第4話

 バスを降りて、展望台に向かって歩き始めた。


 辺りを包む空気は湿気ている上に海の香りが濃い。潮の爽やかな香り、ではない。腐った魚の生臭いにおいだ。体に染みついて取れなくなったら嫌だと思ってしまうにおいで、あまり気分のいいものではない。だがそれが港というものだ。


 それにしても、予想以上の人だった。道路の両脇を常に誰かが歩いている。駐車できるラインの内側には車がみっちりと止まっていた。ほとんどが他府県ナンバーだ。そういえばいつだったかみんな東名高速道路なり国道一号線なりでドライブに来ると聞いた。


「意外と人多いね」

「今日って休日だったっけか?」

「平日のはずなんだけどな……」


 向かって左側が家族連れやカップルでにぎわっていた。ちょっと変わった水族館があるのだ。その名も沼津港深海水族館という。開館を報じられた当初はいつまでもつのかと思っていたが、気がついたら日本屈指の名水族館に成長していた。年がら年中集客できているらしい。


 沼津の海――駿河湾は最深部が二〇〇〇メートルに達する、日本でもっとも深い湾だ。普通の漁でもしょっちゅう深海魚が網に引っかかる。その延長線上で水産会社がその辺で獲れた深海魚を転じている。


 しかしこの水産会社が民間団体であるだけあって経営手腕がうまい。メディアとコラボし、変わったグッズを売り出す。


 一回だけ入ったことがある。想像以上に立派なテーマパークだった。とにかく深海の概念が崩壊する。水深数百メートルが浅く感じられるようになるのである。


 水族館の周りの飲食店にも長蛇の列ができていた。たいがい寿司屋か海鮮丼屋だが、きっと何らかの観光マップに掲載されているに違いない、すべて観光地料金である。


 観光客を掻き分けて奥へ奥へと歩いていく。


 狩野川の河口と駿河湾の融合する地点、設けられた堤防の上まで来た。


 堤防の上にリュックサックを下ろして、リュックサックの上部のチャックを開ける。


 海平が顔を出した。


 傍を歩いていた幼子が海平を指して「ねこだー」と言う。愛想のない海平は反応せず、リュックサックの中に座ったまま、黙って海の方を見つめた。


 白黒の後頭部を眺める。牛のような柄をしている。右目の周りだけ黒い毛であとは白い。背中にも黒い部分がある、ぶち模様である。


 頭上をとんびが旋回する。


 海平が下りてこようとしたとんびに向かって威嚇の声を上げた。とんびはすぐさまふたたび飛び上がった。海平は動物として結構強いのかもしれない。ずっと祖母の家でぬくぬくと育てられてだらしないおじさんになったと思い込んでいたが、五キロのオス猫は強いものかもしれない。


「なつかしい?」


 祖母に海平は沼津港で生まれた猫だと聞いていた。彼にとってここは生まれ故郷だ。


「そうだな」


 海平は少し考えた様子だ。


 頭を少し左の方へ向けた。海ではなく、河口の方だ。


 河の対岸には小さな水産企業が集まる地域の集落が見える。


「あそこ、見えるか? ほこらみたいなもんあるら」


 言われてみて気づいた。沼津港に来るのは初めてではないのに、海平に言われるまでそのほこらがあることを知らなかった。


「ありゃ寺だ」

「お寺?」

「俺はあそこの境内で生まれたんだわ」


 初めて聞く話だった。


「っつっても、俺も赤ん坊だったからそんなにはっきり覚えてるわけじゃない。母親の顔も忘れたし、兄弟が全部で何匹いたのかも思い出せない」


 驚いて海平の顔を見た。


 海平はまっすぐ寺の方を見ていた。


「気がついたら、人間に拾われて、人間にミルクを貰ってた。たぶん生まれてすぐ拾われたんだな」

「そうだったの……」

「拾われた時俺のきょうだいは三匹だった。何匹かのうちの三匹なのか、最初から三匹だったのか――知らねぇが、とりあえず俺の記憶にあるのは三匹だ。俺よりちょっと大きいのがメス、俺よりちょっと小さいのがオス」


