波止場のブルウス

うたふ兎

波止場のブルウス


 神戸の波止場のそばには三等船客向けの安ホテルがあって、僕はよくそのロビーに入り込んで自分の描いた浮世絵もどきの危な絵を外人客に売り付けた。

 それは結構な商売になった。

 受け取ったドル札にものをいわせて、これまた外人客向けに媚を売る歌手の女とそのままそのホテルの客になってニ、三日しけ込む日々が続いた。 

 絵のコンクールに何度出品しても落選ばかりしているうちに、芸で身を助けるしかなくなってこの有様になったわけだ。

 女はどこで覚えたものかブロークンの英語でジャズを歌った。

 ホテルのロビーで歌う様は押し出しが強く、亡命ロシア人の女のピアニストとの掛け合いには即席の遊びがあって、なかなかのものだった。

 彼女は東北の出身でくつろぐと訛が出るのが派手な洋装と妙にちぐはぐで、気のいい性質だった。

 僕はそれをよいことに、彼女の仕事のない昼間はよく裸になってもらって危な絵のモデルをさせていた。

 生活がかかっているからか、僕は油絵の大作を描いているときより慎重な筆使いで、一枚一枚気を抜かないまま、一日に三枚ほどこなした。

 女にはずっと裸でポーズをとらせるわけにもいかないので、粗々のデッサンが終われば放免すると、彼女は譜面を持ち出して歌の練習をした。

 一わたり練習すると、彼女は決まって、上海で歌手の仕事を探したいから僕に同行してほしいと言った。

 僕は上海事変の後景気が冷えているから神戸にいたほうがよくはないかと言うと、彼女はそのたびに、それもそうだわね、と独特のアクセントで答えた。

 しかし次の日にはまた上海行の希望を繰り返すのだった。

 男女のことに勘の良い方でない僕も、ひょっとして女は上海に渡った男を探したいのではと気付いた。

 そこで僕は単刀直入に、上海で人探しでもするのかい、と尋ねると、彼女は意外にもこっくりと首を縦に振った。

 男かい、と尋ねると、亭主だと答えた。

 亭主は国産の鳥の羽根で作った婦人ものの帽子の輸出を誰も使わず一人でやっていて、暮らし向きも悪くなかったが、二年ほど前に上海に出張すると言って出掛けたきり戻らず音信もないというのだった。

 彼女は、亭主の行方の手掛かりも何もないが、船の切符は持っていたから上海に渡ったのはきっと間違いない、一度上海に行けば自分の気持ちの整理がつくと思う、と言った。

 僕は、それならば連れて行ってやろう、と答えた。

 ホテルは引き払い、彼女は新開地のはずれの僕の借家に転がり込んで、旅費を貯めることにした。

 僕は危な絵をモデルなしに描いては売り歩いた。彼女は時々まとまった金額を持って帰った。

 彼女は金を僕に見せる時ちらりと僕の顔色を窺ったが、僕は彼女に金の出処は尋ねなかった。

 三ヶ月もするとある程度金ができたので僕は一週間の予定で上海に渡るつもりになって、上海の地図を買い込んで調べる見当をつけ始めていたところ、彼女はもう亭主のことはどうでも良くなった、亭主なんてもう二度と持たない、と言い出した。

 僕は画学生の時に下宿の娘と駈落事件を起こして、結局金が切れてのこのこ二人で下宿に戻ったのだが、娘はそれで憑物が落ちたように僕に冷たくなり、取り付く島もなくなった。

 それからは僕は田舎ではそこそこの地主の実家から勘当されて独り浪々の身の上で、だから今の女とのこういう曖昧な関係が続こうが続くまいがどちらでもよかった。

 上海行の旅費は二人ですき焼を食ってから競馬場に出掛けて、一日のうちにきれいに使ってしまった。

 二人はそのまま僕の借家に戻るとあり物の焼酎を煽って眠った。

 翌朝遅くに起きてみると、彼女の姿がなかった。

 彼女の衣類も化粧品もなくなっていて、おまけに窓に吊ってあったカーテンまで消えていた。

 彼女とは曖昧な関係でよかったはずの僕であったが、唐突な彼女の失踪に混乱した。

 僕は危な絵の制作は休みにして、彼女と出逢ったホテルに急いだが、顔馴染みのフロント係に小銭を渡して訊いても見かけていないという返事だった。

 考えてみれば僕は彼女の身の上について知っていることはあまりに少なかった。

 亭主が鳥の羽根の輸出をやっていたという話を手がかりに電話局へ行って最近廃止になった輸出業者がないか調べたが、それらしい届けはなかった。

 僕は自分が彼女に嫌われるはずがないという変な自信があって、彼女が最初から宿を借りるだけの目的で自分を騙していたのだと考えることにした。

 電話局の帰りに街角のカフェーで浅草オペラの田谷力三が「風の中の羽根のようにいつも変わる女心」と歌うレコードがかかっているのを聞いて、女心なんてその通りだと思った。

 それから彼女は二度と僕の前に現れることはなかった。

 僕はなぜか未練を断つことができないで、またホテルに歌の仕事に立ち寄るかもしれないと思ってほとんど毎日一度ロビーを覗いた。

 そんな日々も大戦が始まり男手が足りなくなった実家から僕が呼び戻されることで終わった。

 彼女が消えたのは結局僕が亭主のことなんか諦めて自分とずっと暮らそうと言うだけの誠意がなかったからだ、たとえ嘘でもそう言うべきだった、こう思い当たったのは不覚にもごく最近のことである。




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