OVER DOSER

蘇芳ぽかり

Tyrannosaurus Rex






[…………リク。ニュースを、見たか]



 留守録に吹き込まれた親友の声が、息遣いが、まるで知らない人のもののようだった。気遣うように声を低く落としているが、端々に滲む荒い呼気から、カイがひどく興奮しているのを感じた。

 膝を抱えてうずくまったまま、いつの間にか眠っていたらしい。頭上の締め切ったカーテン越しに、部屋にぼんやりと仄暗い光が差している。もう朝が来たのだ。信じられない。

 朝なんてずっと来ないと思っていた。

 ふとそれを意識して、それと同時に昨日までの記憶が蘇り、スマホを持つ手が震え出した。音もなく。止めようとすればするほどに輪郭までもが頼りなくぶれていくようで、思うようにならない。……ニュース?

 留守録が残された時間を見れば、今から1時間ほど前のようだった。カイは、何を思って1人、携帯に向かってこれを喋っただろう。

[あのさ。あいつが……✕✕が]

 その名を聞いただけで、おれの鼓動は速くなる。あいつが、何、と録音された音声に向かって唇を動かさずに問いかけた。誰にも届かない声。どっどっどっ……という音が心臓からではなくて、耳元で鳴っているかのようにうるさい。

 まるで永遠のような一瞬の間の後、カイは言った。


 ──✕✕が、死んだよ。


 ひゅっと息を呑む。視界がぐらっと揺れて、90度傾いた。何のことは無い、おれが床に倒れ込んだだけのことだった。目の前が白く霞んでいた。死んだ? 一体どうして。おれは。

 いや、どうして、じゃない。

  T-Rexティーレックス。あなたがやったのか。


     ✵



『みいつけたっ。逃げられるとでも、思ってたのかなあ?』



『……助けて……たすけて、T-Rex。お願い、助けて』



『話してくれるかい? リキ』

『──ワタシがどうにかしよう。心配はいらない。キミは待っていなさい』



     ✵


 仮想空間の中にアバターを使って入ることをダイブという。

 「ネットダイビング」と言い示すこともあるし、普通に「ダイブする」という風にも使う。現代社会においては常識のようなものだ。

 ウェブページを次々に閲覧していくことをネットサーフィンと呼ぶことがあるから、情報世界とは1つの海なのだろう。あまりに広大で、無限に広がる海。

 おれはふらふらと立ち上がった。椅子に腰掛ける。座面の軽い反発。それが無ければどこまでも沈んでいきそうだった。

 机の上のパソコンを起動させてヘッドホンを着け、ソフトを立ち上げる。パスワードの入力。いつも放課後にやっている動作なのに、指先が定まらなくて何度も打ち間違えた。焦燥の数分。おれはようやく薄暗くて小さい自分の部屋から鮮やかな世界に飛び込んだ。

 ダイブする。光の中へ。



〈ようこそ、リキ。そしておかえりなさい、仮想世界バーチャルへ。〉



 地面に足がとん、と着くのと同時に視界が開けた。一瞬の眩しさにおれは目を細めた。見慣れた大通りだった。カラフルな屋根の色んな店が連なり、たくさんの人々が歩く。普段と何も変わらない光景。現実世界で起こったことなんて全部幻のようだ。考えてみれば当然のことだ。ここは全世界の人々が境界なく集まる地だ。おれという人間1人、おれの暮らす小さい街1つが影響を及ぼせるような場所ではない。

 ……しかし、その世界的に見れば点にもならないような事件が、どれほどまでに今自分をかき乱していることか。

「あっ、リキ!」

 駆け出そうとしたところで、したところで、突然背後から呼びかけられてビクッとする。振り向くと、猫の頭の女の子がにこにこと手を振っていた。

「えっ、あっ、アンナ」

「お昼前に来るなんて、珍しいね」

「そうかな」フレンドリーによく声を掛けてくれるので、彼女とはよく話す。カナダ人だと言っていた。実際は英語を話しているらしい彼女の言葉は、日本語に自動翻訳されてこちらに伝わる。おれの声も向こうの言葉に訳されて聞かれているのだろう。

「あ、でも、今日は土曜日だもんね。お仕事も学校もないか」

 アンナは曜日なんて関係なく、いつもここにいるけどねという返しは飲み込んだ。

 ここでこうして話しているのと同時に、おそらくカナダの、どこかのパソコンの前に「現実世界での〈アンナ〉」がいる。でもその人の名前や性別や年齢がどうであれ、アンナはアンナだ。おれたちにとっては現実と言われようが仮想と言われようが、どちらも「リアル」には違いないということだ。

「なんか、元気ない?」

 アンナは大きな瞳で不安そうに顔を覗き込んできた。細くて綺麗なひげの先がぴくぴく揺れる。

 おれは無理やり笑顔を作った。

「大丈夫。少し急いでいるだけだよ」

「どこへ行くの?」

「いつも出入りしてる、とある店」

「そっか。いってらっしゃい」アンナは微笑んだ。うん、と答えておれは走り出す。

 この世界で、おれは「リキ」という名前で、特に意味はないが、現実世界よりもずっと小さい、小学生ぐらいの姿をしている。黄色いキャップに青のリュックサック。その他にはあまり特徴のない少年。今だけはラッキーだと思う。小さいからこそ人混みを掻き分け掻き分け走っていくのは、そこそこスムーズにできる。

 顔見知りの多くの人々に「やあ」「こんにちは」と声を掛けられて軽く手を振り返しつつも、内心ではそんな余裕は一切なかった。

 確かめなければいけない。彼に会わなければいけない。彼がいつも通りそこで穏やかにコーヒーでも飲んでいることを、確かめなければいけない。……確かめたい。

 お願いだ、そこにいて。T-Rex。

 入ったのは「駅」だ。安い料金で行きたい他の駅にワープすることができる。仮想世界バーチャルは際限なく無限に広がっているため、国際公共機関の運営するこういうスポットが至る所にある。おれは駅員に行き先を伝えて、世界内の共通通貨であるコイン1枚を渡した。こちらへ、と案内されたゲートをくぐり抜ける。