 語りながら目を細める。


「人間たちは、便宜上、俺より大きいメスを姉、小さいオスを弟、ということにしていた。正確な順番なんざ思い出せないんで俺もそう呼ぶことにする。そこの人間たちが仮に呼んでいた名前が、姉貴がフネ、俺が海平、弟が波平なみへい

「あんたの海平ってそこから来てたの?」


 祖母は海平をハンスと呼んでいた。祖母の好きだった漫画ベルサイユのばらに出てくるフェルゼンというキャラクターのファーストネームだ。しかし海平の顔は純日本猫である。それもだいぶ目つきが悪くていかつい。とてもではないがそんな洋風のおしゃれな名前は似合わない。本人――本猫? もそれを自覚していたようで、ハンスと呼ばれることを恥ずかしがって「ハンスはやめろ、海平と呼んでくれ」と主張し続けていた。


「俺たちを拾った人間はとんでもない猫屋敷の主だった。そこに保護団体とやらが入ってきて、健康な猫、特に子猫は里親に出そうと躍起になっていた」


 つい最近ネットニュースで見た多頭飼いの飼育崩壊の文字が脳裏をよぎっていった。


「姉貴は真っ白な体で顔にだけ黒いぶちのある柄だった。こいつはすぐに貰い手がついた。健康で元気がいいのと、メス猫ってだけで扱いやすいっつー考え方があるらしいのとで、結構人気だったんだな。ま、何事も元気が一番ってことだ。どこの誰に貰われていったのかは知らねぇが、あの甘ったれのおてんばなら可愛がられて天寿をまっとうしたと思うだよ」

「あんたはすぐおばあちゃんと出会ったの?」

「ああ。俺も姉貴が貰われてすぐお前のばあさんに引き取られたさ。お前のばあさんは前に飼ってた猫が死んで――なんかあのばあさん常に猫飼ってたんか? 俺で何代目っつってたかな、まあとにかく猫慣れしたばあさんだった」

「私が生まれる前のことだからちょっと分かんないけど、お父さん確かにこどもの頃からずっと猫がいたって言ってたから、そうだと思う」


 そこで海平はちょっとだけ間を置いた。


「弟がなあ」


 遠く寺の方を見る。


「ちっさくてなー……。医者にこいつは長生きしないだろうと言われたさ」


 遠い目をしたまま「可愛い顔してたんだけどな」と呟く。


「白黒はちわれの美少年だった。俺と姉貴みたいなぶちとはちょっと違ってな。黒い尻尾も長くてまっすぐで綺麗だった」


 リュックサックごと海平を抱き締めた。


「弟が、心配?」

「あいつはあの猫屋敷で死んだのかなって思うとな、切ねぇだよ」

「弟は貰われていかなかったんだ?」

「知らねぇ。弟の貰い手が決まる前に俺がばあさんに引き取られちまった。里親譲渡会には出してもらえなかったさ」


 ぽそりぽそりと呟くように語る。


「別れた時、弟は俺の半分くらいしか体重がなかったさ。やっぱ、そんな健康じゃない猫、素人に譲るわけにゃあいかねぇだら。それは、獣医としても団体としてもしょうがねぇべ。ペットなんだからよ。好き好んで体の弱い猫を引き取る奴はいねぇだよ」


 何と言ったらいいのか分からなくて、私は海平の横っ面に頬を寄せた。猫である海平は人間である私より少し体温が高くて温かい。


「考えてもしょうがないけどな。天寿をまっとうしたとしてももう三十だべ? 俺が生まれた年にベルリンの壁の崩壊だ。普通の猫だった弟は多少長生きしたとしても死んでるだよ」

「そうだった……あんた私よりおっさんなんだった」


 平成を駆け抜けた猫海平は次の元号に突入しようとしている。私はそれに何の疑問もない。海平は私とともに次の時代を生きるのだ。


「――行きたい?」


 海平が初めて振り向いた。


「あの辺って我入道がにゅうどうだよね。我入道、ちょっと行ってみる?」


 我入道という地域はとにかく猫が多い。行けば何らかの情報が得られるのではないかと思った。


「猫屋敷がどうなってるのかとかさ。確認してみようか」


 海平はちょっと考えたようだった。即答しなかった。


「お前がいいんなら」


 ややしてそう答えた。


「じゃ、行こう」


 私は海平をリュックサックの中に押し戻した。


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