海で生まれた猫のお話
日崎アユム/丹羽夏子
第1話
背中の荷物が重くてしんどい。ダンボールに詰めて宅配便で送ることができればどれほど楽なことだろう。だが生き物を宅配便で送ることはできない。
いや、正確に言えば、できないこともない。受け付けている業者はある。ただホームページ上の自動計算ページで見積もりを取ると四万円くらいする。たぶん引っ越しや遠方の譲渡を想定しているのだと思う。今日はちょっと出掛けるだけのつもりだ。ちょっとしたお出掛けに四万円もかけられるほど私は稼いでいない。
ありがたく思わないといけない。
待てよ。そもそも海平が沼津に帰るなんて言い出さなかったら私はこんな苦労をしなくてもよかったはずだ。私は海平のせいで苦行を強いられているのだ。
閑散とした南柏駅、改札の有人窓口で駅員さんに声を掛ける。
「すみません」
若い駅員さんが――それこそ私より年下かもしれない、新人くんかな? どこかまだ幼い顔立ちの青年が顔を出す。
「猫って手荷物運賃ですよね? いくらですか?」
「猫ですか?」
「猫です」
背負っているリュックサック型のキャリーバッグの方を見た。海平は空気の読める猫なのでタイミングよくバッグの中で「にゃあ」と鳴いてみせた。駅員くんが驚いた顔で「あっ、リュックに入ってるんですか」と呟いた。
「二八〇円です」
小銭で払うと見たこともない紙を差し出された。普通手回り品切符と書かれている。手荷物運賃を支払った証明書だ。名刺くらいのサイズの紙は薄っぺらで気をつけないとどこかにやってしまいそうだった。切符と一緒に財布へ入れた。南柏から沼津までは普通電車でおよそ三時間、乗り換えの回数は実に四回に及ぶ。なくさない自信はなかった。
改札を通り、階段を下り始めると、海平が話し掛けてきた。
「よかったな、二八〇円で。お前の電車賃もせいぜい三〇〇〇円くらいだら? レンタカー借りて高速も払ってってしたら軽く一〇〇〇〇円くらい飛ぶら」
私は小声で答えた。
「そもそもあんたが沼津に行くって言い出さなかったら私は家に引きこもってゼロ円の日を過ごしてたんだけどね」
「そう冷てぇこと言うなよ」
南柏駅は本当にひとが少ない。私がリュックサックの中の猫と喋っていても気づく人間はいない。
ホームに降りると駅の東口の様子が見えた。カラフルな巨大看板の商業施設がバスターミナルを囲んでいる。
生活に必要な店はだいたい駅前に固まっている。便利といえば便利だ。けれど一歩駅を離れると全部住宅で店らしい店はない。これが本物のベッドタウンというやつである。けして田舎ではない、人口過密地帯ではあるけど、平日の中途半端な時間にはひとがいない。
私はこの町が嫌いではない。平らな町、静かな町、柏市の郊外。この町に住み始めて五年が過ぎたが、会社の帰りでも食品や日用品は駅前ですべて揃うし、ひと駅東に行けば大都市柏駅で優雅な休日を過ごせる。特に文句はない。
だが海平は言う。
「風がねぇな」
そう、そうなのだ。千葉県北西部は風が吹かない。それは優しいことなのだけど私には何となく違和感がある。駅というのはホームにいると吹きすさぶ風と這い寄る湿度で立っているのがしんどくなるものなのだ。
どうもおさまりが悪い。ここはずっと住み続ける場所でない気がしている。
電車が来た。常磐線各駅停車、途中の綾瀬で東京メトロ千代田線と接続するので代々木上原行きだ。千代田線の緑の電車はそこそこひとが乗っている。
「静かにしててね」
「お前がな」
海平が「小田原辺りで起こせ」と言った。小田原――はるかかなた向こうの駅のように感じられた。これからまず松戸で常磐線快速に乗り換え、上野で山手線に乗り換え、東京駅で東海道線に乗り換える。平日の出勤ラッシュが終わったあとの時間帯だが日本トップクラスにひとが利用する路線だ。上野駅と東京駅の大きさといえば言わずもがなである。
「あんたを背負って都内をうろうろしなきゃいけないなんてさ……私の苦労をちょっとは考えてよ」
「悪ぃな、お前には感謝してる」
「すごい棒読みだね、感謝の気持ちをまったく感じないんですけど」
「俺の写真を撮ってアップしていいね稼いでんだろ、お前こそ恩返ししろよ」
それを言われると反論できない。猫は有史以来最強のコンテンツだ。別にSNS映えするから海平と暮らしているわけではない。だいたい海平はSNS映えするルックスの猫ではない、どこにでもいる何の変哲もない日本猫、白黒のぶちは特に整った模様ではない。私はむしろ彼のだらしない寝姿や凶暴な牙をネタにしている。世の中のすべての猫が綺麗で可愛いとは限らないのだ。しかしネタを提供してくれていることに変わりはない。海平の写真をアップするたびたくさんのいいねが飛んできて私の承認欲求は満たされる。
溜息をつきながら電車に乗った。
とりあえず松戸駅までのんびり各駅停車、何もないところをおよそ十五分の道のりだ。
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