不──
──彼女のベッド の下には、縫い 繕われた■■ ■■■ ■の服が隠 されていた。あの婆さん、手癖が悪 いふりし て、けっきょ く底抜け に優しいんじ ゃないか。
。だ憶記な要不──
──■■■■が残してくれた肖 像 画。中で は僕た ちが微 笑んでいる。本当はみんな真顔にするつ もりだ ったけれど、やっ ぱり笑顔の 方が「らしい」と思ったと言っていた。
。だ憶記な要不──
──■■■■と一緒 にした旅は、ある 種の清算だっ たのだと思う。■■■■■を恨 まないで生き ていく ための儀式。海を 見た。遺跡を見た。いちめん の花を 見た。仰ぐほどに大きな 滝を見た。渡り鳥た ちが羽を休める湖を 見た。自分は夜 の種族に なったの だと、嫌でも分か らさせられた。
。だ憶記な要不──
──■■■■■■ ■■■■■■■■ ■■■■■■■
。だ憶記な要不──
──「■■■ ■■ ■。君の名前 だ」月明かり を背 に、青年は 笑った。「俺た ち吸血鬼の生き 方を 教えてあげ よう。俺が、君の家 族に なってやる」
そして、僕 達は 血 を交わ したのだ。
。だ憶記な要不──
。たし壊を画像肖──
。たし壊を装衣たれわ繕──
。たし壊をき書落いならだく──
。たし壊を庭く咲の花い白──
。たし壊を記手の家険冒──
。たし壊を鏡──
。たし壊をガンサミのい揃──
。たし壊を箱縫裁の婆老──
。たし壊を片欠のンリオイァヴ──
。たし壊をフイナ・イウボ──
。たし壊を冠花たち朽──
。たし壊を敷屋たび古──
!はれおはれおるなくな。らま止がい笑りまあの喜、歓るれ入に手をたな。あはれおいな。らなばれけな、でのものれおは憶。記る巡を中体れ流を。管血のたなあだ。のものれおは臓内のた、なあいたし愛。てしにめ詰瓶をつ一つ一、の胞細のそ部。恥のたな、あいたれ入、を手に中の喉のそ。るげ上を声ぎ喘な憐。可いたりぐさ、まを瞳な。うよたしか溶を夜のそだのいた。れ触にたなあはれお人恋いし美の、めたのけだれおスウネーィフ──
「ねえ、フィーネウス」
声が聞こえたような気がした。
急に意識が浮き上がるような感覚に、眩暈を覚える。目の前にいる少年は、とても幸せそうな顔をしていた。
「……ウーゴ?」
「なあに、フィーネウス?」
──君が、このふざけた茶番の仕掛け人なのか。
問えば、ウーゴは腹を抱えて笑い出した。甲高い、変声期前の、無邪気な声。それが今では恐ろしい。本能的な恐怖だった。まるで、巨大な蛇に呑まれる瞬間のような。または、奈落の底へ足を滑らせたときのような。頬に伸ばされた指は眼球を抉り取ろうとするように蠢く。嗜虐的な瞳が、魔術のようにこちらを見ている。
どうしようもなく、喉が乾いた。
「茶番なんかじゃないよ。ぜんぶ大事な、あなたの記憶だ」
そのときになってようやく、枷を嵌められていることに気付いた。ここは、どこなのだろうか。窓辺から、月の光が射している。ちょうど逆光になって、僕の上に跨る少年を照らしていた。彼は鼻歌を交えながら、僕の体を切り裂いている。
「その大切な思い出を、随分と穢してくれたみたいだね」
「アハハ。そんなことどうでもいいじゃない。どうせ全部まっさらになるんだから。おれたちは一つになるんだ。二人っきりで。過去も、未来も、現在もない。まるで綺麗な貝殻みたいに。二つでぴったり、互いを満たし合える存在に」
ウーゴは刃物に付いた血を愛おしげに舐めながら、冗談めかして笑った。
「これでおれも吸血鬼の仲間入りだね。お揃いだ」
違う。違うんだよ、ウーゴ。そんなわけがない。僕は天を仰ぎながら呟いた。
「僕も、君も、」
こんなの、ただの化け物と変わらないじゃないか。
ハルピュイア 藤田桜 @24ta-sakura
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