第5話
我入道という地域は根っからの地元住民ばかりで、特に代々水産業に携わっている人々が集中して住んでいる住宅地だ。とても静かなところで、平日の昼間の今は人間が歩いていない。
猫は歩いている。
路地を駆け抜ける猫たちは野良猫か地域猫か外猫か。キジトラ模様の――海平いわく――彼女は、私と海平を見るや否や一目散に逃げてしまった。
「お友達はたくさんいそうだね」
「お前は猫が縄張り意識の強い生き物だってことを知らねぇようだな」
リュックサックを地面に下ろした。五キロの海平を背負って港からここまで歩くのは大変だった。肩が凝る。解放感に任せて「はー!」と大きな声を上げた。
チャックを開ける。海平が顔を出す。それから前足。すぐにぴょんと跳ねて地面に降り立った。たくましい体躯は先ほどの彼女より強そうに見えるかもしれない。動物園やテレビで見るライオンやトラと海平は似ている。
「散策してくる。お前も飯を食ってこい」
海平が言う。私は素直に「うん」と頷く。
右を見上げる。
そこにあるのは巨大な倉庫――に見える店舗だった。四角い灰色の建物は一見しただけではまさか中身はカフェの併設されたインテリア雑貨ショップだとは思うまい。我入道で唯一にしてこの辺りではもっとも有名なパンケーキを食べられる店だった。
私と海平は駐車場の真ん中で店を見上げていた。
「のんびり待ってるからあんたものんびりしてきて。生まれ故郷でしょ」
「おう。猫屋敷の場所はおぼえてる。日が暮れる前に戻ってくる、この店の前に戻ってくるから、お前こそ迷子にならねぇよううろうろすんなよ」
海平は私のことをまだおばあちゃんの家で泣いていた少女だと思っているのかもしれない。
私は笑って「あんたこそ」と答えた。
この店のパンケーキは薄い。本当にパンケーキと呼ぶべきなのかちょっと不安になるくらい独特の形状をしている。フライパン状の薄い石で丸く平らに焼かれたパンケーキはもちもちとしておいしい。パンケーキというより分厚いクレープといった感じだ。
ダッチベイビーというメニュー名のこのパンケーキ、店長が輸入雑貨を求めてアメリカに滞在していた頃にドイツ系のオーナーが経営するカフェで食べて感銘を受け日本でも広めようと思ってここで焼き始めたものらしい。
どうしてそんな経緯を知っているのかというと、ここに仕事の面接に来たことがあるからだ。
たまたまハローワークに求人が出ていたので、これ幸いと飛びついて面接の約束をした。私は自分が沼津で一等おしゃれだと思っているこのカフェで働いてみたかったのだ。店長とお会いしておいしいコーヒーをいただきながら一時間ほど雑談した。気持ち良く話して温かい気持ちで帰宅した。ほどなく不採用の連絡が来た。
私が今勤めている会社には決まった夏休みがない。現場作業員が交代制で休みを取っているので、オフィス勤めの私たちも彼らにあわせて各部署話し合って連休にすることと定められていた。だいたい偉い人から順番に都合のいい週を押さえていくため、入社してからかれこれ五年、私は毎年八月末というお盆でもなければ学生の夏休みは終わっておらず旅行代は安くなっていない半端な時期に休まされている。
三年前の夏休み、私は沼津のハローワークにいた。母ががんで倒れたのをきっかけに沼津へ帰ろうと決意したのだ。そうでなくとも都会での暮らしに息苦しさを感じていた。関東平野は風が吹かない、海も見えない、通勤電車はいつも満員だ。だから母の病は言い訳に過ぎなかったのだが、私が転職活動をしていることに気づいた母が「私のために仕事を辞めるのはやめて」と言い出したので、何となく気まずくなって関東に帰ってしまった。母にも拒まれこのカフェにも拒まれた私はすぐ南柏と新御茶ノ水を往復する人生に戻った。
母はそれからすぐあっけなく死んだ。乳がんで、乳房ごと腫瘍を切除すれば済む話だと軽く考えていたが、時すでに遅し、彼女は五十代の若さで帰らぬ人となった。
あとには海平が遺された。
海平は私が物心つく前から父方の祖母の家にいた。母と海平が「あんたが生まれる前からいた」と言っているのでたぶん本当に平成が始まったばかりの頃に生まれたのだと思う。
その祖母が認知症になって介護施設に入ることが決まった時、香貫のおんぼろ屋敷は取り壊され、海平は
ところが母は死んでしまった。
父は母が死んですぐ再婚した。
新しくやってきた奥さんは猫アレルギーだった。
母親や前妻との思い出の猫より若く新しい妻を選んだ父を、私は責める気にはならない。あのひとは誰かがいないとだめなひとなのだと思う。いつまでも母親に忘れられたことや前妻に先立たれたことを引きずって暗い顔をされるくらいならとっとと新しい家庭を築いて明るくやっていてほしかった。ただ、何となく悲しかった。もう一緒に暮らす日は来ないだろう、そう確信した。父とは二年ほど顔を合わせていない。
さて、猫アレルギーの後妻に追い出された海平ははたして私のところに回ってきた。住んでいるアパートの大家さんの厚意でそのまま一緒に暮らせることになった。私はむしろ安堵の気持ちで父の車で南柏に運ばれてきた海平を迎えた。
ほんの二年で海平は私の生活に溶け込んだ。
よく喋る同居者との暮らしは楽しい。まして彼とは祖母や母の記憶を共有している。それに何より猫は臭くない。悲しいことがあっても海平を抱いていれば心が静まった――重いけど。
いつまで一緒にいられるのだろう。
私が大学に入る頃には「ハンスももう長くないから」と言っていた母の方が先に死んで、あれから十年、彼は平成の終わりを迎えようとしている。
何となく、彼は難なく次の改元を乗り越え、さらに次の改元も乗り越え、そのまた次の改元も乗り越える気がする。どちらかといえば、私がこの先の人生であと改元を迎えられるか、の方が深刻の気がする。そしてその時はどこで誰と一緒にいるのだろう。
店内のほかの客が騒ぎ出した。主婦だろうか、中年の女性二人組が扉の方を見て何やら盛り上がっている。
「入りたいのかな? こっち見てるよ。可愛い」
「誰か開けてあげたらいいのに」
「さすがに飲食店にはまずいでしょ」
見るとガラスの向こう側に白黒ぶちの大きな猫の姿が見えた。海平だ。行儀よく座っている。
もう帰ってきてしまった。
私は慌ててコートをひっつかんだ。急いで会計を済ませて店の外に出た。
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