第3話 女子には時にホイップクリームが必要


 事務職って、机の中にお菓子を入れておけて、いつでもお菓子つまめるもんだと思ってた。けどいざ事務に着いたら、事務所暑すぎでチョコ溶けるし、上司のおっさんらはタバコ休憩を数十分おきに取るくせに、デスクでクッキー食べてるのをおばさんの先輩も注意してくるし、マジで面倒過ぎて辛い。

 そんな事務職もやめよかなーって思い続けて早三か月。仕事にも嫌でも慣れてきて、給与のおかげで最近はエステとコスメと推しにちょとだけお金割く余裕ができてきたんだけど……一個耐えがたいことがあって。


「あ、もしもし、リキ? 今時間いい?」


 私はスマホで大学時代の男友達であるリキと通話する。通勤時の混雑すさまじい駅のホームで、大都会の列車を待ちながら。というのも、この満員電車、出るのだ。痴漢が。

 当初は心細さや寂しさからと通話をしていたが、今では痴漢へのけん制が主目的になっている。もちろん、電車の中では通話はできないが、そもそも痴漢そのものも電車の中では遭遇していない。

 この痴漢には不可思議な点があった。

 電車の中では手を出してこない。駅のホームでしか手を出してこず、決まって背中を触ってくるのだ。背中なら痴漢にならないとでも思っているのか、駅のホームなら逃げやすいからそうしているのか。


「なんだ? ユメ、お前電車一本早めろってこの間アドバイスしただろ?」

「そーだけど、私は朝弱いのよ。あ、それに、この間実際に早めた時あったじゃない?」

「あったの? その時電話貰ってないから知らねぇけど」

「あったの。ところが、その時も現れたのよ」

「ひぇ~ マジ? こわ」

「マ。ありえなくない? あ、で、リキ、今度週末予定開いてない?」


 そうこうしている間に、駅のホームに電車の接近を知らせるアナウンスが流れる。軽やかなメロディと車掌の独特のイントネーションでの喋り、電車の警笛が遠くから聞こえる。


「え? 何って? 聞こえないけど」


 列車の駆動音に紛れて、電話の内容が上手く聞き取れなくなる。そんな最中、電話口から、リキではない女の声ではっきりと、なにかが私に言った。


「死ね」


 背中が何かに強く押され、私はバランスを崩した。私の手からするりとスマホが飛び出し、線路上に吸い込まれていく。思わずスマホを追いかけそうになった私を、見知らぬ男性が腕を掴んで引き戻した。

 電車がホームで静かに止まり、何事もないかのようにドアが開く中、見知らぬ男性は安堵の吐息を洩らした。


「良かった。無事そうですね」


 一瞬思考が追い付かなかった。

 その結果、口から想っても居ない単語が飛び出した。


「あ、痴漢は、どこに?」


 私を突き飛ばした推定痴漢の所在を訪ねた言葉であったが、周囲の人がサッとその男性を見た。

 男性はどぎまぎしながら否定し、未だに掴んでいた私の腕を離して両手を高く上げて無罪を主張する。視線は私に助けを求めており、無論ながら命の恩人であろうその人のために痴漢の容疑を否定した。


 駅のホームの端っこのベンチで、その見知らぬ男性に適当に自販機で買った炭酸飲料を渡し、お礼を言う。


「先ほどはありがとうございました」

「ああ、いえいえ。大事にならなくて良かったです」


 男性はあたしと同年代ぐらいで清潔感はあるが、それより浮世離れしている感覚が強いような、悪く言えば怪しさがにじみ出ている人であった。

 その男性が私と目を合わせずに、受け取った炭酸飲料のラベルに着いた結露を指で拭いながら淡々と述べる。


「突然で驚かれそうですが……突き飛ばされる前に何か、妙な声を聴いたり姿を見たりは?」


 咄嗟に脳裏に、電話口に知らない女の声がしたことが浮かんだ。だが、初対面の知らない人に「突然知らない女の声で電話口で『死ね』って言われた!」と言っていい物か少し迷い……


「あー、いえちょっと、解らない、です、ね」


 誤魔化した。

 だが、男性はどこか鋭いような目で私を見て、軽く微笑んだ。芸能人レベルのイケメンであったら心を鷲掴みにされていたかもしれないが、この人はそうでもないのでむしろちょっとイラっとした。命の恩人に罪は無いが。


「今から突拍子もないことを言います。実は僕は、幽霊とかそういうのが見える者でして。あなたには女性の霊がついてます」


 何を突然言い出すんだこいつは。とおそらく私の顔には盛大に書いてあったことだろう。その表情を見たであろう男性は苦笑いをしながら続ける。


「あなたと仲のいい男性が居ますが、その男性に片思いをしつつ亡くなった方だと思います。なので、あなたがその男性と仲が良いのが許せないのではないか、と。過去にそういうことがあったんです。なので対策も分かりますが……」