〈勇者の隠れ家〉。

 

 その店はとある駅のすぐ近くにある。近く、とは言いながら入り口は結構入り組んでいる場所で、路地裏を右に曲がったり、左に曲がったりしてようやく辿り着く。初めて来る人は、「こっち」と書かれただけの何枚ものビラを追っていくようにしなければ、到底辿り着けない。

 数分で1つの建物の前に出る。石造りの壁と、古びた小さなドア。這っている蔦が独特の雰囲気を作り出す。

 おれにここを教えてくれたのは、親友であるカイだった。もう3年ほども前の話だ。

『そういえばなんだけどさ』

 家の玄関先で軽く言葉を交わした帰りがけに、あいつは言った。

『リク、お前って仮想世界バーチャル、よく行く?』

 たまに、とおれが答えると、それは良かったとカイは歯を見せた。

『誰かから聞いたんだけど、〈勇者の隠れ家〉って店があるんだってさ。名前の通り勇者がいるらしい。お前もさ、オレみたいのにだと言いづらいことでも、全く知らない第三者になら話せるかもしれないって思ったんだ。それに「勇者」だぜ? その人なら、何かいいことを教えてくれるかもしれない』


 ……中学2年生の時、おれは酷い虐めに遭っていた。どうして目を着けられたのか、今でもよくわからない。自覚してすらいない些細な出来事であっても、それをきっかけに暗闇に放り込まれることはある。多分そういうことなのだ。

 言葉にすることすら忌むべき、ありとあらゆる類の暴力がそこにあった。

 始めは同学年の数人から。そしてやがては上級生から。引っ張って行かれた駅の裏で、卒業生たちから。

 その中に、✕✕がいた。確実に集団のリーダー格だった。あの人しかいない時もあった。あっけらかんとした笑顔。ねっとりとした話し方。濁り淀んだ瞳。別に見た目が明らかにゴツいわけでもないし、目立った傷跡やら入れ墨やらがあるわけでもない。それでも✕✕が1番恐ろしかった。誰よりも残酷だった。正気に見えて、誰よりも狂っていた。何か違法な薬をやっていたのかもしれない。下から見上げた瞳孔が、まるで独立した別の生き物のようにぴくぴくと動いていたのを覚えている。

 怖かった。希望をちらつかせながら奈落に突き落とすやり方。絶望までじわじわと弄びながら追い詰めていくやり方。慄く顔を覗き込んだ時に見せる満足げな顔。この人はおれを玩具としての価値すら無いと見なしたなら、躊躇いなく殺すのだろう。その前にはおれの方が持たずに壊れてしまうか。なんて、冷静に分析できるわけもなく、痛い、熱い、怖い。負の感情の渦。その積み重ねが体に、記憶に降り積もっていく。時々白く弾けるように飛ぶ意識。毎日が同じだった。明日もまた同じだ、一生明日なんて来なければいいのに。終わりのない夜を彷徨っているようだった。

 どんなに心配されようと、話してほしいと懇願されようと。✕✕たちにされていることなど到底親にも先生にも言えるはずがなくて、それでも外に出ようとするたびに、堪えようのない全身の震えと吐き気を催すようになって、おれはあっという間に家に引きこもるようになった。

 誰かが今にここに来るんじゃないか。ドアをどんどんと叩いて、おれを✕✕のもとへと連れて行くんじゃないか。恐怖に体を縮こまらせた真っ暗な1ヶ月。その後、──多分おれが不登校になったことを誰かから聞いたのだと思う──幼馴染みのカイがたびたび家を訪ねてくるようになった。

『どうしたんだよ』

 部屋に入ってきた彼は眉根を寄せた。中学に入ってからは、クラスも部活も違ったから会う機会もなくなっていたため、随分と久しぶりに聞いた声だった。

 暗い部屋でおれは顔を上げて、にこ、と笑った。『なんにもないよ』と、おれは言った。

『そうは思えねえから来たんだけど』

『本当になんにもないんだよ。早く帰ったら?』

 人と言葉を交わす、それだけのことすらもう億劫で、カイを邪険に追い払った。

 それでも。それでもあいつは毎日のように家に来た。「顔見に来た」とそれだけの要件で、「心配だから」とそれだけの理由を掲げて。


 〈勇者の隠れ家〉をカイの言葉通りに探し、実際に訪れたのは、他にやることもなかったからというのと、あいつの真っ直ぐな優しさに感謝していたからだ。そしてそれを素直に伝えられない申し訳なさを感じていたからだ。とにかく言ったことに従ってみようと思った。

『こんにちは……』リキの姿のおれは、恐る恐るその錆びた薄い扉を開けた。そして、出会った。

 勇者、に。

 意外にも人が多く賑やかな店内の奥で、彼は1人でコーヒーを美味しくも不味くもなさそうに飲んでいた。旅人のような長い焦げ茶色のローブに帽子、首から顎のあたりまでを覆う分厚いスカーフ、強いのに柔らかい光を宿す、キリンのような優しい目。まるで壮大で壮絶な長旅を終えた勇者が、ほんのひとときの羽休めをしているような風貌だった。どうしてだろう、まるでスポットライトが当たっていたかのように。彼が本物だと、ひと目でわかった。

『あなたが、「勇者」ですか』

 問いかけると、彼は顔を上げて、声を掛けられたことに驚いたのか一瞬目を丸くした。そして微笑んで、肩をすくめる。

『さあ、どうだろうね。ワタシがやったことと言えば、この部屋の前に看板を立てて、それからコーヒーやら紅茶やらを淹れる道具を設置しただけだ。……ああ、飲み物はセルフでどうぞ。どれも銅貨1枚』

