8

「この世界は、美空、きみが創った世界だ」


 まっすぐ美空の目を見据えて、アメは告げた。

 願いはたしかに届いた。浪越を構成する材料きおくなら、いくらでも彼女の中にあった。それを丹精に組み立て、そしてできあがったのだ。美空にとっての楽園が。

 アメの中で、アメとともに、イエティ倶楽部の軌跡をたどった。幸福に満ちた日々だった。あのときまでは――

「そうだ、それなのに、急にアメジストとあの女の人が出てきて……」

 アメが君ヶ浦でアメジストを拾ったときから、入りこんできた記憶の奔流に追い出されまいと、美空はあらがっていたのだ。ところが、追い打ちをかけるように、アメは医療センターであの女性に出会ってしまった。女性の強い力によってついに本当のアメの記憶が溢れ、美空の意識は完全に追い出されてしまった。

 愕然と呻く美空に、アメは言い添える。

「でも、そのおかげで俺は記憶を取り戻すことができた」

 どういう力がはたらいたのかはわからないが、本当のアメの記憶を、アメジストが宿してこの世界まで届けてくれたのだ。


 そして、この世界の真実と美空の思いを知ることとなる。

 アメの強さとやさしさに憧れた。美空にとって、アメはまさにイエティだった。

 彼女がイエティのようになってしまったなんて、今思えば勘違いも甚だしい。イエティは他ならぬ自分の方だった。

 ならば、一緒にいていいはずがない。あの女性の〝解放してあげて〟という言葉、あれはアメの中にいた美空へ向けられたものだったのだ。だが同時に、やはり自分も受けとめるべきことだった。死者が生者の足を引っ張るわけにはいかない。この偽りの世界に、彼女を留めておいてはならない。

「もうわかっただろう、美空? 俺も、この世界も本当じゃないんだ」

 あくまで本物とよく似た模造品だ。体のいい幻想、甘い夢でしかない。

「それでもいい! アメと一緒にいられるなら!」


 それ以外は何も望まない。


 美空の切実な表情が胸を貫く。それでもアメは必死に言葉を紡ぐ。

「美空の願いはもう叶った。俺も……最後に会えて本当によかった。もう二度と会えないと思ってたから……けど、夢はいつか覚めなきゃならない」

「やだ、やだよ……アメとずっと一緒にいたいよ……わたし、アメにまだほとんど何も恩返しできてないのに……」

「そんなことない。俺は美空の母さんとは違う」

 美空の心の奥底には、後悔がわだかまっていた。彼女は母親からたくさんの愛情を与えられて育った。しかし母親は逝ってしまった。その愛に報いることができる日を待たずして。

 そこからようやく立ち直りかけたところへ、今度はアメがいなくなった。大事な人を立て続けに失った悲運と懊悩は、想像するにあまりある。そんな現実に美空の心が耐えられるはずがなかった。

「悔しいよな、わかるよ。俺もじいちゃんとばあちゃんに満足に孝行できなかったからさ。……でも俺は違う。俺は美空にいろんなもんいっぱいもらった。美空と出会ってからが、間違いなく人生で一番幸せだったんだ。それに……雨も嫌いじゃなくなった」

 傷だらけで絶望にくれた雨の夜もあった。それも今では転機を与えてくれた恵みの雨だとすら感じる。そう考えられるようになったのも美空のおかげだ。

「こんな世界まで用意してもらって、美空も同じ気持ちだったんだなって知れたんだ。幸せすぎて、バチが当たっちまうぜ」

 へへっと、アメは目尻を濡らしながら笑った。強がりなんかじゃない。純粋にそう思う。愛した人を幸せにできたなら、十分いい人生だったと胸を張れる。

「アメがいない世界で生きていくなんて、わたしには無理だよ……!」

 首をふり乱し、なおも美空は現実にあらがう。

「向こうには漣も幸も、マスターや山河先生だっている。みんな、美空が帰ってくるのを待ってる」

「そんなの関係ない! ……アメはわたしと一緒にいたくないの?」

 泣き腫らした目で美空が見上げてくる。

「いたいさ……いたいに決まってる!」

 できることなら、現実の世界で成長して帰ってきた美空の姿を見たかった。その後の活躍を誰かに誇りたかった。もっと一緒にご飯を食べ、一緒に寝て、一緒に遊びたかった。その傍にいたかった。年老いるまでずっと――

