短編小説まとめ
赤宮 里緒
第1話
1
彼がいないとご飯は適当に選ぶし、床の上に服を脱ぎ捨てる。電気を点けた部屋の空気は薄暗い。玄関の鍵音は、夜勤中の看護師さんが巡回に来るときのそわそわと安心を覚える。彼の顔を覗き込んだ時に、栗色の目が細くなる瞬間が私の生きがいだ。
2
日本人は信仰する宗教はないと答える者が多いのは周知の通りだろう。だが初詣に行き、厄年を気にしては、受験期に合格祈願をするなど随分矛盾している。馬鹿げた価値観を鼻で笑う私だが、神という非現実に感謝する瞬間が当然ある。人の心は移ろいやすいから何も恥ずかしくはない。
「ちまちゃ〜〜〜ん何ちてるんでちゅか〜今日もかぁわいいねぇ〜〜んっすぅうううはぁあ」
細められた黄金の目はいかにも迷惑そうだ。神様。猫を生み出してくれて、ありがとうございます…っ!!
3
「テスト面倒くさいな」
「腹痛くなったら休めるかな」
「貸した消しゴム帰ってきてないな。明日声掛けようか」
「この人、寝るのは良いけど寄っかかるのはちょっと」
「ゆうちゃん泣いてるのウケる、まあ推しの熱愛はしんどい」
満員電車は色んな声が入り混じる。携帯を見て眉を顰める名の知らない人から視線をそらし見なかったことにした。
僕は、他人の考えていることが聞こえる体質らしい。そのせいで人混みでは常に知らない誰かの気持ちが僕の頭を掻き乱す。頼んでもないのに裸を見せられている気分だった。
「唯くん」
名前を呼ばれて思わず声の方を振り向く。だが、音を拾ったのは耳ではなく脳。僕はきょろきょろと周りを見回して、その人と目があった。
「気付いてくれた」
1年6組の、控えめな女子生徒だった。同じクラスじゃないけど顔を知っているのは彼女がよく校舎の端で歌っているから。よく伸びる声は廊下を貫いて僕の鼓膜を震わせる。僕以外にもひそかに彼女の歌を楽しんでいる人がいるくらい魅力のある歌声だ。
「いつも教室の窓から私のこと見てるよね」
「見ているというか聞いてくれてるって言うべきかな」
「遠くからでも熱心に聴いてるのが分かるよ」
「週末は部内でミニライブやるの。来てね」
彼女は一息にそこまで話すと、僕を見ながら少しだけ目尻を下げて電車から降りた。肩に付きそうな髪が揺れるのを、どうしてなのか、ずっと目で追っていた。
一言も彼女は声を出していない。だが、僕は確かに話しかけられた。憧れに近い想いを抱いていた彼女に。
週末、部室。
僕は急いでスマートフォンのカレンダーにタスクを残した。
僕のノイズを掻き消す魔法の声が脳にこびり付いている。
4
窓から射す日光でうなじが熱い。春が近づいているらしいと車内アナウンスを聞きながらぼんやりと考えた。駅のホームに付くと屋根で日差しを遮られ、うなじの皮膚がひゅっと強張った。寒暖差は苦手なため大袈裟に寒がるクセがある。
2月下旬はまだコートを手放さない人が大半だ。自分も例外なくチェスターコートを羽織っている。マフラーを持ってこなかったことを今朝は後悔したが、正午を迎えて気温があがった今ではむしろ付けないのが正解だった。細い木には、まだ枝にしがみつく枯れ葉がいくつか目立った。冬を忘れたくないのか、越したくないのか。冬と春の狭間で水を失ったあれは葛藤していることだろう。
今年の冬は酷かった。しょうもない人間関係の拗れに巻き込まれて無意味に苛まれた。トラブルの元凶は自分ではないかと思い当たる節があったからこそなかなか立ち直れず、社内はぎこちない会話とよそよそしさで成り立っていた。気にしないように、気を遣わないように、そんな暗黙の了解に耐えられなくなった精神はいつしか悪夢を連れてきた。夢を見ない日のほうが少ない日々に不眠の疲れとストレスが溜まる一方で、面倒くさいとしか言いようがなかった。
主治医に体調が戻らず困っていると伝えたのは30分前の出来事である。主治医は深刻な顔をひとつもせず、これまで培った自分自身の立ち直る力を信じる時だとカルテに何かを書きながら穏やかに私へ告げた。私は「まあそうなるよな、薬が増えなくて良かった」と他人事のように思うだけだった。実際、主治医は求められた時か危機的状況にあるとき以外は基本処方内容を変更しない治療方針である。薬の効果は絶大だが、地力を養わずに他力本願のまま生きればその場しのぎで終わってしまうと自分でも理解しているため主治医を頼りないと考えたことは無かった。
窓の外に太田川が見えた。向かいの席に座る老齢の女性はスマートフォンを片手に私に背を向けた。写真を撮るのだろう。久しぶりの晴れ間だ、代わり映えのない川面は確かに記録する価値がありそうだった。体感で5分もしないうちに目的の駅に到着し、降車した足で自宅へと向かった。途中、通りかかった格安の手作りパンのお店を少し覗いたが、何も買わなかった。ピザパン美味しそう、と思ったが食べる気はしなかった。
短編小説まとめ 赤宮 里緒 @rio324_blue
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