夢の中

「お兄様、おかえりなさい。お義姉様はまだ、お目覚めにならないけれど、きっと明日には目を覚ますわ。お母様も三年も眠っていたけれど目を覚まされたもの。明日にはきっと、目を覚ますわ」


 帰ってきた清一郎を出迎えたのは、八重だった。


 繰り返し『目を覚ます』と唱えているのは、言霊のつもりだろうか。清一郎は健気な妹の頭を優しく撫でる。

 八重には、凄惨な現場を見せないように苦心した。母を治すために死力を尽くしてくれて、今はこんこんと眠っている、ということにしている。


「お義姉さまと一緒におでかけしなければならないお約束、楽しみにしているとお伝えしてね。あ、そうだ! お母様も一緒に行けるわね」

「……そうだな」

「それから、お義姉さまと一緒に育てていた、学校の課題のお花がもう直ぐ咲きそうだから、一緒に見たいの。見られるかしら――いいえ、きっと見られるわよね」


 自分に言い聞かせるように呟く八重を、清一郎は黙ってもう一度撫でた。

 八重と別れて、清一郎は離れへと向かう。

 母の咲子は本邸に居を移した。代わりに、琴葉が今まで母の寝ていた場所で静かに眠っている。


「『琴葉』、帰ったよ」


 清一郎は魂を込めて、彼女の名を呼んだ。

 彼女はあの日から動かない。血の気の失せた顔も、閉じたままの瞼も、そのままだ。


 怖がらないで、もっと名を呼べばよかった。

 もっとたくさん話せば良かった。

 そんな後悔に苛まれても、過ぎた時間は戻らない。


「『後悔先に立たず』とはよく言ったものだ」


 起きてくれとどんなに心を込めて呼んでも、あの澄んだ瞳はこちらを見てはくれない。

 母が怪異に犯された三年前も、そうだった。

 あの日は、清一郎が大きな怪異を片付けた後だった。仕事で遠征に出掛けていた父が帰ってくるから、外で食事をしようという話になっていた。父と合流するため母を屋敷に迎えにきた清一郎は、自分がまだ怪異の残滓をつけていることに気が付かなかった。


 自分の影から、母に襲いかかる怪異。

 母が自分を庇い、突き放して――

 その後のことは、照明が落ちたかのように真っ暗になって、全く覚えていない。


 母が昏睡に陥ったその後で、『退魔科にいた誰も気が付かなかったのだから、仕方がない』と慰められた。けれど、自分があの時怪異を連れていたことに気が付かなかった、その事実が、自分の命を断とうかと思うほど清一郎を苛んだ。


「きみは、私に命を預けてくれたのに。きみの命を、きみの願った形で、使ってあげる事がまだ出来ない」


 清一郎は自嘲した。

 清一郎は涼夜から預かった札を、琴葉の布団の上に置いた。

 涼夜は『使い方は自分で考えろ』と言っていた。祝詞も教えてもらえなかった。手がかりはこの札ひとつ。


「外紙は外さない方が浪漫がある、と言っていたきみの言葉には背くけれども」


 清一郎は薄い和紙の包み紙を剥ぎ取る。現れたのは草書体でびっしりと記された札だ。

 文体は古文に近い。変体仮名を使用してあって、専門に勉強していない自分では完全に読み解くのは無理かもしれない。だが推し量ることはできる。

 清一郎は一生懸命、札の文字を追った。


「なるほど、対象となるものの精神世界に入り込む札、か。白藤が占で使う時は、おそらく対象を『天』に設定して――夢見の札の一種にしては、高度な事をする。流石は五藤宮の秘術の一つとでも言うべきか。この札を書いたのは……琴葉の父、だろうな」


 独り言を呟いて、清一郎は目を閉じた。

 涼夜が一族の秘術を託した、その事実の重みを噛み締める。


 彼女を救うための対価になるならば、己の命を差し出してもいい。けれど、それでは琴葉と同じになってしまう。彼女が目覚めた時に、己と同じ絶望を味合わせたくはない。

 そう自惚れられる程度には、琴葉の愛を受け取ったつもりだ。

 清一郎は琴葉の髪を優しく撫でる。


「叶うなら、もう一度、きみと直接話がしたいんだ」


 琴葉から、返事はない。

 己の脈打つ鼓動が聞こえるほどに、静寂が痛い。

 札の上に手を置き、静かに祝詞を唱え始めた。


「奉る――『安き眠りにこいねがう 先のえにしの明けの空 巡る星夜の宿命さだめあらば 導き教え示し給へ』」


 意識が遠ざかる。清一郎は自分の体がゆっくりと、琴葉に折り重なるようにして倒れていくのを自覚した。



 瞼を閉じる瞬間、白一面の景色の中に、二人で百貨店へ出かけた時に買った、青い着物を着た琴葉が立っているのを見た気がした。

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