『……』

『不思議なものでね、それだけでここは「勇者」を目当てに24時間人が常に出入りする「店」になった。ろくな営業なんて何もしなくてもね。人間とは煎じ詰めてしまえば皆、何か教えてもらいたい人、話を聞きたい人、それから教えてあげたい人、話を聞かせたい人のどれかさ。「勇者」を自ら名乗る人もここに来る。結局色んな人がいるわけだね。──さて』

 彼は頬杖をついて、にやっと笑った。

『キミはそんな中でどんな人なんだろうね? このワタシを相手に、出会ったついでに何か話していくかい?』

『……なんでも、聞いてくれるんですか』

『話したいというのなら拒みはしないさ』

 おれは俯いた。

『おれは、自分が楽になるために話しても、いいんですか……』

 聞く側には何の利益もないというのに。

 T-Rex は顎のあたりに手をやった。指の長い大きな手だ。じっと観察するようにおれを見ていた。

『人が何かを話すことには色んな意味や理由があるでしょう。別に無くても構わないけれどね。まあ、まずは自己紹介から始めようか。ワタシはT-Rex という。国籍は日本だ』

 


 ばん、と今おれは扉を開け放つ。コーヒーや紅茶の匂い、人々の匂い。くつろぐのにちょうど良い明るさの店内は、カフェと言うよりはまるで酒場のような雰囲気だ。……とはいえアルコール入りのものは一切置いてはいないけれど。

 いつも通りだ。そのはずだ。音に驚いたのか中にいた何人かが振り向き、常連客たちは微笑みかけてきた。

「よーっす」「リキくんじゃん」「やあ、ぼっちゃん。今日も来たのかい?」

 中央に置かれた木のトーチの炎は不規則に揺れて、レンガ風の壁に大きく映った沢山の人影が、踊るようにざわざわと妖しく蠢く。何となくキャンプファイアーを連想した。

 おれはつかつかと早足に中へ入っていって、部屋の真ん中あたりで立ち止まった。「T-Rex は?」と誰にともなく訊ねた。

「今は、いないの?」

「「「ティーレックス?」」」

 皆んながそろって首を傾げるので、おれはイライラした。

「いつもここにいる人だよ。ここを開いた人。帽子を被ってる」

「帽子? そんなこと言ったらぼっちゃんもキャップを被ってるじゃないか。おっ、俺だって被ってるぜ? それとも帽子には入らない?」

 常連客の男は頭に巻いているターバンを指差して、つまらないことを言った。

 黙り込んだおれに助け舟を出すように、周りの人々もざわめき出した。

「もしかしてリッくんがいっつも喋ってるあの男のことじゃないの?」

「あの男? どの男? その男!」

「名前は知らないけどねえ。あの無口そうな、堅物そうな、だけど只者じゃあなさそうな」

「ああ、あの人か! へえ、あの人がここのオーナーなのか」

 おれはえっと声を上げた。

「……知らなかったの?」

 思わず目を見開いて尋ねると、客たちは皆んな肩を竦めた。

「だって、この店ある日突然開いたんだもんね」「お喋りを楽しむ場所があるって噂を聞いて来たんだよ」「勇者ごっこだよ。楽しいからいいんだけどね」「オーナーとかそもそもいたんだって感じ」「ぼっちゃんの言ってるあの人とは喋ったことなかったよ」「私たちには興味もなさそうだったし」「ぼっちゃんの現実世界での知り合いなのか思ってたんだけど」「そうじゃないの?」

 わっと一斉に押し寄せる声という声に、追い詰められるように一歩後ずさった。人々は森の木々や大海の波のようだ。取り囲まれた自分はあまりにも小さくて弱い。ひどく居心地が悪かった。

 何より、ショックだった。だって。

 ……違うよ。知り合いなんかじゃない。そんなんじゃないんだ。T-Rex のこと、おれは何も知らないんだ。

「今日は? 今日は、見かけても、ない?」

「さあ、見てない気がするけど。そういえば珍しいよな。いっつも土日は朝からずっとここにいるのに」

「そう、なんだ」

 それなら他の日は夕方から夜にしか来ていないということか。いつもおれが店のドアを開ける頃には涼しい顔でコーヒーを飲んでいるから、曜日など関係なくずっとここにいるものだと思っていた。……ほら。3年ほどの付き合いでも、そんなことすらおれは知らないのだ。

 あの人が本当はどんな人かなんて、わかるはずがない。

「ごめん。ありがと」

 おれはそれだけ呟くように言って、店を飛び出した。ドアを完全に閉め切る前に、既に店の中には何事もなかったかのような喧騒が戻っていた。


     ✵


 中学生であること、ある日から突然過激ないじめに遭うようになったこと、家に引きこもるようになったこと。

 あの日。初めて出会った日、おれが全てを吐き出して投げつけるように話し終えた時、T-Rex はつと目を閉じた。

『…………』

『T-Rex ……?』

 おれはどうしていいかわからずに首を傾げた。

 しばらくして、うん、と彼は頷いた。

『どうしてかわからないのに自分を敵視する人たちがいて。まるで自分の周りには味方になってくれる人が誰もいないようで。明確な悪意というものに晒されて、見えないほどの小さな悪意にも触れて。どうしていいかわからなくて。このままどうにもならなかったらどうしよう、でももう全部どうでもいいかもしれない、そう思うのにどうしようもなく辛い』

『…………』

『正義感を振り回して助けてもらいたいわけじゃない。そんなことをされたら、自分がより一層惨めになるだけだ。気安く哀れんでほしいわけでもない。ジクジクと切り刻まれ、深まり続ける傷の痛みがもはや麻痺して感じなくなるまで、誰にも触れないでほしい。だけど、誰もそばにいないのは寂しい』

