第3話
強い風が吹く。海から山へと吹き上がる風だ。だがさほど冷たいとは感じられない。強くて痛いが温かい。関東平野よりもここは空気が生ぬるかった。
これだ、この空気、この風だ。
私は沼津に帰ってきたのだ。
改札口を出るとまばらではあるがそこそこの人がいて私はだいぶ安心した。でもこのうちどれくらいが沼津に用事があるのだろう。これから電車に乗って三島や静岡に行くのではなく?
そんなうがった見方をしてしまうほど沼津駅には何もない。駅の周りの商業施設は成功している感じではない。左手に見えるビルのファミリーレストランは南柏駅にあったものと同じだ。大昔は目の前に西武沼津があったが今はない。
西武沼津――私が大学生の時に閉店してあっと言う間に取り壊されてしまった。今は地元の飲食店やカラオケボックスを経営する企業に買収されてイベント会場のようになっている。
平らなスペースにテントを張っただけの会場には最近放映されていたアニメのキャラクターのパネルが並んでいた。確か沼津の南のほうにある集落に住まう少女たちがアイドル活動をするアニメらしい。正月の深夜何となく眠れなくてテレビをつけたら偶然最終回だったので見た。とりあえず可愛い女の子たちが想像以上に沼津そのままの舞台で歌って踊っていたことだけは分かった。
正月なのにテレビの中は春で彼女たちは卒業式を迎えていた。私はそれに自分が高校を卒業した時を重ねて思わず泣いてしまった。ストーリーが分からなくても、とりあえず、卒業、という言葉に弱いのだ。
高校三年間は私にとって人生で一番輝いていた時代だと思っている。毎日特に何もなかったけど楽しくて学校に行けること自体が幸せだった。勉強はあまり頑張らなかったが部活動だけは励んだ。陸上部だった――短距離の選手だった。顔は真っ黒に日焼けしているのにソックスの下は白いのが少しコンプレックスだった。校則が緩かった私の母校ではみんな好きな柄に好きな形状の靴下をはくのが当たり前で、私はいつもしまむらで買ったギンガムチェックのくるぶしソックスをはいていた。
あの頃つるんでいた仲間たちとは今も連絡を取り合っている。けれどなかなか会えない。高校を出たあとみんなそれぞれ進学した。ある子は東京で就職し、ある子は静岡――この場合は静岡県でなく静岡市のこと――で就職した。つまりみんなばらばらの土地で職をもっていて忙しい。私自身もそうだ。私は千葉県柏市に住んでいて毎日二十二時までよく働いている。
今日も誰とも会えない。唯一沼津に残った友達は勤め先の市役所で出会った男と結婚してただ今妊娠九ヶ月だ。お腹の大きな妊婦にこの寒空の下急に沼津へ帰ってきたから今から会えないかなんて言えると思う? 産休は遊ぶためにあるのではない。
今もあの頃もずっと私の傍にいてくれているのは海平だけだ――そう思うと、私は世界に海平と二人きりになってしまったような気がしてくる。
「海平、沼津ついたよ」
背中のリュックサックの中海平が「おう」と答えた。
「これからどこ行く?」
「沼津港行くべ」
私は反対しなかった。猫を連れて入れるところなどない。港なら基本的に屋外だ。海を見られるのもいい――柏には海がない。
「でも、どうやって?」
「歩け」
「えっ、ここから? 歩いたことない。どれくらいかかるんだろ」
春物の薄いコートのポケットからスマートフォンを取り出した。グーグルマップに沼津駅、沼津港と入力して検索してみれば出てきたのは2.8キロメートルだ。
「五キロの猫背負って三十分以上歩くのはちょっと」
高校生の時だったら歩いた、というのは呑み込んだ。あの頃はリュックサックに辞書を入れても三十分以上歩いた。基本的には自転車での移動だったが、バス通学の子に付き合って
「いい若い者が何言ってんだか」
「あんたはずっと私に背負われてるだけだからいいよね」
駅から離れ、バスターミナルへ進んだ。沼津港くらいまでならバスがあるのではないかと思った。駅の北に行くバスは少ないが駅の南に行くバスは多い。伊豆箱根バスは頑張っている。
沼津港行きのバスが来るバス停に辿り着く。時刻表を覗き込む。一時間に三本から四本。地方にしては上出来だ。どこに行くのでもこれくらいの本数があれば車を買わずに済むのにと思う。
「バスに乗んのか」
「そうだよ。十分くらいだと思う」
「俺バス乗っていいんか」
はっとした。
すぐにバスがやって来た。発車まではまだ時間があるがしばらくここで停車して乗客を集めるのだ。
私は慌ててバスに乗り込んで運転手さんに訊ねた。
「バスって猫まずいですか」
白髪交じりの壮年の男性運転手が「猫いるんですか」と逆に問うてきた。私は目線で自分の背中を示して「中入ってます」と告げた。
「出さないでくれるなら大丈夫ですよ」
ほっとした。
ステップを上がりつつ「運賃はいくらですか」と訊いてみた。運転手さんは「手荷物はタダです」と答えた。
二人掛けの席についてからリュックサックを下ろした。窓際の座席に置く。今のところはガラガラだ、ひとが来たら膝の上に載せればいいだろう。
「俺はここでも手荷物扱いか」
海平が小声で言う。私は「よかったね」と笑う。
発車まで十分弱停車していたが結局乗り込んできた客は五人くらいだった。私の隣に人が来ることはなく、海平は一人分の座席を占拠したまま沼津港まで移動した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます