7

 社会に出て、はや一年が経とうとしていた。

 浪越のデイサービス施設で働くアメは、午後からレクリエーションの仕事をこなしていた。通所者たちの頭とからだの体操だ。ときに声を張り上げたり、拍手して盛り上げる。右も左もわからなかった就業当初に比べれば、ずいぶん慣れたものだった。

 外ではうららかな日差しが降りそそぎ、動植物がそっと息を吹きかえしはじめる季節である。


そんな、およそ天下太平という日になんの前触れもなくそれは訪れた。

 突如、足元が揺れた。

 すぐに地震と知れたが、はじめは特段驚くのほどのものではなかった。ちょっと待てば治まるだろうという程度だ。ところが、揺れは治まるどころか、反対に大地がいななくような激震へと変わった。

 これは尋常ではないと誰もが悟った。あちこちで悲鳴や怒号が飛び交う。とっさに身近にいた通所者たちを誘導し、一斉に机などの下に身を潜りこませた。棚や壁から物品が落ちる音がひっきりなしに聞こえ、照明が消えた。外では、防災無線からサイレンと注意を促す警告が響き渡っていた。


 やけに長かった揺れがようやく治まると、一瞬の静寂ののち「終わったか」と、たまたまアメがかばっていた老人男性が言った。

 すぐに職員たちで打ち合わせがなされた。とりあえず物が散乱する施設内は危険だろうということで、通所者たちを誘導して全員いったん屋外へ退出した。

 街ではサイレンとともに津波や土砂災害の警報が続々と喧伝されはじめた。幸いにしてアメの勤務先は海や山から離れているため、急を要する避難は必要なさそうだった。とはいえ、通所者たちをどうするかなど見通しが立てられる状況でもない。余震の心配もある。

 ――じいちゃん、ばあちゃん、無事か?

 胸がざわつく。ふと、シャツの襟元にしまいこんでいたアメジストを取りだすと、一瞬不気味に光った気がした。


      ***


 テレビの横には四人が写るフォトフレームが置かれ、幸がくれた首飾りがかけられていた。その隣にはタンポポのハーバリウムもある。


 その光景を、美空はロンドンの自室で呆然と見ていた。普段あまりテレビは点けないが、同じアパートの友人が、日本ですごい地震があったようだと知らせてくれたのだ。

 沿岸部の街を、恐ろしい濁流が襲っていた。土砂や瓦礫が混じって黒ずんだ海水が一切を呑みこんでいき、自動車や船体さえ軽々と押し流していた。

 息をするのも忘れた。淹れたばかりのコーヒーが冷めていくのもそのままに、美空はからだを微動だにさえできなかった。

 映像は被災した各所へと切り替わり、その中には浪越のものもあった。

 漁港の様子が映し出されていた。土色の海水に満たされ、面影すら見出すのも難しい。それでも、ほんの刹那でもわかったものがあった。……はれた食堂の屋根があった。


『――帰ってきたらぜひ寄ってね』


 女将さんの言葉と、手の感触が蘇る。

 思い出の地が流されていく。脱力感がからだを支配する。それでも、震える手をなんとか動かして美空は電話をかけた。アメをはじめ、漣や幸、澤井や山河――結果はすべて同じで、誰にも繋がりはしなかった。

 そうなると、できるのは祈ることくらいだった。その日は食事もとらず、一日中自室に籠って手を組んでいた。


 ようやく澤井から連絡があったのは、数日後だった。

 幸い、トリコットまで津波は届かず、無事だと報告してくれた。だが停電や断水はずっと続いているため、現在は避難所で生活しているという。幸や、春休みで帰省していたという漣とも連絡がつき、同じような状況だった。ひとまず存命にほっとする。

