Goat
月這山中
山羊。
砂の粒が表面を流れる。金色の虹彩が楕円に切り開かれ、うつろな闇をのぞかせている。横倒しになった奇妙な相貌は、元は白かっただろう、汚れた硬い毛並みに覆われている。それは胴体につながり、投げ出された細い前脚が繋がっている。
胴体が、途中から別の物となっている。背鰭がある。細かな鱗に覆われ、金属的な光沢を放ち、古い鏡のように周囲の風景を歪めて映している。その先端には、海面に浮かんだ三日月形の尾鰭が繋がっている。
魚。
浜辺には、奇妙な死骸が座礁していた。
人と魚が合わさって人魚なら、山羊魚、とでもいうのだろうか。私はそれに近付く。山羊の顔を真上から見下ろし、観察を始めた。
鱗の隙間から、毛が生えている部分がある。生気は感じられない。しかし無機物でもない。波によって尾鰭が揺れるだけだ。
不意に山羊の目が、こちらを見た気がした。
「 」
半開きだった口が動いた。波形が乱れる。首を曲げ、体液を吐いて山羊の顔が嘶いた。私は思わず身構えたが、声を聞くことはできない。視覚情報以外は遮断されており、それを感知したのは音波センサーだけだ。
山羊魚は時間にして1秒半嘶き、そして沈黙した。暴れることもなく、ただ静かに死骸へと戻った。
5秒のインターバルの後、私は死骸の観察を打ち切った。このようなサンプルで研究所は飽和状態にある。あとはスーツから送られた情報を解析すればいい。
私はいつものように、汚れた海岸を後にした。
声を聴くだけで、脳波を狂わせる鳥が飛んでいる。瘴気で粘膜異常と呼吸困難を引き起こす亀が地上を歩いている。人体を急速分解するアメーバが蔓延り、スーツ無しで出歩くこともできない。
奴らは海から来る。カンブリア紀の再現のように。母なる海から生まれ、世界を蹂躙し駆け巡る。たった数百人だけの全人類が、このシェルターで息を潜めている。
「山羊座」
「何?」
室内作業着に着替えた私は、解析班のリーダーへ報告に来ていた。
モニタリング用のデスクには冷めたコーヒーが置かれている。無毒化する前の原料を思うと、私にはその飲み物を愉しめそうにない。
今日の調査で持ち帰った映像。変わり映えのない道と浜辺の様子が早送りで流れた後、あの異物が映ったシーンで停止した。
「カプリコーン。前時代の天文学が、神話から名詞を拝借してるのは知っているでしょう」
映像を通常再生に戻した後、彼女は気だるげにモニターを睨みつけている。
「怪物を退けるため魚の神が半身を山羊に変え笛を吹き鳴らした。ゼウスがその姿を称えて……山羊の神が魚になったんだっけ?」
「知らん」
御伽話は今の状況に関係はないはずだ。奴らの存在に意味などない。
彼女は無表情で解析を続けた。映像の山羊魚が動く。
「声をサンプリングしている」
私が言うと同時に、彼女は音声データの波形をモニターに映し出した。同時刻の鳴声だけを切り出す。解析プログラムが例の鳥の声と山羊の声を照らし合わせ、脳波に与える影響が低いことを示す。
彼女は迷うことなくキーを叩いた。
「喋ってる」
スピーカーを通じて、掠れ捻じれた鳴き声が何度かリピートされる。私にはわからなかったが、たしかに人間のような複雑な発声法をしていた。
彼女は唇を動かす。何度も自分の耳で拾った音を確認し、徐にその言葉を口にした。
「そうぞう、に、ころされるな……ね」
山羊魚について、私達はそれ以上は言及しなかった。
私が研究室を去る間際、彼女は独り言のようにある疑問を投げかけた。
「こいつらが居なかったら、私達、どういう仕事をしてたのかしらね」
振り返ると、彼女は薄く笑いながら私の顔を窺っていた。これは彼女の趣味だ。奴らを前にした時と同じように、好奇心と慈愛に満ちた眼で、私の精神を解剖しようとしている。
モニターには汚れた水平線が映っていた。
奴らが完全に対策された時、そこに自分の居場所があるのだろうか。考えることはある。
私は『見る』ことしか能がない。他の選択肢はなかった。危険な場所へ赴き、生きて帰ってくる。今の仕事しか知らない。未知の危険が無くなれば、無意味になるのではないだろうか。
そんな世界は無いのかもしれない。少なくとも人間が滅ばない限りは。生きている限り問題はあり、問題が無くなった後は滅びの道へ入るだけだ。
……想像、でしかないが、滅びを回避するために、種族が自ら天敵を作ることはあるのだろうか。
奴らを眺める彼女の眼。海に細工をした、神をも恐れぬ何者かの存在……
いや、奴らの存在に意味などない。意味があるとしても、耳を傾けてはならないものだ。あの鳥の声のように。
だから、これは想像だ。単なる、眠りにつくまでの時間稼ぎだ。
私は思考を巡らせながら、共同部屋の隅で粗末な寝具にくるまって眠りについた。
了
Goat 月這山中 @mooncreeper
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