 おれは、コーヒーカップを傾けるT-Rex の顔を見上げた。視線が合った。質素な旅衣姿につり合っていない、黒々としているが不思議と澄んだ瞳。綺麗だ。あまりにも。吸い込まれそうだ。

『……わかるよ』

 そう、彼は言った。『キミの苦しさが、ワタシにはすごくよくわかる』

 店の中の騒がしさも、全て遠いところにあるかのようだった。おれは黙って瞬きをした。軽く呆気に取られたようになっていたのは、T-Rex が一瞬、過去を振り返って己の姿に傷つくような、何かに縋りつかなければ今にも消えてしまいそうな、そんな寂しそうな目をしていたからだ。

 しかし、その感情の正体をおれがはっきりと認める前に。

『でもね、大丈夫だ』

 T-Rex は微笑む。まるでさっきまでの表情は幻だったかのように明るく。勇気づけるような力強さをもって。

『リキ。これからは、キミにはワタシがいる。いつもキミを思っている友として、ここにいよう。キミが傷を忘れるその日を共に待とう』

『T-Rex ……』

『辛いときには、いや、そうじゃなくても、時間を共有したいと思ったときには、いつでもここにおいで』

 彼は芝居がかった仕草で被っていた帽子を取ると、優雅にお辞儀をしてみせた。

『1人の友人として、いつでも待っています』


 闇に足を取られ沈んでいこうとしていたおれが、どうにかこうにか立ち直ることができたのは、彼という味方ができたからなのだと思う。

 おれは毎日のように〈勇者の隠れ家〉を訪れた。

 T-Rex とは色々な話をした。虐めのこと、争いのこと、人間のこと。趣味のこと、楽しかった思い出、それから──おれの幼馴染のこと。ここを教えてくれたのはあいつなんだと話すと、T-Rex は「いつか連れて一緒においで」と笑った。

 1本の柱がいつも自分を支えてくれている。そう思うだけで、おれは終わりのない夜がいつか明けることを羨望することができた。明日がやってくることを祈るような気持ちで待つことができた。

 そして、本当にその時はやって来た。

 自宅で必死に勉強をし、地元から離れた国立高校に受かったおれは、社会の中に戻ってきた。新しい生活を、人生を始めたのだ。

 その頃には、カイにも全てを話した。意地と恐怖でがんじがらめになって閉口していたおれのことを、カイはその間ずっと見放さずにいてくれた。「今までどうしても言えなくてごめん」と謝ると彼はにっと歯を見せた。「いいって。お前が立ち直れそうで良かった」。高校は別々だが、そこまで遠くないこともあって、あいつとは今でもよく会う。

 2人のヒーロー。

 守られて、そして救われた。

 全てが良い方向に向かっていた。いつの日からか拡大の止まった傷が、やがて端のほうから少しずつ乾いて薄らいでいくように思われた。

 全部いつか忘れられると思った。完全に立ち直れる。無くしてしまえる。

 なのに。


 昨日の、学校から帰宅して少し経った、日暮れ時。

 あの電話越しに聞いた、ねっとりと絡み付いてくるような声を、おれは記憶から一生消すことができないだろう。



『みいつけたっ』



 その声だけで、おれを再び過去の闇の中に引きずり込むには十分だった。

 どうして、知らない番号からかかってきた電話になんて出たのだろう。あの人はどうやってこの番号を知ったのだろう。どうしていつまでもおれに執着するのか。どうして? いや、どうでもいい。早く切ってしまうんだ。そう思うのに、凍りついたようにスマホを顔の前にしたまま動けなくて。

『もちろん覚えているよねえ? ✕✕でーす。やっほう、久しぶりだねっ』

 助けて。浴びてきた暴力の全てが一気にフラッシュバックする。積み重ねられた痛みの数々。情報過多で、記憶過多だ。ぱくぱくと魚のように息を吸って、吸って、これ以上吸えない。苦しい。胸が苦しい。

『……あれ、だんまりかな? まあ聞いててくれれば別にいーんだけどね。ねえ、あんたがいなくなってから、ずっと探してたよ。逃げられるとでも思ってたのかなあ? 残念でしたーっ、世界はあんたが思ってるほど広くねえんだよ』

 助けて。

『と、いうわけで、今日の夜12時、いつもの場所で待ってまーす。来なかったらぁ……わかってるよね? あんたの無様な写真、何枚持ってると思う? あ、全裸のもあるよ。全部ネットにばらまくから覚悟しておいてねーっ! 全世界に公開! ぽちっと、なんちゃって』

 耳障りな笑い声を鼓膜に塗り付けて、電話は一方的に断ち切られた。



 助けて。誰か。



      ✵


 現実世界に戻ってきたおれは、電車に飛び乗って1年前に離れた地元へと向かった。この行動には何の意味もない。そんなことはわかっているけれど、規則的なリズムに揺られている、その間にも過ぎ去っていく1分1秒の時がもどかしかった。こっちの世界でも駅から駅にワープができればいいのに。

 1度の例外もなく、言葉通りにいつも〈勇者の隠れ家〉でおれを待っていたT-Rex が、今日だけあの場所にいなかった。その理由は、きっと……。

 違う、頼むから違ってくれ。勘違いであってくれ。

 たまたま外せない用事があったのだとか、ただ少し気が乗らなかったのだとか。寝過ごしたなんて、そんなバカみたいな理由でもいい。それならおれは、笑って、心配したんだよと少し怒って、それからほっと胸を撫で下ろすのに。