「だったら!」

 声を荒げた矢先、美空ははっと天を仰いだ。気付いたのだ、また世界に流れはじめた音楽に。

「ベートーヴェンの第九?」

 美空でなくともすぐにわかっただろう。そのもっとも有名な第四楽章だ。

「憶えてるか? 年末に、この曲のことを教えてくれたよな」



 ――高校三年の十二月、年の瀬も迫った日だった。

 かねてより美空が行きたがっていた、第九の年末コンサートに行く約束をしていた。やりたかったことをできる内にやろうという腹づもりだったのと、そのときすでに留学を決めていた美空への、アメなりエールのつもりだった。

 ところが計画は頓挫する。直前になって美空が風邪を引いてしまったのだ。仕方なく、チケットは澤井と野崎にプレゼントし、二人で楽しんできてもらうことにした。アメは美空の部屋で看病にあたった。

「ごめんね、せっかくチケット買ってくれたのに……」

 ベッドの上で美空は申し訳なさそうに布団の端を握った。

「いいさ。またいつか機会あるだろ」

 残念ではあるが、彼女が帰国してからの楽しみにとっておくことにした。

 その代わりといってはなんだが、第九のCDも美空は持っていたのでコンポで再生することにした。すると彼女は、おわびのように各楽章を解説してくれた。

 寒空のもと、暖かい部屋で二人、第九の調べと美空の声を聴いているのは、それはそれで幸せな時間だった。



「ごめんな、コンサートには一緒に行けないみたいだ。だからさ……」

 せめてもの償いだった。美空とずっと一心同体だったのだ。自分にもそれくらいのことはできるのではないかと思い、心の中で第九の旋律を強くイメージしてみたのだ。上手くいってくれてよかった。

「本当に、ずっと音楽に囲まれて生きてたんだな。そのおかげで、俺もいろんな曲のメロディ、完全に憶えちまったよ」

 美空にとって、生まれつき身近だった音楽は、楽しいときは気分を盛り立て、苦しいときはやすらぎをもたらしてくれる、かけがえのないものだった。だから、ずっと聴いていたかったのだ。途切れることなく。

彼女にとってこの世界は終わらない音楽でもあった。常に心地よい音に触れていたから、わざわざ雨を降らせる必要もなかったのだ。

「でも……どうして第九?」

「それは、俺より美空の方がよくわかってるはずだ」


 ――第一楽章は『宇宙の創造と混沌』

 ――第二楽章は『お祭、人々と神々の酒宴』

 ――第三楽章は『清純に満ちた自然』


 第四楽章に入り、熱に浮かされながらも美空はそれまでの三楽章を総括した。

「でもベートーヴェンは、第四楽章でそれまでせっかく創りあげた三つの世界を全部壊しちゃうんだ。『自分が求めていたのは、こんなものじゃない!』っていうふうに。そうしてどん底を味わったけど、そこでやっと忘れていた〝生きる希望〟を見つけだすことができたの。有名な『歓喜』の旋律ね。――けどベートーヴェンは、その喜びすら否定した」


「どんな感動も、それを分かち合う仲間がいなけりゃつまらないって気付いた」

 美空の部屋であのとき教えてくれたことを、確認するようにアメが言った。

 折に触れて、独唱がはじまる。


 〝O Freunde, nicht diese Töne!〟

 (おお、友よ、この響きではない!)


 そのフレーズを拝借し、歌うように、アメは高らかに宣言した。


『おお、愛しき人よ、この世界ひびきではない!』


 美空の生きるべき世界は、ここではない。聴くべき音は、これではない。

 そして独唱は合唱へ移ろう。あらゆる人々を巻きこみ、爆発的な『歓喜の歌』が轟く。ベートーヴェンが最後にやっとたどり着いた、真の喜びだ。


 〝Freude!〟(喜びよ!)