 しかし唯一、アメはいつまで経っても応答がなかった。経過とともに悪い想像ばかりが膨らんだ。

 一報が入ったのは、さらにそれから何日かあとだった。それまでほとんど眠れず、髪はぼさぼさで、目の下には大きなくまができていた。

 胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、それは山河から伝えられた。

『美空さん、落ち着いて聞いてほしいんだが――』

 何度も救われた、安堵を感じさせる山河の声だ。いつにも増して、意識的にそうしているように思えた。だが、このときばかりは効果はなかった。

 話が進むにつれて意識が朦朧とし、美空の視界は白く染まっていった。


      ***


 対向車線を消防車と救急車が連なって過ぎていった。街頭では、あちこちでブロック塀が崩れたり古い家屋が潰れたりしていて、人々が右往左往するか呆然と立ちすくんでいた。


 アメは去年買ったばかりの軽自動車を運転して医療センターへ向かっていた。嫌な予感を払拭しきれず、同僚に頼みこんで仕事を抜け出させてもらったのだ。申し訳なさはもちろんあったが、ありがたいことにアメの家庭事情を知る職場の人たちなのでそれを許してくれた。

 実家へ帰ると、中は散乱した家財道具が転がるなど荒れていたものの、幸い一朗は怪我もなく無事だった。互いに胸を撫で下ろし、アメは大きめの家具を起こすのだけ手伝って、息つく間もなく車に舞い戻った。次は祖母の安否だ。


 窓の外からは、「海辺へ近づかないように」という警告も聞こえてくる。まさか、あの高台の岬まで津波が届くとは思えないので、その心配はないだろう。だが施設柄、周囲のパニックに流されて、祖母が何かしらの事故に遭う可能性はある。そう考えると、いてもたってもいられなかった。


 医療センターへ延びる道路へ差しかかると、対向車と何度かすれ違った。倒木や土砂に塞がれているのではないかと懸念していたが、そういったことはなさそうでひとまずほっとする。

 途中、前から来た車を見てアメはブレーキを踏んだ。向こうも気付いてくれ、停車させた。

「先生!」

「アメくん、来たのか!」

 互いに車を降りて向き合った。運転していたのは山河だった。

「どこに行くんですか?」

「職員総出で患者を避難させているんだ」

 山河の話では、建物は今のところ無事だが、念のためバスや職員の車で安全な場所まで避難させることになったそうだ。見ればたしかに助手席や後部座席に人が乗っていた。

「うちのばあちゃんは?」

「すまないが、見てないね。ただ、まだ医療センターにいるとは思う」

 入院患者は年齢の高い順に優先して乗せているそうだ。それでもまだ大勢いて、絹絵くらいの年齢層だと残っている可能性が高いとのことだった。

 礼を言って自分の車に戻る。

「向かうならくれぐれも気を付けるんだよ」

「先生も!」


 医療センターの門を抜けると、職員や患者たちがエントランスや庭園の側で溜まっていた。車椅子の一団がいたり、逃げる途中でケガをしたのか介抱を受けている人もいた。さっと一望するも、祖母の姿は見当たらない。

「まだ中にいるのか!?」

 駆け足で開きっぱなしの自動ドアをくぐった。こちらもひどい散らかりようだった。その上、自分の部屋に戻ろうとする患者を職員が説得していたりして、混沌としていた。

 アメはまっすぐ祖母の居室に向かったが、そこにはいなかった。

「クソッ、どこ行ったんだ!」

 憤懣しても仕方ないので一度気を鎮めると、そこが思い当たった。

 祖母のお気に入りの場所――三階のバルコニーだ。

 はたしてそこに、絹絵はいた。

「ばあちゃん!」

「あら、ケンゾウさんじゃない。お久しぶりね」

 訂正している余裕はない。すぐに車椅子からそのからだを持ち上げようとすると、

「どちらへ? 今日は海がいつもと違うから、見ていたいのに」

 そう言うので思わず目をやると、海は普段とは見違えるものだった。

 潮位が異常に高くなり、医療センターを囲む木立にときおり波が乗り上げていた。膨れ上がった水面は、まるで巨大ながま口が今にも開こうとしているようだ。

 さっと顔が蒼ざめる。これはもしかすると、本気でまずいんじゃないか。

 呑気な祖母を強引におぶって、アメは外へ急いだ。エレベーターは使えないので、階段を使うしかなかった。焦れつつも、落ちたりしたら元も子もないので、一段ずつ慎重に下っていく。