 寂れた駅の、近く。

 廃ビルの立ち並ぶ間に入っていく。煙草の煙や、ドブ川のような、吐瀉物のような、正体もわからない濁ったものたちが混ざり合って、生臭くすえた空気。おれは顔をしかめた。

 ここに来れば、嫌でも引き戻される。思い出す。

 何度も転がされたコンクリートは、誰かが吐き出したガムが点々とこびり付き、でこぼこしていて冷たいこと。覆いかぶさる人影や建物の間に見える夜空はなんとなく白く烟っていて、星など到底見えないこと。✕✕の吸っていた、ただの煙草だとは思えない何かの匂い。痛みで意識がぱあんと弾けて飛ぶ感覚。

 何度でも甦り、そして思い知る。過去は消えないということ。

 ここがおれたちの、「いつもの場所」だった。

 停車したパトカーを見つけた。そのすぐ近くに、ブルーシートで覆われたエリアがあった。


 ──✕✕が、死んだよ。


 おれは立ち止まった。

 足元に影が伸びていた。

 ここで昨日✕✕が死んだ。殺されていた。包丁かそれよりも小型の刃物で切りつけられ、刺されていたそうだ。傷跡が何箇所もあったという。……少し調べれば、既にネット社会には様々な情報や憶測が飛び交っていた。こんなにちっぽけな街で起こった、広い目で見てしまえばほんの小さな事件のことだというのに。

『今日の夜12時、いつもの場所で待ってまーす』

 おれを待っていた✕✕は殺された。だが、本来はどうなるはずだった? 実際にここで殺されるのは、おれだった。少なくとも、✕✕によってほとんど死んだような状態にされていたはずなのだ。体も、心も。

 爪跡がつくほど強く拳を握りしめた。でも、今おれは生きている。



 電話が切れた後、おれはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。貧血を起こした時のように目の前が真っ暗だった。

『う、うう……』

 吐き気を感じて、口元を押さえる。胸のあたりがむかむかして気持ち悪いのに、声にもならない呻き声と不安定な吐息ばかりが指の隙間から漏れる。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう、引き戻される。また夜が始まる。同じ日々の連続が始まる。殺される。……嫌だ、死にたくない。戻りたくない。でも、どうしたらいい? 行かなかったら写真をばらまくと✕✕は言った。そんな写真の存在など知らない。だが、ほとんど気絶しているような状態の時に撮られていたのなら、おれがそれに気づけたはずはない。✕✕の言葉がただのはったりであるという保証はどこにもないのだ。

 行かなきゃ。

 でも……でも。もう戻りたくない。助けて。おれを助けて。話を聞いて。また沈んでいきそうなおれを支える柱になってよ。

 ──T-Rex。

 震える手でコンピューターを起動させて、おれは落ちていくかのように仮想世界バーチャルへと身を投げた。

 体を支えきれずに倒れ込むようにして開けた〈勇者の隠れ家〉のドアの奥。木のスツールに、T-Rex はいつも通り優雅に足を組んで座っていた。おれの姿を認めると、やあと言うように目で笑った。

『やあ、リキ。紅茶を淹れてこようか?』

『…………』

 おれは息を切らして、彼を見つめたまま突っ立っていたが、緊張が一気に溶けたせいか膝がかくんと折れて、しゃがみ込んだ。

『リキ?』

 T-Rex は少し驚いたように立ち上がった。

『どうしたんだい? 体調でも悪い?』

『T-Rex ……』

 初めて会ったあの日のように、全部声に出して吐き出してしまいたかっただけだ。少しでも気持ちを楽にしたくて、それから味方がおれにはちゃんといるということを、✕✕に会う前に確認しておきたかっただけなのだ。だけど。

 気がつけばおれは、めちゃくちゃに泣いていた。

『……た、助けて……たすけて、T-Rex。お願い、助けて』

 拭っても拭っても涙が溢れて、どんなに気を張っても身体が震えて、どうしようもない。

 T-Rex が小さく息を呑む気配があった。ややあって、顔を上げて、と彼は静かに言った。

『全て話してくれるかい? リキ』

『……っ』

 おれは言われたままに✕✕から電話が掛かってきたこと、その内容を嗚咽とともに話した。話し終えてからT-Rex の顔を見上げると、険しい顔で話を聞いていた彼はふっとひどく優しい表情になった。✕✕の背格好や、詳しい待ち合わせ場所について訊ねて、1つ頷く。そして微笑む。

『話してくれてありがとう。もう大丈夫だよ』

 それは、場に不釣り合いなほどに優美で甘美な、妖艶とさえ言える微笑みだった。今にもとろけ出しそうな。何もかもをとろかしてしまうような。

『今すぐ現実世界に帰って、家から一歩も出ないで。一応カーテンを閉めて、鍵を掛けておきなさい。それから誰かから電話が掛かってきても、夜が明けるまでは出ては駄目だ』

『……?』

 その指示の真意がわからずに首を傾げたおれに、T-Rex はお道化たような仕草で人差し指を立てた。

『──ワタシがどうにかしよう。心配はいらない。キミは待っていなさい』



「君、何をしにきたのかね」

 不意に声を掛けられて、我に返った。

 警察官の制服を着た男が目の前に立って、訝しむように眉をひそめていた。

「あ、えっと……」

「見たらわかるよね、捜査の邪魔になるから帰ってくれるかな。それとも」

 警官は冷たい目をしていた。「もしかして被害者の知り合いかね? 不良と言う以上に、ずいぶんと良くないことをしてきた人間のようだが」

 そっか、調べればそのくらいのことはわかるんだ、と思った。全部今更だ。✕✕が生きている間は、誰も何も調べなかった。誰も彼のしたことを声に出さなかった。何もかも明るみに出ることはなかったのに。あの人が死んでから何かがわかったって、誰かが救われるわけではないのに。