 このときばかりは、いっとき美空も呆けたように上を向いて聴き入っていた。

「辛いときは幸せな記憶に逃げたっていい。けど、いつまでも閉じこもるのは違う」

 ズボンのポケットを探りながら、アメは美空に近づいた。そして、丁寧に折りたたまれたそれを渡す。

「これ……」

 例の、彼女が子どもたちに囲まれている新聞の記事だ。

 美空がロンドンへ渡ったのは、将来的にNGOのような団体へ参加するためだった。他人より感応力の高い彼女は、兼ねてより世界中の貧困、食料不足、教育を満足に受けられない子どもへ憐憫を抱いていたようだ。そこから下した選択が、自ら手を差し伸べる道だった。イギリスはそういった活動が活発で、人権や社会貢献を学べる場や機会も多いのだという。それに語学力を養うこともできる。留学する決め手となった。

 写真は修学の一環で団体の活動に参加した際、たまたま撮影されたものだそうだ。地元の新聞に掲載されたのを、美空がコピーしてトリコットへ送った。アメも当然、目を通したし、澤井は現実の店内で額縁に入れて飾っていたはずだ。

「なんでこれがこの世界に……?」

「そんなの決まってる。それだけ嬉しかったからだ」

 美空はこの世界を創造するに際して、自分に関する情報や形跡の一切を取り入れなかった。現実から目を背け続けるために。だがそれでも――

「知ってるだろ? 焼きついた記憶は、噛みしめた幸せは、そう簡単には消えないんだ」

 自分の前にときおり現れていた美空の幻影もまた、同じように意図せず混じってしまった記憶の残滓だった。それをずっと、自分自身で追いかけていたのだ。

 ふと美空の頬の横を、浮遊する白い小さなものがかすめた。

「タンポポの綿毛……?」

 君ヶ浦に無数のタンポポの綿が飛んでいた。美空は雨が降りはじめたときみたいに手の平を上に向けた。

「ロンドンに発つ前、一緒にお参りしに行ったよな。そのとき、俺がお願いしたのは――」


『美空の願いが叶いますように』


 美空が「アメとまた逢えますように」と願っていたその隣で。

 彼女の表情が驚愕に歪む。

「もちろん、美空とまた逢えたのはすごく嬉しい。……けど、俺の願いはそれに対してじゃない」

『世界中の子どもたちが夢を持てるようにするのが、わたしの夢』

 さとやま公園で美空が呟いた言葉は、ずっとアメの心にも残っていた。


 〝Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt;〟

 (あなたの魔法が、運命に引き裂かれてしまったものたちを再び結ぶだろう)

 

 〝Alle Menschen werden Brüder,〟

 (そして人々は兄弟となる!)


 第九のシラーの詩が、二人を寿ぐように降り注いでいる。

「俺は美空の魔法で、最後に十分いい夢見させてもらった。だから今度はその力を、自分の夢のために、世界中の子どもたちのために使ってくれ」

 いつかまた、写真のような光景を実現するために。

 

 〝Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuß der ganzen Welt!〟

 (万の民よ、抱きあおう! そしてこの幸福をあまねく世界へ分け与えるのだ!)


 〝Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen.〟

 (兄弟たちよ、この空の上には必ず神がいるはずだ)


「たしかに、タンポポもいいもんだな」

 今さらになって理解した。

 ひまわりみたいな大輪の花じゃなくたっていいのだ。路傍に健気に咲いて、通りすがった人をいっとき笑顔にしてくれるような、そんな野花だって美しい。そして綿毛を飛ばし、また別の地で誰かを笑顔にする。もちろん、そこに国境なんてものはない。

「この綿毛みたいに、美空の幸せを世界中に分けてやってくれ」

 それが、他ならぬアメの願いだった。


 案ずることはない。例え美空がまたいつか困難にぶつかることがあっても、清く正しく生きてさえいればきっと神様は救けてくれるはずだ。

 盛大な合唱も終局を迎える。歓喜に打ち震え、己の道を突き進む勇気を燦然と歌い上げて。

「さあ、帰ろう」

 互いの本来、在るべき場所へ。

 美空は唇を噛んでうつむいていたかと思うと、両手をぐっとアメの胸元に置いた。さらに頭を下げ、おでこをうずめた。万感の思いが全身に伝わる。

 すすり泣く声を、アメは眼差しに慈愛を浮かべ、静かに聞いていた。いつまでも――

 気付けば、高く澄んだコーラスが響いていた。それはどんどん大きくなり、はるか天を突き上げる。乗せられるように、綿毛が上空へと舞い上がっていた。

 第九のフィナーレだ。それが答えだった。


「ありがとう、美空」

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