エピローグ

 まぶたを開けると、窓から射しこんだ陽光の明るさが生を実感させた。はじめに白い天井とカーテンレール、点滴のチューブが視界に入った。すぐに病院の一室だとわかる。

 ベッドの横で、漣と幸、澤井と山河が立っていた。彼女が覚醒したのを見て、一様に安堵の吐息を洩らす。

「美空ちゃん!」

 感涙した幸が抱きついた。「よかった、ほんとによかった……」

「僕たちのこと、わかる?」

 漣の問いかけに小さく首肯した。もちろんだ、忘れるわけがない。

 澤井も涙ぐみながら「おかえり、美空」と言ってくれた。「ただいま」と掠れた声で返す。

「気分はどうだい?」

 山河に訊かれ、「大丈夫です」と答えた。むしろ、いいくらいだ。

「美空ちゃん、泣いてるの?」

 幸に言われて気付く。頬を水滴がつたっていた。

「本当だ……でも……うん、大丈夫。ちょっと夢を見てただけだから」

「どんな夢だったんだい?」と澤井。

「それが、憶えてないんだよね」

「それはよかった」澤井は顔をほころばせた。

 美空は一瞬呆けたあと、「うん」と頷いた。涙がもう一筋流れ落ちた。



 なんとか上体を起こしたあとで、みなが状況を説明してくれた。そこで驚きの事実を知る。

 アメが行方不明であることを山河が伝えたあと、美空は音信不通になってしまい、消息を絶っていた。その間なんと一年――まるで浦島太郎だ。

 そして奇しくも、あの日からちょうど一年目となるこの日の朝、美空が君ヶ浦で倒れているのを発見されたのだった。幸い、軽度の栄養失調以外は特にからだに異常は見られず、今にいたるということだった。

 一年もの間、何をしていたのか、どうやってロンドンから海を渡ってきたのか、美空を含めわかるものは誰もいなかった。とはいえ無事だったのだから、ひとまず些細な問題だ。このあと待っているであろう煩わしいことなどいったん枠の外に押しやり、再会を喜んだ。


 澤井と山河は足す用事があるといって出ていき、病室にはイエティ倶楽部の三人が残った。

「あたし、アメくんに謝らなきゃ……」

 ベッドに腰かけた幸が申し訳なさそうに下を向いて言った。

「どうして?」

「もしかしたら、アメくんが美空ちゃんを連れていっちゃったのかなって思ってたから……そんなわけないよね。アメくんがそんなことするわけない」

 ありえない、と幸は頭をふった。

「それにね、夢を見たの」

「夢?」

「うん、アメくんが会いに来てくれた夢。何を話したかは忘れちゃったけど……」

「僕も見たよ。そのおかげで今日、朝起きて君ヶ浦に行かなくちゃって思ったんだ」

 漣も内容までは憶えていなかったが、そのことだけは頭の隅に刻まれていたという。

「それでね……美空ちゃんに渡さなきゃいけないものがあるの。多分、とっても大事なもの」

「なあに?」

 すると幸はポーチに手を入れた。出てきたのは木綿のハンカチだった。美空の目の前で、おもむろに布を開いていく。

 中身を確認した瞬間、美空がはっと息を洩らした。


それは、黄色い宝石だった。


真鍮の紐がついた首飾りだ。訊かなくてもその名前がわかる。

 さらに手に取って観察すると、ところどころ、わずかに紫色の部分があった。

「およそ信じられない話だけど」と漣が前置きして教えてくれた。

「君ヶ浦で倒れていた美空さんのすぐ傍に『イエティクラブ』がいたんだ。本物のね。本来、遠い沖合いの深海にいるはずだから、浜辺に流れ着くなんて考えられないんだけど……そのイエティクラブが持っていたんだ。大事そうに螯に巻きつけてね」

「きっとアメくんのだよ」

 また感極まった幸が目元を拭った。

「でもなんで黄色に……?」

「イエティクラブが棲んでいる近くの熱水噴出孔の温度があれば、アメジストが色を変えるなんてことも……もしかすると」

 およそ信じられない話だが。

 二人に促されて、美空は『シトリン』を首にかけた。そっと握りしめると、自分のものに交じって、もう一つの鼓動を感じた。

「アメ――」



 美空は一朗とともに、竜宮寺へ彼岸参りに訪れていた。数日後にはまたロンドンに旅立つので、これが手を合わせる最初で最後の機会だ。

 漣はいっそう勉強に励み、荒廃してしまった浪越の町の再建にいち早く協力できるよう目指すという。この出来事を決して無駄にしないと、意志を固めていた。

 幸は進学できたのはいいものの、ずっとどこへ目標を定めるか決めかねていた。だが今では、地震や津波の予測という祖父と同じ分野に進むことを、涙ながらに決意していた。

 山河は、医療センターこそ補修中でまだ再開のめどが立っていないとのことだが、仮設されたケア施設を中心に、責務として、被災したり大切な人を失ってしまった子どもたちの心のケアに熱心に取り組んでいた。

 澤井は野崎を誘い、流されて空白となった海辺の地に一時的にカフェをオープンさせていた。住居を失くした人や、復興に携わる作業員の憩いの場となっているのを、美空もその目でたしかめた。


 みなこの一年の間に、着実に前進していた。自分も歩みをとめているわけにはいかない。

 春の風を浴びながら、一朗とともに神崎家の墓を掃除する。その胸元にシトリンを耀かせながら。墓石の礎の脇に生えていたタンポポは、そのままにしておくことにした。

 お供え物の中には日本酒もあった。山河に渡されたのだ。今はまだ忙しいので、後日改めて自らも参りにくるそうだ。そのときは、もっといいお酒を持っていく旨アメに伝えるよう頼まれていた。