 何が被害者だ。

 誰が被害者だ。

 被害も加害もない。狩る者と狩られる者の間だけに、全ての行為が、罪が、感情が、声にならない叫びがあった。秘め事のように、閉ざされた二人の間だけにあった。

 おれは首を振った。

「いえ。知らないです。……そもそも事件があったなんて、初めて聞きました」

「じゃあなんでここに」

「何も知らないです。本当に、何も」

 背を向けて、歩き出す。男が止めるのも聞かずに、できるだけ颯爽と見えるように。

 T-Rex、✕✕を殺したのはあなただろう。あなたが、あの人を殺したんだろう。……だって、他にいないのだ。現実から目を背けようとしても無駄だ。昨日の夜12時、この場所に✕✕が来ることを知っていたのは、おれと✕✕と、それからおれが話したあなただけだから。

 『たすけて、T-Rex』。

 そのおれの声が、T-Rex に人殺しをさせたんだ。自分では何もできずに閉じこもったおれは、自分だけ守られたカーテンの中にいて、T-Rex1人に罪を被せたのだ。そして彼はいなくなった。姿を消した。キミにはワタシがいる。そう言ってくれた〈友人〉に、おれは何をさせたんだ……っ。

 日が傾き出している。白々と光り輝いていた太陽は、だんだんと赤みを帯びながら地平線へと沈んでいく。

 駅舎にたどり着いた。何も知らない人々が何も知らない顔をして、ふわふわと歩いていた。おれはどうしたらいい? ✕✕がいなくなった。でもT-Rex もいなくなってしまった。おれが。おれのせいで。おれに。あの人が。後悔が恐れが、焦りが輪のように繋がって回りだす。どうしたらいい? ねえ、どうしたらいい。


「リク」


 聞き慣れた声で、突然名前を呼ばれた。最後にこの声を聞いたのは……電話線の上。ああ、でもあれは会話をしたのではなくて、吹き込まれた声をおれが一方的に聴いただけだったか。朦朧とした頭で振り向く。

「カイ……」

 幼馴染は少し複雑そうな顔をしてから、打ち消すように片手を上げた。

「よお。奇遇だな。オレも事件のことが気になって、来てみた」

「…………」

「もう現場には行ってきたのか?」

 ゲンバ、という言葉の響きが、まるで幼稚なごっこ遊びのようだ。昔カイとやっていた、警察ごっこ。それからおもちゃの怪獣を倒す、戦隊ヒーローごっこ。

 ヒーロー。

 おれはカイに掴みかかるような勢いで迫っていた。感情を抑えていたものが弾け飛んだ。息を吸い込む間も無く、怒鳴っていた。

「お前じゃないのか!?」

 カイは仰け反って目を見開いた。

「な、なにが」

「T-Rex は、お前じゃないのか!? おれにあの店のことを教えたのはカイだった。ずっと味方でいてくれたのも、カイだった! お前なら昨日の深夜12時にでも、確実にここに来られたはずだ。おれのために……おれのために、✕✕のことを殺したのは、お前なんだろ!? お前がT-Rex なんだろ」

「おい、落ち着けって」

 彼は顔を強張らせていた。ちょっと待てよ、と牽制するようにおれの肩を掴み返そうとして、はっと思いとどまったのか手を下ろした。代わりに鋭く囁くように問い返す。「そんなことが、本当にあると思うか?」

 お前はそんなことを本気で信じているのか? カイの目が、今までに見てきたいつよりも切実そうな光を湛えていた。

 そんなこと。無限に広がり続ける仮想世界バーチャルで出会った人の正体が、たまたま幼馴染だったなんていうこと。やっぱり、あり得ない、荒唐無稽な奇跡だ。……それだけじゃない。

 おれは1歩後ろに下がる。気付けば周りを歩く人々はおれたちのことを遠巻きに迂回するように歩いていた。それを眺めていたら、熱に浮かされていた心がすっと冷えてきた。目の前でカイは怖がるように身を引いている。……怖がらせた。おれの根拠のない剣幕が。

「ごめん、……ごめん。頭に血が上ってたみたいだ」

 早口に謝った。

 どうかしている。幼馴染が人を殺したんじゃないかと疑うなんて、最悪だ。そうじゃなくて、おれは。おれは……ただ、自分を助けてくれた人が、ずっと自分のそばにいてくれた人と同じだったらいいと思っただけなのだ。

 そうだったらどれだけいいか。

 近くにいる人だったなら、すぐに助けられるのにな……。

「行かなきゃ」

 おれはぽつりと呟いた。

 あまりの唐突さに、カイはぎょっとした顔になった。

「行く? 行くって……?」

「T-Rex を探しに行く。おれが行かなきゃいけない」

「ちょっと、待てよ」身を翻そうとしたところで、袖を引くようにして止められる。カイは「一回冷静になってみろよ」と眉根を寄せて言った。

仮想世界バーチャルがどれだけ広いと思う? 意図的に一度姿を消した人間のことを、探し出せると思うか? それに、もう仮想世界バーチャルに現れるつもりがないんだとしたら? お前はT-Rex という人間について何か手がかりを持っているのか?」

「何も持ってないよ」

「それなら」

「それでも、どれだけ時間が掛ったとしても。おれが見つけなきゃいけないんだよ」

 おれは唇を噛み締めて、カイの顔を真正面から見つめた。

「……おれは臆病だったから、自分で何もかもを解決することができなかった。なにも関係の無かったあの人に、手を汚させてしまったよ。恐怖に体を縮めて何もしないのは、もう嫌なんだ。おれが見つけてあげたい」

