第7話

 湯河原駅は過ぎたが、日が暮れて暗くなったため外の海を見ることはできなかった。夜を迎えた集落は基本真っ暗だが灯りがぽつりぽつりとともっているのが分かる。


「結婚するのはやめようと思う」


 膝の上、リュックサックの中で香箱座りをしているらしい海平に語りかける。


「あの男は捨てる。今の私に必要なのは別れを切り出す勇気だと判断した」

「マジか。なんでまたそうなった」

「一緒に暮らしたらどんどんあらが見えてくる気がするんだよね。今の私にはまだ見えてない粗が」

「そんなこと言ってたら一生結婚できなくねぇか」

「そうかもしれないけど、今回のあの男の場合は確実に本性を隠しているのが分かっちゃったからさ」


 最後に会った時別れ際に吐き捨てた言葉を反芻する。


「あいつね、言ったの。すごく気になることを」

「何て?」

「俺と暮らしたいなら猫は処分するよな、って。海平より自分の方が愛されてるって確信してる顔で」


 その言葉を口にしてから自分はそう感じていたのだということを知った。無意識では気づいていたのに言語化できていなかったらしい。


「猫アレルギーはつらいと思う。アレルギーって大変だよ、毎日のことだし、食べ物だと死ぬ人もいるし――だから私はアレルギーのことそんな軽いものだとは思ってない、我慢してほしいなんて絶対言わないよ。けど、生き物の命がかかっているということを理解した上で言ってほしかった。アレルギーの自分のためなら殺してくれると思い込んでるのはどうなの?」

「なるほどなあ」

「これが、猫アレルギーだから猫と一緒にいるのは難しい、ごめんね、だったら私ももうちょっと考えるよ。でも、当然処分するよな、俺のために、って。ちょっと、なくない?」

「そう言われると若干地雷臭すんなあ。将来子供ができた時とか不安になるさな」

「だよね? もし私がバツイチシンママだったら子供を施設に入れろとか言うタイプかもしれない。だからやめとく」


 海平にそう宣言したとたん心が軽くなった。たかだかこれだけのことで悩んでいたのかとすら思うようになった。家族になるかもしれない男のために家族である海平を殺すのかと――そうおびえて布団にくるまって震えて仕事までサボった自分が馬鹿みたいだ。


 私はどうやら家族に飢えていたようだ。母が死に、祖母も私が分からなくなり、父とも疎遠になって――友達は私の知らない男たちと新しい家庭を築き、子供を作って家族を増やして――私は孤独だったのだろう。だから焦って気の合わない男と家族になろうとしたのではないかと思う。


 沼津の生暖かい海風は私を出迎えて包み込んでくれる。私のふるさとは確かにあそこにあり、そして、あそこで生まれ育った海平は家族としていつも傍にいてくれるのだ。


 私は海辺で生まれた。海平は同じ海から生まれた家族だ。


「私には芯ってやつがないんだよね」


 海平を撫でるつもりで、リュックサックの上部分を撫でる。


「流れに流されてできることだけをやってきた結果今がある。だから何をしたいのか分からないんだよ。これが好き、あれが好き、っていうのがぜんぜん見えない。その場その場で何となく選んじゃって判断の軸がぶれぶれだよ」

「ほー、就活が終わって何年目の自己分析だよ」

「今のまんまじゃ柏にいたって沼津にいたってすることない。何かを選ばないと――それでもってそういう時、強いて自分の好きな方を意識して生きるんなら、沼津にいた方がいい。どっちでも一緒なら好きなところで好きなものを探した方がいい」


 そんな私を海平は笑わなかった。


「とりあえずまだしばらくは関東で働いてお金を貯めよう。それで情報収集をしよう。私、まだ二十代だし。三十五までに政治経済を勉強して、将来は沼津で事業を起こすか」

「社長になるのか?」

「何の事業をやるかもぜんぜん決まってないから分かんないけどね。でももしお店をやるんならあんたを看板猫として雇うからきっちり働いてよね」

「言ってくれるら。やってやろうじゃねぇか」

「さらに次の改元くらいまでは一緒にいられるでしょ」

「まあな、任せろ」


 電車が神奈川県を進んでいく。静岡県を離れていく。けれどもう怖くはない。きっとまたすぐに帰ってくる――そう確信していれば何も恐れることはない。


「――波平は幸せに暮らしたんかな」


 海平が呟くように言った。


「姉貴は大丈夫だっただろうけどな。俺は波平が満足して往生してくれたんならいいってずっと思ってた」


 私は笑って頷いた。


「じゃあ、波平くんみたいな境遇の子たちも幸せに暮らせる沼津を作ろう。どうせなら、外にいる子たちも。誰も港でウミネコと魚を奪い合わなくても生きていける沼津であれたらいいね」


 それきり海平は何も言わなかった。リュックサックの中で丸くなって眠ったようだった。私はそんな海平をリュックサックごと抱き締めた。


 電車が小田原に到着した。この時間にのぼり電車に乗る人は少ない。けれど寂しくはない。膝の上の猫が温かい。




<終わり>

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海で生まれた猫のお話 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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