 そう言って、男性は話し始めた。


―― 蛇の霊


 昭和の終わりごろの事。ある男に女性が恋をした。

 というのも、男からの猛烈なアプローチを受けてのことだ。女性は自身の美点が解らない娘であったこともあり、アプローチに応えることにした。

 だが男には他に恋人が居た。その恋人と順風満帆であったにもかかわらず、男は浮気相手に女性を選んだ。その事に女性が気付いたのは、男が女性の家に出入りするようになってからであった。

 女性は自身が浮気相手であったことに心を痛め、男を問い詰めた。あわよくば、自身が正規の恋人に成れればなどと考えたのだ。しかし男にとっては火遊び。女性は捨てられた。男は女性を無視するようになり、女性は徐々に心をすり減らしていった。


 と、ここまではよくある話。

 男は周囲に、女性との浮気の関係を彼女の妄言妄想だと嘯いた。むしろ自身は被害者なのだと。その事に関して問い詰めようにも男は無視を決め込み、複数人の場で会えばむしろ良いカッコを皆に見せる。そうした外面の良さを振り撒く男と、すっかり精神的にすり減った女性と、二人のどちらの話を周囲の人が信じるかと言えば明白であった。周囲の者は女性を信じなかった。

 女性は憎しみを抱いた。好意は憎しみに反転し、男に関わる全ての者を恨んだ。

 その恨みを抱いたまま、女性は限界を迎えて駅のホームから身を投げてしまった。

 女性の恨みか、男の周囲の人間が次々に、まるで誰かに突き飛ばされたように駅のホームから身を投げた。女性が最も憎んでいたはずの男は最後まで生かされていたが、それは愛情が残っていたからか、あるいは孤独こそ最大の復讐となるからなのか……


 恨みつらみを持った女性の霊を、能では蛇の面を付けて表すということから、このような愛憎の女性の霊を蛇の霊としてあらわすそうな。

 また、蛇の霊の恐ろしいところは、それが死霊である場合以外に生霊、すなわちまだ生きている人間であるケースもあるという。

 問題があるのは、浮気性な男の方であるというのに、被害にあうのは周囲の人間であるのは不条理である。



――


 命の恩人とはいえ、急に変な話をされて私はこの場を離れたくなった。どうせこの後は「幸運のツボを買えば悪霊が退けられて」とか高い買い物をさせられるんだ。そんな金は無い。推し活資金すら足りていないというのに。

 しかし、そうして身構えた私に男性は意外な提案をする。


「スイーツを食べると良いかもしれません」

「は?」


 私の口からは思わず気の抜けた音が漏れた。

 何とか私の少ないオツムをフル回転させ、この人が何を言いたいのかを予測する。


「え、今の話の流れでナンパですか?」

「ああいえいえ、違います! 僕とお茶しませんかって意味じゃないんです」


 男性は咄嗟に私に向き直りながら、真剣な、しかしどこか気の抜けた、不思議な雰囲気を纏いながら続ける。


「あなたに憑いている、あるいはあなたと仲が良い男友達に憑いている霊を鎮めるには、霊の女性の好きな物を食べるのが良いかもしれません。二人分作って、一緒に食事をするんです」

「え? なん、え? どういうことです?」


 男性は少し真剣な視線で私に訴えかける。


「今度はスマホでは済まないかもしれません。騙されたと思って、『同年代の女性と家でスイーツを食べて』ください。うまく行けば、あなたに新しい出会いもあるかもしれません」


 何を言ってるんだと呆気に取られている私を残して、男性はやってきた電車に乗るためにベンチから立ち上がる。

 立ち上がり際、男性は私にハッキリと言った。


「あ! あと、週末はその男友達と行動するのは避けてくださいね」


 あれ? そんな話、私したっけ? あるいは、電話の内容を聞いてた?



 線路に落ちたスマホを駅員さんに拾ってもらい、会社にズル休みの申告をし、私は家に帰ろうとした。

 うだるような炎天下の中、私の背中の一部だけが妙に冷えている。そして、脳裏に確かにあの時聞こえた見知らぬ女のおぞましい一言が過り……気が付けば、私は近所のスーパーに立ち寄っていた。

 あの謎の霊媒師っぽい人の言うことを全部信じたわけではないし、幽霊とご飯を食べれば良いというのもよく解らないが……そういえば、最近食べているの、インスタントとお惣菜だけだったな、などと思い当たる。

 一先ず、私は線路に落ちた衝撃でひびの入ったスマホを片手に、薄力粉と安売りの卵、無塩バターと出来合いのホイップクリーム、特売のキウイ、キッチンペーパーを買い物かごに押し込んだ。