 そして、今度はおれが彼のことを助けてあげたい。……だって。

 わかるよ、と。

 初めに全て話を聞いてくれた後でそう言ったT-Rex は、あんなに傷ついたような瞳をしていたじゃないか。

「見つけて、どうするつもりなんだよ」

「わからない」

 首を振って、おれは笑った。その表情を見てカイは意外そうに身を引いた。

「…………」

「怒って、一発殴るかもしれない。なんで✕✕のことを殺したんだって。おれ、殺してほしいなんて言ってない。おれのために人殺しなんてしてほしくなかった。……でも、やっぱりありがとうって言うかもしれない。助けてくれたこと、感謝してもしきれないよ」

 苦しんでいるなら、話を聞きたい。T-Rex がおれにしてくれたように。

 おれはもっと強くなりたい。

「行ってくる」

 ぱっとカイに背を向けて駆け出した。早く家に帰って、そして仮想世界バーチャルにもう一度ダイブしよう。例え二つ重なり合った世界が、おれたちのリアルが果てのない大海原であったとしても。どれほど時間が掛かるのだとしても、もう怖いものなんてない。怖くてもおそれはしない。飛び込んでいく。T-Rex を必ず探し出す。

 会いにいくよ。


 T-Rex。あなたを失ってしまう、その前に。





     ✺✺✺



 走っていくリクの足音だけが、駅を歩く全ての人々の足音の中で浮き上がって聞こえた。オレはゆっくりと駅舎の壁にもたれかかった。

『行ってくる』

 さっきの妙に明るい笑顔ばかりが、瞼に焼き付いてちらちらと光っていた。

 T-Rex を探しに行く?

 そんなの、見つけられるわけないじゃないか、と思う。


 幼い頃からいつもリクとオレは2人セットだった。

 家が近いし、親同士も仲がいいから、いつも互いの部屋を出入りしていた。外遊びの木登りも鬼ごっこも好きだったが、部屋の中でパズルや色んなごっこ遊びをするのも楽しかった。一番好きだったのはヒーローごっこだ。恐竜と戦隊ヒーロー、それから怪獣のおもちゃを振り回す戦いごっこを、そろそろ帰ってこいと呼びに来られるまで、永遠と続けていたのを覚えている。気が合って、いつも一緒にいた。双子みたいだねと周りから何度も言われた。小学校に上がった後もそれは続いた。

 関係性が変わったのは、中学校に入ってからだ。

 当たり前のようにクラスは分かれたし、入った部活も違う。リクはほとんど集まりのないらしい写真部だが、オレは毎日のように放課後は練習がある卓球部だ。今思えば、どうしてあの部活に入ることにしたのだろう。理由なんて多分特になかった。仮入部の時に、運動部だけどそこまで大変そうじゃないなと思っただけなのだ。

 幼馴染と会わなくなってからの日々はあまりにもつまらなかった。こんなに毎日って味気ないものだったっけと首を傾げた。勉強なんてどうでもいい。友達も、別にできなくてもいいや。オレには誰よりも自分を理解してくれるリクがいるから。会えなくても、オレたちはいつだって2人セットだもんな。部活も、全部どうでもいい。あぁあ、つまんないな。なんでこんなにつまらないんだろう。

 そのオレの舐め腐った態度が、先輩たちの目についたのだろう。

 ある日から、部活内で虐められるようになった。こんなものどうせすぐに終わる、とたかを括っていたのに、予想は外れた。

 ある日のもうすっかり暗くなった夕方、オレは駅の裏に引っ張っていかれた。そこで✕✕に会った。臭い煙草の煙。それから鼻に突くのに妙に甘ったるい、きっと違法な何物かの匂い。……狩るものと狩られるもの。

 どんよりと油っぽくぎとついて光る目と自分の目が合った時の、うなじにぞわっと鳥肌の立つような感覚をずっと覚えている。初めて本物の狂気というものに触れた気がした。✕✕の取り巻きらしい部活の先輩たちも、他の連中にも恐怖を抱かなかった。軽く殴られたりする程度何でもなかった。なのに。……なのに、✕✕だけは本気で怖かった。冷や汗が毛穴という毛穴からどっと吹き出した。逃げたい、逃げなければいけないと感じた。本能がそれを喚き訴えていた。

『あんたのこといじめてやろっかな?』

 ✕✕は唇の端をめくり上げるような笑みを浮かべて言った。

 嫌だ、と思った。嫌だ、殺されたくない。

 がくがくと震えるオレに、✕✕はどろっとした瞳のままで微笑む。

『それとも、誰かあんたが大事にしてるヤツの名前言ってみなよ、そしたら、そっちにしてやる。あんたのことはほっといてあげるよーっ?』

 夜闇の中で✕✕の白目の部分ばかり浮かんで見えた。誰の名前も言わない正義とか、はったりで全然知らない名前を言う賢さとか。そんなことを思いついたわけがない。オレの思考などほとんど回ってはいなかった。何も考えずに、オレはずっと頭の中にあった幼馴染の口にした。

 ✕✕は嘲るように目を細めた。

 ──空白の一晩。

 その後、まるで初めから何もなかったかのように、先輩たちに絡まれることはなくなった。もちろん部活はすぐにやめた。そして、オレは誰にも何も言われないのをいいことに、全部何もなかったと意図的に思い込んだ。思い込もうとした、それだけだったのかもしれないけれど。

 風の噂にリクが不登校になったのを聞いた時には、青ざめた。

 居ても立っても居られなくて、すぐさま過去に何度も出入りしたあいつの部屋を訪ねた。リクは膝を抱えて塞ぎ込んでいた。マネキン人形が蹲っているように見えた。

 どうして✕✕はオレをあっさりと手放し、標的をリクにしたのだろう。オレをなぶっても面白くなさそうだったから? それとも✕✕の嗜虐趣味から? きっとそうだ。何もわからずに苦しめられるリクと、それを自分のせいだと思いながら見るオレを、眺めるのが楽しいのだ。最低で、最悪で、どうしようもなく狂っている人なんだ。