 そして、ようやく一階まで降りたときだった。視界の端で何かが蠢いた。みしみしという嫌な音がして、間髪おかずに扉のガラスが砕け散った。

「ウソだろ!?」

 おぞましい声が聞こえたかと思うと、その怪物は廊下を這ってまたたく間に足下に迫り寄ってきた。

 とっさにアメは階段をまた上ると、踊り場に祖母を放った。悪あがきかもしれないが、せめて祖母だけは、という思いだった。

 直後に足をすくわれた。転倒してからだが下へ引きずられる。抗いようのない凄まじい力だった。

「アメ? あなた、アメなのね?」

 そこにきて、ようやく絹絵は思い出したようだった。

「ばあちゃん、逃げて!!」

 それだけ叫ぶので精一杯だった。アメは顔まで呑みこまれた。

 冷たい、苦しいという感情が渦巻く。だがそれ以上に申し訳なさが立った。海水に浮いたアメジストを強く握りしめ、アメは異国にいる想い人の顔を浮かべた。


 ――約束、守れなくてごめん、美空。


      ***


 足が地上を離れ、遠く雲の上を漂っている心地だった。揺曳する意識の中で、唯一、聴覚だけがはっきりしていた。

 懐かしい音が鳴っていた。幼い頃、数えきれないほど夢の世界へと導いてくれた、甘くやすらぎに満ちたメロディだ。聴き入っていると、いつのまにか無垢で自由で楽しいことしか考えなくてよかった日々の中にいた。

 お母さんの背中があった。料理を作っている背中、掃除をしている背中、車のハンドルを握る背中、そして、ピアノを弾く背中――当たり前のようにいつもそこにあって、これからも当たり前のようにあり続けるのだろうと思っていた。

 ふと、指を動かしながらお母さんがこちらを向いた。そのやさしい笑顔に、じんと心が熱くなる。しかし次の瞬間には、その顔はひどくやつれていた。


 病室にいた。

目の前には、頼れる背中を見せてくれていた頃とは、見違えるお母さんの姿があった。痩せ細ったからだに管を巻きつけ、艶やかだった黒髪もなくなりケア帽子を被っていた。にも関わらず、自分の手を握ってくれていた。本来は逆であるべきなのに。


『そんな顔しないで美空。安心して、お母さんは見えなくなっちゃうかもしれないけど、ずっと美空の傍にいるから。神様や仏様と一緒。それでも不安なときは、音に耳を澄ませて。見えないものを信じる力を、きっと与えてくれるわ』


 母親が亡くなったあとのことは、しばらく記憶になかった。気付けば山河と向き合っていた。カウンセリングを通して、美空は母親に言われたことを実行した。すると、少しずつだが心が潤いを取り戻していくのがわかった。頭に音楽を再生していれば、怯懦もいくらか克服できるようになった。そのおかげで大切な人たちもでき、夢へと踏み出せた。母親という音の代わりを、世界に見出せるようになっていた。

 もう大丈夫だ。生きていけると思った。


 なのに――


 受け容れがたい事実だけが反芻していた。

 どれほどそうしていただろうか。やがて絶望を煮詰めた先に、美空は希望を見出した。

 ――アメが死んだなんて、そんなわけない。だって、ちゃんとお願いしてきたんだから。

 浪越神社へ、龍海神社へ、亀岩へ。

 発つ前に、手を合わせられる場所ではすべて同じことを願った。


『アメとまた逢えますように――』


 はたから見れば、互いの健勝と無事を願うありふれたものだろう。

 だが美空にとっては、それが持つ意味合いの大きさははかりしれない。なぜなら普段、感謝こそすれ神頼みなどしない彼女の、久しぶりの願いだったからだ。

 突如、まばゆい光が現れた。その光に包まれると、心とからだに力がみなぎっていくのがわかった。希望に溢れた、どんなことをも可能にする力だ。神様がくれたものに違いなかった。その使い途を、美空は瞬時に理解した。


 はじまりの音が響き渡った。

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