第2話

 東海道線に乗る時私は必ず東京駅を選ぶ。山手線で乗り換えるなら品川駅の方が駅構内での移動距離が短くて分かりやすいのだが、私は断然東京駅派だ。なぜなら始発だからだ。あえて一本か二本ホームで見送れば絶対に座ることができる。


 東京発の東海道線は種類がいくつかあって、とても運がいいと沼津まで一本で行けることもある。でもだいたいは小田原か熱海で止まってしまう。熱海まではJR東日本、熱海より西はJR東海の管轄だ。その辺を考えるとむしろなぜ沼津行きがあるのかが不思議だ。


 私が今日乗ったのは熱海行きの快速アクティーだった。


 アクティーはおかしな快速電車であいだたった四駅しか飛ばさない。所要時間で言うと、東京駅から熱海駅までのおよそ百二十分のうち、十分くらいしか短縮されない気がする。先行する普通電車より早く先の駅につくという話は聞いたことがない。どちらに乗っても同じの気がするのだ。それでもひとは快速という言葉に惹かれる。車中はぎゅうぎゅうの寿司詰め状態だった。


 それが横浜を過ぎたあたりから空き始め、藤沢や平塚のあたりで座れるようになり、小田原を通過するとまさに閑散だった。


「海平、海平」


 膝の上で抱えていたリュックサックの脇、メッシュ部分を叩く。中で海平がもぞもぞと動き出した。


「ついたか?」

「小田原にね」

「三島あたりでまた教えてくれ、俺はもうちょい寝る」

「図々しい奴だな、話し相手になりなよ」

「お前、傍から見るとリュックに話し掛ける変な奴になってんぞ」


 思わずあたりを見回してしまった。


 左右にひとり分の空席を置いてひとが座っている。二人とも知らん顔をしてスマートフォンをいじっている。


 小田原を過ぎると電車は山の中に突入する。この区間、なんと今時電波が入らない。スマートフォンをいじっても何もできないのだ。左右の彼らはいったい何をしているのだろう?


 向かい側の座席の上、大きくとられた窓を見た。


 日が高くなった快晴の日、窓の外には海が見える。青い海は静かにきらきらと輝いている。海は心と目を和ませる。


 心が安らぐ――やはり私は海辺で育ったのだということを思い知らされる。私はこの太平洋にはぐくまれた女だ。


「ほら、海平。海が見えてきたよ」

「見えねぇよ」


 海平はリュックサックから出られないのだ。猫を入れるための特別な形状をしたリュックサックで、外から猫の顔を見られるようサイドのメッシュ部分が大きくとられているけど、中の猫がそこから飼い主とその周辺しか見られないことに変わりはない。


 中で海平が体勢を入れ替えているらしい。膝の上に海平の足を感じる。五キロもの体重を支える彼の小さな足は力強くて重くピンポイントに圧力を感じられてツボを押されている気分だ。


 左隣の人がくしゃみをし出した。最初の一回は気にならなかったが、二回、三回と続くと私は心配になってきた。


 左隣の人――比較的若い、私とそう変わらないと思われる男の人だ。


 スマートフォンから目を離して、私の方を見た。


 正確には、私の膝の上、リュックサックを、だ。


「ひょっとして動物入ってます?」


 その言葉にはありありと嫌悪が浮かんでいた。


「すみません、猫入ってます」

「そうすか」


 そう言うと彼は立ち上がった。そそくさと別の車両に移っていってしまった。


「……猫アレルギーだったのかな」


 呟くと、海平が「だら、可哀想にな」と応じた。


「最近猫アレルギーの人多くない?」

「別に増えちゃいねぇだら、室内で猫飼うの流行ってっから目立つんだら」

「この間だって、うちに来たあのひとさあ――」

「ありゃお前が掃除しねぇのが悪ぃだよ」

「そんなことないよ、いくらしても無駄なんだよ」


 いつだかネットニュースで見た記事のことを思い出す。


「猫アレルギーって猫の唾液に含まれるたんぱく質が原因なんだって。猫が毛づくろいする時に毛にその特殊なたんぱく質が付着してアレルギー源になるって。だから、猫だけが他のペットと違ってヒトのアレルギーになるんだって」

「へえ」


 海平は興味がなさそうだ。


 トンネルの中に入った。外は暗くなったが車内は電灯がついていて不自然に明るい。


 真っ黒な窓に自分の顔が映る。


 適当なブラウンの髪は毛先だけ肩あたりで適当に巻いてある。化粧もドラッグストアで買ったいわゆるプチプラブランドで適当だ。目は天然の二重だけど切れ長でキツい目つきと言われがち――そのほかには何の特徴もない、なんだかくたびれたどこにでもいるアラサーの女だ。


 妙に白く見えるのは反射の加減のせいだろうか。それとも、日焼けをしなくなって肌が白くなったのだろうか――何のことはない日中はオフィスから出られないので太陽光を浴びられないのだ。


 高校時代は、部活も外で、通学も自転車で、いくら日焼け止めを塗っても日焼けをしたものだ。沼津を照らす太陽は残酷で年がら年中ぎんぎんに照って地上を焼き尽くしている。それでも都会のヒートアイランドの方が暑いから東京は怖いところだ。


「こんなふうに迷惑かけるんじゃやっぱり車を借りた方がよかったかなあ」

「お前の運転が怖ぇだよな。お前の運転で首都高とか、ある?」

「まあ、そうかも。東名乗れればあとはいいんだけど、東名に辿り着くまでが恐怖だよね」

「お前が免許取ったのいつだったっけな」

「大学四年生の時だよ。――ということは、卒業旅行で沖縄に行った時にレンタカーを借りたのが最後、かれこれ五、六年は運転をしてないということに――そうだね、やっぱり電車でよかったんだよ」


 真鶴まなづるについた。私たちのいる車両からは誰も下りない。停まるからにはいつかは誰かは下りるのだろう。


 海が見える。


 真鶴の海をふるさとにしているひとびともこの世の中にはいるのだろう。


 よその湾を見てここも太平洋だと安心する私がいる。どこの海も誰かのふるさとなのだ。


 電車が走り出した。


 静岡県まで、あと少し。


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