 でも、そんなのは本当はなんの言い訳にもならない。

 ……そうだ、本当に全部、オレのせいだ。普通に楽しく中学校に通っていたリクの生活を、オレがぶち壊した。後悔と申し訳なさで潰れそうになった。そして、それらの感情はやがて、リクを助けられるのは自分しかいない、という思いに変わっていった。

 オレがそばにいる。こいつを救う責任がある。助けてやるから、大丈夫だ。

 オレのそばにずっといればいい。

 仮想世界バーチャルに一つの空間を作り上げた。無限に空間を広げることができる世界だから、出入り可能な年齢や開閉時間などの設定さえきちんとすれば、店や空間を作るのにはほとんど金がかからない。オレのような中坊にも簡単にできる。なんて便利なのだろう。アバターの見た目は大人っぽく、飄々として強そうな感じにした。店には〈勇者の隠れ家〉と付けた。リクは何も気にせずに安心してもたれかかってくれればいい。

 自分の名前をT-Rex にしたのは、例のヒーローごっこ遊びを思い出してのことだった。オレたちの物語の中で、恐竜はいつもヒーローを補助して一緒に怪獣と戦う役だった。敵ではないのだ。あの恐竜みたいに、オレがあいつを助けよう。それに、ティラノサウルス・レックスといえば、〈陸の王者〉だもんな。強そうだし、格好いい。

 多くのことは思い通りになった。

 T-Rex のもとで、リクは見事に立ち直った。前向きになった。高校にも行くようになった。学力が違うから同じ学校にはオレは行けなかったが、彼はオレとの関係を断とうとしなかった。「カイがいなかったら、きっともっと酷いことになってた」と礼を言われた。中学生になった時とは全然違う、明るいスタート。楽しい毎日。

 なのに、昨日。

『たすけて、T-Rex』

 現実世界よりも幼い姿をしたあいつの、涙混じりの声を久しぶりに聞いたのだ。



 ……なあ、オレはどうすれば良かった?

 入り口から差し込む光の色で、日が本格的に沈み出したのを知る。

 どうするべきだったかなど知らない。ただ、やらなければいけないと思ったことを、オレはやっただけだ。リクを守るために。そして自分を守るために。

 オレは両手をゆっくりと目の前で広げた。子供の頃と比べて随分大きくなった手は、かくかくかく、と指の関節を動かして開いた。

 昨日の深夜、人通りのほとんどないこの駅裏で、足音を忍ばせて✕✕に近づいていった。静かな、静かな夜だった。

 1度目に✕✕と相対した時のような恐怖は、不思議と感じていなかった。風に背中を押されているみたいだった。興奮からぞくぞくと粟立つように全身に鳥肌が立っていた。

 足音も、息の音も、最大限に押し殺していたはずなのに、それでもあの人はオレに気付いた。にやっとした顔で振り向いて、しかし近づいてきたのがリクではなくオレであったことに驚いたようだった。

『お前……っ』

 目を見開いて息を呑んだ、その一瞬の隙。

 オレはポケットから取り出した小型包丁を、一息に✕✕の腹に突き刺した。✕✕はじたばたと暴れたが、それでもオレは歯を食いしばって、獲物に噛みついた猟犬のように、その体を絶対に離さなかった。早く動かなくなれ。早く、早く──。血の匂いも握り慣れてない刃物の重たさも感じない。ただそこにある使命感。掴み掛かり、押さえつけ、のし掛かったまま、包丁を刺した。

 何度も、何度も。

 何度も、何度も。

 証拠は何一つ残さなかったはずだ。それに、表面上オレと✕✕の間に関係は無いも同然だったし、リクを虐める時だって人目につかないようにしていたはずだ。絶対にバレない。そもそも初めに罪を犯したのは向こうなのだし。……完全に動かなくなった人間から手を離して立ち上がり、額の汗をオレは袖で強引に拭った。幼馴染に電話を掛けたのは、明け方、✕✕の死体を通りかかった人が見つけて数時間が経ってからだ。あいつは出なかったけれど。


 ──ニュースを見たか。

 ──✕✕が、死んだよ。


 なあ、リク。

 オレは壁に寄りかかって、過ぎ去っていく人々を眺めながら一人で笑う。もうすぐ、夜になる。そしてまたじきに朝が来て、オレたちは永遠とそれを繰り返す。

 お前じゃないのか? そう必死な目で問いかけられて、とっさに肯定することができなかった。自分がそれにショックを受けていることに、今更のように気づく。理由もわからないまま。

 この手はもう汚れてしまった。お前に触れるなんてできないよ。でも、……そばにいてほしい。見つけてほしい。その頃にはオレも全てをさらけ出すだけの決心をつけたい。お前はいつか全てに気付いて、何と言うのかな。またありがとうと礼を言う? それとも、怒って怒鳴りつける? なんなら殴ってくれたって構わない。オレの行動は全て、結局はオレのためのものだったから。そしてオレは迷わずその行為ができたことを、決して後悔も恥じ入ることもしていない。むしろ誇りに思っているから。──リク。お前がいれば、オレには怖いものなんてもう何も無い。

 苦しみと寂しさの過剰摂取オーバードーズだ。

 卓球部の先輩たちが自分を痛ぶるときの顔、暗い中で初めて見た✕✕の表情が浮かんだ。怖くても痛くても、多くのことに関しては自分なんてどうでも良かった。でも、リクに手を出した時点であいつらの負けだ。あいつらは、自分たちが目覚めさせたものを真正面から見るがいい。夜の空気を肺いっぱいに吸い込んでハイになる、獰猛で狂気に満ち溢れたこのオレを。


 これから先、どんなことがあったとしても。


 ──お前のことだけは、失ってしまいたくないんだ。









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OVER DOSER 蘇芳ぽかり @magatsume

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