彼女が卵を産んだ

上原 友里@男装メガネっ子元帥

彼女が卵を産んだ。浮気なんてするもんじゃない。

 もう何も考えられない。頭が真っ白だ。


「一日中子供の面倒しか見てない主婦なんだから俺のメシぐらいちゃんと作れよ」と言ってしまった1年前から、妻は娘と自分のメシは作るが俺のメシは冷蔵庫にしまい込むようになった。


「あったかい状態で出せよ」「卵焼きもろくに焼けねえのかよ」「おれは疲れてんだから」「何だよこの凍った魚。ちゃんとレンチンしろよ」「手抜きすんなよな」「主婦のくせに」「まともな料理もできないんならせめて働けよ」


 俺が言った言葉がすべてA4用紙に印刷されて外から見える窓に張り出されていることに気づいたのは、朝、すれちがう隣の家族がおれにむけるゴミ置き場のような眼のおかげだった。その窓は妻と娘の寝室だった。おれは窓の紙をはがすように命令した。次の日、仕事から帰ってくると室内の紙はすべてはがされていた。同時に室内のものもすべてなくなっていた。残されていたのはリビングのテーブル上に紙切れが一枚。コロニーへ行く。そう書かれてあった。


 俺はその紙を破り捨て、鼻であしらって放置した。何だよコロニーって。カネも技術もないくせにどうやって宇宙へ行く気なのか。妻がアニメオタクだとは知らなかった。だったらなおさらどうせ帰ってくるだろうと思った。だが帰ってこなかった。


 さすがに一週間後、こじらせた内心の焦りをいらだちでごまかし、今なら許してやるから戻ってこいとメールした。返事はない。携帯に怒気交じりの留守電を残した。二度とかからなくなった。妻の実家に電話をかけた。連れ去りだと警察にも電話した。鼻であしらわれた。まさかこの俺が捨てられたとでもいうのか。理解できなかった。いったいどこで道を間違えたのだろう。世界がひっくり返ったような気がした。


 やがて。さほど若くはない女とねんごろになった。真っ黒な髪と真っ白な肌の女だった。女は南のほうのきょくから転勤で上京して以来ずっと一人暮らしなのだと言った。どこの局か聞いたが女は笑って答えなかった。半年後、女はぽつりと言った。あたし、妊娠したみたい。

 結局は浮気、ということになるのだろうが俺としては内心忸怩たるものがあった。出て行った妻に性生活まで縛られるのは不本意だ。当てつけがましい気持ちもあった。彼女は笑って俺の肩に頭をもたせかけた。髪の油がちょっと魚臭くて太っていて足も短い。見た目は不器量だがかわいい女だった。


 その彼女が卵を産んだ。斑点のある白い卵だった。俺の頭も真っ白になった。産婦人科に行って撮ってきたという超音波の白黒写真。あれは何だったのか。日に日に大きくなってきた腹は。笑って腹に当てた手を蹴るあの足の形は。


 おくるみに巻いた卵を残して、彼女もまた姿を消した。コロニーへ戻ります。そう書き残して。


 俺にできるのは卵を温めることだけだった。腹巻に卵を入れ、毎日会社へ行き、仕事をし、ずっと卵を温めた。約60日後。卵がかえった。産まれてきたのはどう見てもペンギンのひなだった。まったく意味が分からない。

 俺はとりあえず水族館に電話をかけた。ペンギンの卵をかえしたのですが育てられませんのでそちらで引き取ってはいただけませんでしょうか?

 ところが電話の相手は俺を笑い飛ばすのだった。ははは、いけませんよそんなご冗談。カワイイご自身のお子様ではないですか。

 エサは何をやればいいんですか? 俺は半ばキレかけてたずねた。答えはちょっと口にできない気持ち悪いものだった。信じられないことを言うやつだ。


 引き取らないというのなら実力行使するしかない。俺はひなを紙袋に入れて電車に乗った。水族館へ行くのだ。

 到着した水族館には仲睦まじいカップルのほかに、明らかに場違いな中年男性が多数、誰とつるむでもなく挙動不審に歩き回っていた。そのどれもが似たような恰好——材質はさまざまだが大きな袋を持ち、眼を泳がせ、冷や汗をにじませ、何かを探すかのようにうろついている。


 中の一人と眼が合った。トートバッグの中にふわふわと灰色のかたまりらしきものがうごめいている。俺は意を決してそいつに近づいた。

「失礼ですが……もしやあなたがお連れなのは……」

「!」

 男は俺を突き飛ばし、必死の形相で逃げ去った。尻もちをついた俺の腹の上にトートバッグを投げ捨てて。中から灰色のふわふわしたひなが転がり出て、ピイピイ泣いた。怖くなって俺も紙袋を捨てて逃げた。ピイピイなく声がいつまでも背中にへばりついているかのようだった。息を切らして角を曲がり、水族館から飛び出してどこまでも走った。自宅へと逃げ帰り、カギをかけ、カーテンをしめて部屋を真っ暗にし、ストロング系のチューハイを浴びるように飲み倒してガタガタ震え、それっきりゲロを吐くみたいにすべてを忘れることにした。

 だいたい水族館にペンギンのひなを捨てたからなんだというのだ。動物虐待か何かか? ほかの連中もみなペンギンを捨てに来ていたじゃないか。そもそも人間が卵を産むのがおかしい。いや、待て……


 妻が里帰り出産したとき、俺は仕事が忙しくて立ち会わなかった。戻ってきたのは4か月後だった。娘は灰色のかわいいおくるみにくるまれていて、いつもぴいぴい泣いていて——


 一睡もできないまま、次の朝になって。出勤した俺は、去年寿退社した若い女子社員が、結婚式で仲人をした社長にあいさつしているところとすれちがった。うわさによると社長の友人の息子さんと結婚したという。

 彼女は灰色のおくるみを抱いていた。満面の笑顔で社長と話をしている。おくるみからのぞいていたのは斑点のある卵だった。

 俺の中で何かが、まるで卵の殻が割れるみたいな音を立てて壊れた。

 気がついたら俺は彼女に襲い掛かっていた。卵を奪い、両手で高くかかげて叩き割ろうとする。こんな卵! 何が卵だ! 人間が卵なんて産むはずないだろう! このばけものめ!!!


 俺が彼女の卵を叩き壊す前に、周囲の連中が彼女を守り、逆に俺の方が取り押さえられていた。自分でもそのときのことはよく覚えていない。たぶん人間なのに! 人間なのに! と喚き散らしていたと思う。すぐに警察が来て白と黒の車に乗せられ、俺はどこかへ連れてゆかれた。留置所に放り込まれ、取り調べを受ける。


「とんでもない奴だ。あんなかわいい卵を割ろうだなんて」

 二人組の警察官のうち、年長らしきほうが哀れな動物を見る眼で俺に言った。どこかで見たことがある髪の色だった。魚めいた油の匂いのする真っ黒な髪。白い肌。よく見ればおそろしく微細でなめらかな産毛のように羽毛が生えている。それは人間の皮膚とはまったく違っていた。まさかヒト型爬虫類レプティリアンなのか……!?


 俺は砲弾のような形をした鉄格子の檻を殴りつけた。こんなところに閉じ込められるいわれはない。

「出せ! ここから出せ!」

「大丈夫。落ち着いて。すぐに保護施設シェルターの人が引き取りに来てくれる。そこならきみのような野良人間のらニンゲンもきっと安心して暮らせるはずだよ」

「うるさい! 貴様らはいったい何者だ。さては人間じゃないな。人の皮をかぶったばけものめ!」

「ばけものだって? やれやれ。ずいぶんと嫌われたものだ」

 警官はそれぞれの眉根を寄せ、互いの顔を見合わせた。理解できない、といったふうに首を振り、ピィと口笛を吹く。さえずっているかのようだった。

「やはり野放しにはできないね。どんなに姿かたちが似ていても、しょせん《人間ニンゲン》は人の皮をかぶった凶暴な動物けだもの。我々《人鳥ペンギン》とは似ても似つかないよ」


 断絶の音を立てて鳥かごケージが閉まった。

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