曇天の魚

@ninomaehajime

曇天の魚


 雲の中に魚が泳いでいた。

 いや、あれは鯨だったかもしれない。目で測ると山より大きく思えたからだ。

 濁った曇り空の中にはさまざまなものが泳いでいた。長い体をくねらせる百足、くちなわ、触手を伸ばす海月、蛸。例えようがない形の影もあり、地上の生き物とは似ても似つかなかった。

 たぶん雲の中に棲んでいるのだろう。共通するのはいずれも巨大で、曇りになった日にしか見えないことだ。

 母に言っても信じてもらえなかった。子供の戯言に聞こえたのだろう。うねる龍の腹の真下で、母は言った。

「はんかくせぇごど言うんでねえ」

 それ以来、誰かに空の影を教えるのを止めた。どうやらあれは私にしか見えず、空想に等しい存在らしい。手には届かないものだから、確かめようがなかった。

 雲が重く垂れこめた日のことだった。低く下りてきて、彼方に見える山の峰を覆っていた。そこへ例の影が泳いできた。わにが獲物の周りで回遊するように、山頂から離れなかった。

 次の日、騒ぎになった。雲に覆われていた山の頂上が抉れていたからだ。まるで何かが齧った跡だった。山が脆くなっていて崩れたのだと、村の大人たちは結論づけた。もちろん、私はそうは思わなかった。

 この地方は、春から夏にかけてヤマセという冷たい風が吹く。霧や小雨を伴い、しばしば農作物に冷害をもたらした。飢饉風とも呼ばれ、多くの餓死者を出したという。

 海の彼方からヤマセはやってくる。夜魔が来るから闇風ヤミセなのだと、母は言った。

 海女の端くれだった私は素潜りで雲丹うにを獲った。海面から顔を出すと、共に磯漁をしていた誰かが叫んだ。

「ヤマセが来っつぉ」

 沖の方角に見ると、空と海の境界が白く霞んでいた。霧雨を帯びた風が陸に向かって押し寄せてくる。その中で目の当たりにした。

 上空を泳いでいた大魚が、ヤマセが生み出す霧に紛れて降りてくるのを。きっともう、お互いに手が届かない存在ではない。

 ああ、夜魔が来る。私は霧の奔流に呑みこまれた。

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