邂逅

 夢か現か。


 琴葉がこの不思議な空間が来てから、どれ程の時が経ったのだろうか。

 周囲は白い陽だまりのような場所で、特に何もない。

 お腹が空くこともなければ、何かやりたい事もない。

 時々微睡んでは目が覚めて、それをずっと繰り返している。

 死装束のような真白な着物を身にまとった琴葉は、しばらくぶりに上半身を起こして周囲を見た。

 どうしてここへ来たのか、自分が今まで何をしていたのかも最早判然としないが、時々、誰かに名前を呼ばれているような気持ちになることがある。

 だが、辺りを見回しても、自分以外の人影はなく、その度に琴葉は途方に暮れてしまうのだった。


(何故かしら。ひどく急いでいたような気がするのだけれど……ここへ来たら、全てを忘れてしまった。)


 大切な約束や、大切な人があったような記憶もあるが、それが何なのか、思い出せない。

 けれど思い出さなくてもいい、と言われているかのように、この静謐な白い空間は、ただただどこまでも続いているだけだ。

 意識がぼやけていくうちに、また眠気がやってくる。


 琴葉が横たわろうとしたところで、ふと自分を見下ろすと、先ほどまでの白い装束とは違う、上質な絹で出来た薄い紺色の着物を身に纏っていた。


 白い雪輪を絞りのようにして染め抜いてあるその着物には、見覚えがある。

 どこか懐かしく、甘く、それでいて切ない記憶――


「清一郎さま」


 突然鮮明に、愛しい人の姿が思い起こされた。

 ああそうだ、自分はあの方の為に、あの方の大切な矜持と大切な人の為に、命を差し出したのだ。

 美しい瑠璃色の瞳を持つ、琴葉の夫となった人。

 こんなところで道草を食っている場合ではない。悠長に微睡んでいる時間はない。


「行かなくては」


 ここで自分が札の代償の役目を果たさねば、彼の悲願は達成されない。


 琴葉は立ち上がった。

 どこまでも続くこの白い空間だが、行くべき方向は自ずと分かる。

 足を踏み出した、その時。


「琴葉」


 今度ははっきりと。

 自分を呼ぶ声がした、と思った。

 そしてそれが、聞き間違いようのない、愛する人のものだと気がついた時、琴葉の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「清一郎さま」


 琴葉は振り返る。

 神の慈悲か、己の見せる幻覚か、そこには軍服を身に纏った清一郎の姿があった。

 どうして、という言葉は声になる前に、駆け寄ってきた清一郎に、強く抱きしめられる。


 息ができないほどの強い抱擁に、琴葉は言い知れない幸せを感じた。


「琴葉――会いたかった」


 幻覚とは、こうも都合の良いものなのか。

 心地の良い声が、頭上から降ってくる。仮初の夫から、聞けるはずのない言葉を耳にして、琴葉の胸は張り裂けそうになる。


「清一郎さま……」

「どうしてこんな、無茶をした。相談してくれれば、一緒に手立てを考えたのに」


 優しい清一郎なら、きっとそう言うだろうと思った。けれど、それは甘えだ。

 この清一郎が自分の生み出した幻ならば、最後くらい、告げられなかった想いを全て話しても構わないか、と琴葉は開き直った。


「それは出来ませんでした」

「何故?」

「お優しい貴方ならば、私の悩みを打ちあければ、共に背負ってくださるだろうと思いました。けれど、そこまでのご恩を、仮の妻である私が受け取るわけには参りません。あくまで貴方様とは、仮初の契り。貴方は私に妻としての役割を求めないのに、どうして妻の権利を求めることができましょう」


 自分の言葉が、白の空間に染みを作っていくように落ちる。

 清一郎は何も言葉を発さなかった。琴葉は続けた。


「火事の中、清一郎さまの唱えてくださった婚姻を誓う祝詞が、半端なものであることには気付いておりました。あれは、いつ私と離縁してもよいようにしておられたのですよね。盗聴用の札に気が付いたのは、貴方へ八重様のお手紙を渡した日に『なんでも知っている』と仰ったから」


 きっと高名な札屋が書いたものだっただろう。さすがは退魔科の札だ、出来ることならこれを書いた人へ師事してみたかったと思ったほどに、盗聴の機能は巧妙に隠されていた。このような札と同列に、自分の作った札が退魔科で使われているという事がわかって、誇らしい気持ちにさえなった。


「盗聴されていても、それでも良かったのです。貴方が私をそばに置いてくださる理由が明確なのであれば、それをまっとうしたいと思っただけ。貴方が、私に生きる意味を下さったから」


 自分を必要としてくれた。それだけで良かった。


 誰のために使って良いか分からない技術なら、無い方がましだとさえ思っていた。

 ようやく息を吸えたこの場所で、琴葉は命の使い方を知ったのだ。


「……なるほど。そう思っていたんだな」


 唸るような低い声が、琴葉の耳を打つ。


 あら?

 琴葉が違和感を感じた時には、周囲の気温が急激に下がって突然肌寒くなった。

 この真っ白な空間が、ここまで明確な変化をしたのは初めてのことだ。

 目の前の清一郎は、幻覚のはず。琴葉の予想では、彼は少しだけ悲しい顔をして、それでも、その通りだと手を離してくれると思っていたのだが。


 明らかに、目の前の清一郎は、怒りを湛えた目をしていた。

 自分の考えと異なる動きをする幻覚とは、一体どういうことなのだろうか。


「私も今まで全く言葉が足りなかったとは思っていたが、改めて反省している……きみとは、もっと話をすべきだった。うん、今ならよく分かる」


 清一郎の言葉に、琴葉はますます首を傾げた。

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言ノ葉を織る乙女 〜仮初めの契りは帝國軍人の溺愛を生む〜 楠木千歳 @ahonoko237

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