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『音楽は、どんな壁も超えて届くものだと思ってるの。もちろん、お母さんがこれから行くところにも。だから、きっとまたいつか美空が奏でた音を聴かせてね。楽しみにしてる』

 口元に淡い笑みが浮かんだ。美空はその手を握りしめ、何度も首を縦にふっていた。

 それが、母親との最期の会話だった。



「便利なもんだな」

 まあね、と美空はちょっとだけ得意げに言った。

 二人の前にまた岩が現れていた。亀岩に瓜二つの巨石だ。美空が最後の力をふり絞って出してくれたものだった。

 どちらからともなく、その上へすとんと腰を下ろす。肩が触れ合う。

 丸い月が出ていた。潮が引き、青白く砂浜を浮かび上がらせている。月の階段だ。

 そこにドビュッシーの〝月光〟が彩りを与えている。

「今わかった」

 月を眺めながら、唐突に美空が言った。

「何が?」

「漣くんが話してくれた、人魚の昔話の意味。……あれって、警鐘だったのかなって」

 言われてみれば。人魚に連れ去られてしまったという漁師の男、彼は、本当は波に攫われてしまったのだろうか。だとしたら人魚とは――

「俺もわかったよ」

 今度は美空が「何が」と訊いた。

「『月がきれいですね』って言葉の意味」

 月に限らない。美しいものは、ひとりより愛する人や親しい人と見ると、いっそう美しく感じられるのだ。最後にそれを知ることができてよかった。

 ふふっ、と美空がはにかむ。

「でも今度は、月から地球を観ることになるのかな?」

「そうだな。それも悪くなさそうだ」

 きっと地球も美しいに違いない。

 美空が夜道に迷うことのないよう明るく照らそう。ウサギたちとともに。

「連れていってくれないの?」

「俺は人魚じゃないからな」

 波は誰も攫わずに、引かねばならない。

 美空にはきっといつかまた、月を一緒に見上げるすてきな人が現れるだろう。それが自分でないのはすごく悔しい。けれど、その笑顔を見られるのなら案外悪くない。


「あ、イエティ!」

 美空の視線の先、月見岩の穴の中にイエティが立っていた。

 ずんぐりむっくりのからだに、純白の毛並が輝いている。その目元はにっこりと笑っているようで、バイバイするみたいに片手を上げていた。

 二人も同様に手をふった。神様もなかなか小粋なことをしてくれる。

 直後、世界が振動しはじめた。

「そろそろみたい……」

「そっか」

 もともと二人が分離してから崩壊ははじまっていたのだ。美空がこの世界を完全に諦めたことで、それがいよいよ本格的になった。

 きらきらと輝く砂粒みたいな世界の破片が、宙へと浮いていく。夢の終焉である。

 ずっと一緒にいたのだ。もう話すことは何もない。

 目を見合わせる。美空の瞳は潤みこそすれ、迷いなどは感じられなかった。

 互いに別れの言葉は決まっていた。未練を残すものであってはならない。かといって「さようなら」じゃ悲しすぎる。

 結局いつも通り。


『それじゃあ、また』


 まるで月が落ちてきたように、まばゆい銀色の光に包まれた。

 甘美なぬくもりに、すべての感覚が霧散していく。

 完全にその意識を手放すまで、アメは祈っていたことがあった。


 神様、最後に一つだけ願いを聞いてください。美空との約束をどうか。

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