「悪いね美空ちゃん、手伝ってもらって」

「いえ、これくらい……どちらにしろ、ご先祖様にまた来るって言ってたので」

 まわりを見渡すと、お参りに来ている人は以前よりもずっと多い。墓石自体も増えていた。多くの人が大切な人を失った。その悲しみと弔いが、いたるところで滲んでいる。

 一段落して、あとは手を合わせるのみとなった。

「アメとばあさんも喜んどるよ」

 一朗が声を震わせた。

 アメと最後に会った絹絵は奇跡的に生きていた。医療センターには他にも屋上に逃げた人がいて、ヘリで救助されていた。その際、念のため内部も生存者がいないか捜索され発見されたということだ。


 避難所を経て家に帰った絹絵だったが、目前でアメを失ったその傷は深く、ひどく憔悴する日々だった。ただ不幸中の幸いといってはなんだが、その衝撃からか認知症は多少緩和されていた。久しぶりに一朗と慎ましく暮らしていたある日、夢枕にアメが立ったと言い出した。アメはまだ成仏できていないのだと悲嘆に暮れていたという。そこから絹絵は、元より毎日仏壇や神棚に合掌してはいたものの、加えて各地の神社や竜宮寺にも、一朗に頼んで足繁く通ったそうだ。

 浪越神社は社殿がほとんど押し流されてしまったが、辛うじて拝殿は原型をとどめ、御神体の鏡も無事だった。龍海神社もまわりの極相林はなぎ倒されてしまったが、社殿は軽微な損壊で済んでいた。

 絹絵は全霊をこめて拝んでいたと一朗は語った。そうして、美空が帰ってくるほんの数日前、まるですべての力を使い果たしたようにこの世を去ったということだった。


 墓地へ来る前に美空は、一朗の家の仏壇にも参っていた。仏壇にはアメの写真が置かれていて、こらえきれず視線を泳がせると、ふと仏間の隅に留まった。色の褪せた古いアルバムが積まれていた。一朗が気になるなら見てもいいというので開いてみると、若かりし頃の一朗と絹絵の姿が写真に納まっていた。

「昔のばあさんはなかなかきれいだろう?」

 背後に立った一朗が目を細めた。

 一方で、美空は狐につままれたような気分に陥った。なぜなら、そこに写る若き日の絹絵に会ったことがあるような気がしたからだ。どうしてだか、感謝の念が湧いた。

 墓の中にアメの遺骨はない。それでも、この場所からならきっと、思いは海を越えてくれるだろう。

 ――ありがとう、おばあちゃん、ありがとう、アメ。

 しっかりと手を合わせる。二人が向こうで再会できたことを信じて。頭の中で音楽を奏でながら――


〝ベートーヴェン『交響曲第六番』第五楽章・嵐のあとの感謝の祈り〟


「それじゃあ、行こうか」

 一朗に促され、「はい」と返事して美空は立ち上がった。階段を上って帰路に就く。極力、景色が視界に入らないように。アメや何もかも失ってしまった人たちのことを思うと、まだ街や海を臨むことはできなかった。直視するには相応の時間が必要だった。

 門の前まで来る。ちらと亀岩を一瞥すると、子どもたちが遊んでいた。感慨深い気分に浸りながら去ろうとすると、ぽつりと水滴が頬に当たった。

 ――こんな天気のいい日に雨なんて。

 思わず足をとめて空を見上げていると、笑い声が聞こえた。はっとまた亀岩を見る。


 アメがいた。亀岩の上で脚を組んで、いつかの日のように笑っていた。


 その姿は、子どもが飛び乗ったことで、あっけなくかき消えてしまう。

 さらに不思議なことが起こる。一陣の風が吹いて、その中にタンポポの綿毛がなびいていた気がした。そんなわけないのに。まだそんな時期ではないはずなのに。

 煽られるように、美空はふり返ってしまった。

 あっ、と小さく洩らして驚く。そこには、様変わりした街があった。

 海辺に近づくほど更地が目立つ。漁港やはれた食堂もない。浪越大祭の会場だった場所も、いまは殺風景な空間だ。


 それでも――


 重機や点のような人たちがたくさん動いていた。残された人たちで手を繋ぎ、復興が進んでいる。しんどくてしんどくて堪らないはずなのに、目を背けず向き合い続けている人たちがいる。生まれた町だから。住み慣れた地だから。大事な人と過ごした場所だから。

 ――わたしって、なんてバカ……

 思い出を美しいまま残そうと思うあまり、危うくそれからも目を背けるところだった。どんなに変わり果てた姿になろうとも、町を愛する気持ちは変わらないというのに。

 その向こうには、町とは正反対に以前と同じ海が広がっていた。

 浪越へ来て、太陽と月の眩しさを知り、空の高さを知り、雲の白さを知り、大地の呼吸を知り、海の蒼さを知り、この地球ほしに生かされているのだと知った。そのことまで忘れようとしてしまっていた。


 ――ああ、なんて。


「どうかしたかい?」

 一朗が立ちどまって声をかけた。

「いえ……」と言いながら、もっとよく見ようと美空は前髪をかき上げる。

「今日も、海がきれいだなって」


 シトリンが笑ったように煌めいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楽園のイエティ 前田 央 @maedahiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