第6話

 店の外に出てまず海平を抱え上げた。駐車場の真ん中でおすわりをして店内を見つめる猫はちょっと目立ちすぎる。私は海平の両脇に手を差し入れて抱えて駐車場の端に移動した。海平は下半身をふだんの倍くらいに伸ばしておとなしくしていた。


 店の出入り口からは死角になる辺り、ブロック塀の傍で海平を下ろした。そして私もその場にしゃがみ込んだ。


「早くない?」

「なかった」


 海平の金色の瞳が地面を見つめている。


「猫屋敷、なかった」


 なんと、海平の記憶の最初にあった家はすでに取り壊されていたのだ。


「なんで」

「俺が訊きてぇわ」

「訊いてきなよ」

「そんな都合よく事情を知ってる猫に会えるかよ。俺があの家を出てもう三十年だぞ? 五世代くらい軽く入れ替わってるっつーの」


 そういえば、野良猫は体を壊すのが早いので飼い猫に比べて寿命が短く五年くらいしか生きられないらしい。今時の飼い猫は十五年くらい生きるが――そして海平はこのたびめでたく三十路になるが――この辺をうろついて沼津港の魚をせびっている猫たちはそうもいかない。


「もうちょっと聞き込みしてもいいっちゃいいけどな、このままだと日が暮れちまう。いつまでもお前をここに置いとけねぇら」

「せっかくここまで来たのに……」


 車で来なかったことを後悔した。


「海平を連れて泊まりは無理だよ……柏に帰るよ」

「分かってる。お前は帰れ」


 私は顔をしかめた。


「何それ。どういう意味?」


 海平が顔を上げた。

 目と目が合った。


「俺をここに置いて、お前はひとりで柏に帰れ」


 何を言われているのか分からなかった。


 彼は何もかも予定どおりみたいに冷静な顔をしている。尻尾を揺らすことすらしない。行儀よく前足を揃えて、私をじっと見上げている。


「あんたを置いて帰る?」


 反芻するように繰り返す。


「俺は沼津で暮らす」


 海平が断言する。


 頭の中に雷が落ちたようなショックを受けた。


「ここでお別れってこと?」

「そうなるな」


 海平が左の前足を持ち上げた。私のタイツに包まれた右膝を撫でた。いつもは海平に触られると伝線が気になるところだったが、今日は気にならなかった。


「お前は、帰れ。ひとりで」

「なんで?」


 捨てられる、と思った。私は海平に捨てられてしまう。ひとりぼっちになってしまう。天涯孤独も同然だ。


 海平が私の生活からいなくなる。


 考えられなかった。


「沼津がいいの?」


 海平は「そうだな」というなんとも曖昧な返事をした。


「じゃあ私も沼津に残る」

「馬鹿言うな、仕事はどうすんだ」

「どうにかなるよ」

「ならなかったからお前はお袋さんを置いて柏に帰ったんじゃなかったのか」


 三年前のハローワークを思い出してしまった。


「でも、だからって」


 声が、震える。


「海平は沼津のどこに行くの? お父さんのところには行けないよ」

「分かってる。この辺で暮らす」

「この辺でって、我入道で?」

「そう。食べるものはいっぱいあるから何とかなるべ」

「そんなこと言ったってあんた三十年間ずっと人間と暮らしてたじゃない、いまさら野良暮らしなんて体壊すよ」

「そりゃあ天命ってやつだら。俺はもう平成を生き切ったんだ、何があっても悔いはないと思うさ」


 視界がぼやけた。


 腕を伸ばして海平を抱き締めた。こうしてみると海平が小さく感じる。少し何かあっただけですぐ失われてしまう小さな命のように思う。


「お前は帰れ」


 海平が耳元で優しく囁く。


「俺のことなら心配すんな」

「でも――」

「俺がいなくなりゃお前はあの猫アレルギーの男と結婚できんだら」


 私は目を丸くした。


 この前家に連れてきた、くしゃみが止まらなくて困っていたあの男のことを言っているのだ。


「いくら掃除しても無理なもんは無理なんだら。俺がいる限りお前は引っ越しも結婚もできない」

「そんなことないよ」

「俺は猫だから縄張りに誰もいなくたっていいさ。けどお前は違うら。人間だら。家族が必要だら」


 彼は優しい声で言う。


「違うよ海平」


 潰してしまうくらいの力で彼を抱き締める。


「海平が家族なんだよ。私にとっては、海平が唯一の家族なんだよ」


 次から次へと涙が溢れる。

 海平の白い毛は私の涙を弾いた。


「次の元号も一緒に生きようよ海平」


 猫は心に住み着いてしまうのだ。


「もう猫なしの生活なんて考えられないよ」

「バカ」

「海平がいなくなったって私次に新しい猫飼うからね」

「意味ねぇ」

「だって――」


 小学校に上がった時も、中学校に上がった時も、高校に上がった時も、猫がいた。

 上司に怒られて悲しかった日も、友達が結婚して寂しかった日も、彼氏と喧嘩をして悔しかった日も、猫がいた。


 猫は私にとって故郷の象徴で帰るべき場所だ。つまり、猫とは海なのだ。


 海平とは、そういう付き合いをしてきたのだ。


「とにかく今日はだめ。泊まるところないから柏に帰るよ」


 言いながらリュックサックのチャックを開けた。海平が「おい」と騒いで身をよじったが強引に突っ込んでチャックを閉めた。


 リュックサックを背負う。五キロ分の重みを感じる。


「八間道路に出ればバスあるから。バス乗って駅行こう」

「ちょっと待て、話は終わってねぇぞ」

「もう話したくな――」


 頬を拭いながら、「ううん」と笑った。


「ありがとう、海平」


 海平が黙った。


「私が決められなかったから、今日、海平は私を沼津に連れてきてくれたんだね」


 仕事をサボって布団にくるまってひとりで震えていた私を、海平は海に連れてきてくれたのだ。


「電車の中で、ゆっくり話そう」



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