 バターが溶けるより早く家路に付き、玄関に置いた捨て忘れた生ごみの袋を蹴りながらキッチンに直行する。

 久々にスイーツを食べるならば、食べたいメニューがあったのだ。

 ボウルなどないので、鍋に薄力粉を入れ、溶き卵と砂糖、塩、冷蔵庫に眠っていた賞味期限ぎりぎりの低脂肪牛乳を入れてダマに気を付けてかき混ぜ、炎天下で溶け始めているバターを加えて、ラップを被せて冷蔵庫へ。三十分たったら再度かき混ぜる。これが生地になる。フライパンに油を薄く、キッチンペーパーで塗り広げて、先ほどの記事を流し入れてこれまた薄く広げて焼く。ほんの十数秒で綺麗に焼けるので、これを何枚も焼いてく。出来上がった生地の粗熱が冷めるのを待ち、生地と生地の間にホイップクリームを挟んでいく。ホイップクリームを残しておくわけにもいかないので、これでもかと言わんばかりに挟み、全体を雑に覆うようにホイップクリームまみれにする。最後に上にキウイを切って乗せる。

 これで、ミルクレープの完成だ。

 決して、あの霊媒師らしい人の言うことを信じたわけではないが……そう、単純に私がミルクレープを、会社をサボって食べたかっただけのことで……そう私は自分に言い聞かせながらも、なんとなく、誰かに、何もない中空にわざとらしく話しかける。


「あ、いけなーい、作り過ぎたなぁ。二人分になっちゃったなぁ。誰か、食べてくれないかなぁ」


 もちろん、炎天下に火を使ったキッチンの蒸し暑さだけがそこに居る。ひんやりとした霊など居ない。はずだ。

 私は見えない何かに少し怯えながら、ミルクレープを口に運んだ。少し甘みが強いが牛乳感が足りない。おそらく、牛乳ではなく低脂肪乳を使ったのが原因かもしれない。低脂肪乳のが安いんだし、そこは許してほしい。

 だが、それを差し引いても、うまい。

 そういえば、一人暮らしをして会社勤めをしてから、小さなお菓子は食べていたがケーキ類、ホイップクリームを満足に頬張るようなことは無かったかもしれない。鼻に抜けるミルクの風味、プツプツとフォークで切れるミルクレープの触感と口の中での食感、暴力的な甘みの波。そうか、私に必要なのはこれであったか。などと思いながら自分の分を完食する。

 しかし、もう一人分は当然ながら手を付けられていない。部屋の中の静寂と対照的に、外では蝉が鳴いている。

 私は“もう一人”のために用意したミルクレープの乗った皿に手をかけた。次の瞬間、氷でできたかのような冷たい手が私の手首を掴んだ! ……様な気がした。見間違いでなければ、確かに誰かが「私の分まで食べるな」と言わんばかりに……

 私は頭を振ってトイレに半ば逃げ込んだ。


 五分ほどお手洗いに立てこもっただろうか。霊を恐れてお手洗いへ立てこもるとは我ながら悪手だったのではないかなどと思いながらお手洗いから這い出す。


「あのぅ……今日とか暑いんで……生クリームはちょっと。食べられ、ました? あ、現物は私が処理しても、良いですかね? もったいないですし」


 無論誰も答えない。ただ、なんとなく、背中の一部がずっと冷たかったのが引いた気がした。

 私は恐る恐る、炎天下の中、何故か制作時より冷えているミルクレープも美味しくいただいた。



 その後、駅のホームで男友達に電話をすることはなくなった。今では代わりに自作スイーツの本を読みながら電車を待っている。

 痴漢らしきナニカが、背中を触ったり押したりする存在の正体が、電話口の謎の女性の声が、男友達とのことで私に嫉妬する女性の霊であると件の霊媒師っぽい人は言っていたのもあって、なんとなくその男友達と電話するのは避けていた。後に知ることだが、風の噂でその男友達は五股が発覚し、誰とも連絡が取れなくなったとか。幽霊より人間が怖いって誰か言ってた気がする。

 件の霊はまだ私の周囲に居るのかわからないが、未だに私は週末には一人でスイーツを自作して食べている。その効果もあってか、もう私の背中を触るナニカは居なくなっていた。

 ……と思っていたのだが……

 乗り込んだ電車の車内。満員電車に揺られながら、私の足を“ぶつかった”と表現するにはべったりと触っている手がある。マジの痴漢だ。咄嗟に犯人を捜そうと周囲を見渡そうとするが満員電車では思ったように身動きが取れない。


「あの、座りますか?」


 ふと、私の近くの座席に居た男性が私に声をかけてきた。

 長いまつげに細い首と小さな顔、見事な塩顔でありながら小ぶりでかわいい鼻。中性的な、まさに芸能人でもおかしくないレベルのイケメンが、私に直接声をかけている! イケメンは自分の座っていた場所に私を座らせ、代わりに私を守る様に私の前に立った。もしや、行動までイケメンなの?

 そのイケメンが、ふと私の持っていた本を指さして微笑んだ。


「お好きですか? お菓子作り」

「え、あ、ええ。同居人、みたいな、女友達に作ってたらハマってしまって」


 私は苦笑いで対応した。嘘は言ってない。多分。

 どぎまぎする私に微笑みかけるように、イケメンは自身の鞄から私が持っている自作スイーツの本と同じ本を取り出して見せた。

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お化け飯 九十九 千尋 @tsukuhi

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