吾輩と下僕。
夕藤さわな
第1話
吾輩は猫である。
名前はあるようだが覚えてはいない。
最近、吾輩の下僕が〝りもーとわーく〟とやらを始めた。
一日のほとんどを〝しょくば〟で過ごしていたときには知らなかったが……こやつ、水分補給も栄養補給もちょくちょく忘れる。
「うー……んーこれで……うぅ~んー………いける、か……?」
などと唸り声をあげ始めて早三時間。起床してからもほぼ三時間。
〝ぱそこん〟の前に座るときに持ってきた珈琲は一口も飲まないまま、すっかり冷め切ってしまった。前足を伸ばして珈琲茶碗にふれてみた吾輩はため息をついた。
起きがけに水の一杯、パンのひとかけでも口にしていれば吾輩もここまでの強硬手段を取ったりはしない。これも起きてから水の一杯もパンのひとかけも口にしていない下僕を思えばこそ。
なんて下僕想いな吾輩――。
香箱座りの体勢からむくりと起き上がると前足を右、左と伸ばし、最後に背中もぐいっと伸ばして珈琲茶碗の隣に腰を下ろした。下僕の顔をじーっと見つめる。下僕が吾輩の視線に気付くか気付かないかのところでちょいちょいと前足でつつき始める。
何を?
決まっている。
「あーーー! 待って! 待って待って待って、落とさないで! まだ入ってるから!」
珈琲茶碗を、である。
下僕の慌てふためいた様子に手を止める。ほっと息をつく下僕をじっと見つめたまま――。
「あーーー! 待って待って待って!!!」
再び前足でちょちょいのちょい。
もちろん珈琲茶碗を落として割るような真似を吾輩がするわけがない。
なぜならば――。
「あぁ、もう……わかったから。飲んで片付けちゃうから」
吾輩の目的は果たせたからである。
冷めきった珈琲を飲み干した下僕は珈琲茶碗の底をじっと見つめた。喉が渇いていることにか腹が空いていることにか、どうやらようやく思い至ったらしい。
「ちょっと早いけどお昼にしようかな。冷凍のパスタをチンして……コーヒーはミルクたっぷりで……」
などと言いながら炊事場へと向かう下僕を見送り、欠伸を一つ。下僕が〝りもーとわーく〟とやらに戻らぬよう、吾輩はどっかと座り込んだ。
どこに?
決まっている。
「エ、エリ……エリザベス、ダメ! 下りて? 保存がまだ……!」
〝きーぼーど〟とやらの上に、である。
戻ってくる下僕を見て吾輩は〝きーぼーど〟に爪を立ててしがみつく。水分補給と栄養補給が完了するまでは〝りもーとわーく〟には戻らせん。断固、下りん。
「エリザベーーース!!」
吾輩の心遣いに感動し、歓喜したのだろう。下僕は絶叫、のち、膝から崩れ落ちた。
床にひれ伏す下僕を見下ろし、満足した吾輩は左前足の毛繕いを始めた。もちろん〝きーぼーど〟とやらの上で。
水分補給と栄養補給が完了するまでは断固として〝りもーとわーく〟には戻らせんぞ。まったく。なんと世話の焼ける下僕。
なんと下僕想いな吾輩か。
吾輩と下僕。 夕藤さわな @sawana
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