後編

「う……ん」


 少年は声をもらしながら、瞼を開きました。目に映ったのは、見慣れた自室の天井ではなく、夜空と、それを赤く染める炎でした。悲鳴や怒号、うめき声、炎の燃える音も一斉に耳に入ってきます。


「そうだ! 野盗が……!」


 少年ががばりと上半身を起こすと、それまで少年の胸に乗っていた何かがどさりと地面に落ちました。反射的にそちらを見た少年は、それが何であるかに気づいて、慌てて手を伸ばしました。


 地面にぐったりと横たわる少女の体を助け起こしながら、少女の名前を呼びます。ですが、少女の目は固く閉じられたまま、指先がぴくりと動くことさえありません。


 少女の全身に視線をさっと走らせた少年は、少女が大きな怪我をしている様子はないことを確認しました。


 ならば少女は恐怖や衝撃で気を失ったのだろうか、と考えた少年は、少女の体を抱き上げ、立ち上がりました。周囲を見回すと、先程目を潰してやった野盗の男が、少し離れた所でまだうめいています。


(あれ? そういえば、僕、あいつにばっさり切られたんだったよな?)


 少年は自分の胸元を見下ろしましたが、血まみれの服の間からのぞく肌には傷一つありません。


(傷が消えてる?)


 血の痕からして、怪我を負ったのが夢だったということはないでしょう。不可解な現象に少年は眉をひそめましたが、今はそんなことを考えている場合ではない、と頭を切り替えました。


(とにかく森に逃げないと……)


 少女を抱いて、野盗の男の傍を通り抜けた少年は、他の野盗に見つからないように物陰に隠れながら、何とか村を囲む柵を越えて森へと入りました。


 森は木々の作り出す濃い闇に覆われ、村を蹂躙する炎の輝きもここまでは届いてきません。ほっと安堵の息を吐いた少年は、それでも警戒を完全には解かないようにしながら、地面に座り込み、少女の頬を軽く叩きました。


「もう大丈夫だよ。起きて」


 そうささやきますが、相変わらず少女は何の反応も返しません。


(頭を強く打って昏睡状態に陥ってる、とかじゃないよね?)


 心配になった少年は、少女の口元に指を当てました。そしてぎょっと目を見開きます。


「息して……ない……?」


 呆然とつぶやいた少年は慌てて少女の胸に耳を当てました。ですが、心臓の鼓動は伝わってきません。少女の胸は呼吸のため上下に動くこともなく、ただ凍りついたようにそこにあるだけです。


「う……嘘だ……。何で……」


 先程ざっと確認した限りでは、少女の体に致命傷になるような怪我はありませんでした。少年が見落としたのでしょうか。


(いや……そんなことはどうだっていいんだ)


 今何よりも優先して考えるべきなのは、なぜ少女がこんな状態になってしまったのか、ではありません。どうすれば少女を救えるか、です。


(お医者様に診せて……でも、お医者様はどこにいるかも、無事でいるかもわからないし……)


 ぐるぐると思考を巡らせる少年の頭に、ある人物の顔が浮かびました。


「そうだ! おばさんなら……!」


 薬師であり魔女である少女の母親ならば、少女を救う手立てを持っているかもしれません。


 そうと決まれば、一刻も早く少女の家に行かなければ、と少年は立ち上がりました。少女の母親はもう家から逃げている可能性が高いですが、少女を置いてそう遠くまで行っているとは思えません。家の近くに身を隠して、少女が戻るのを待っているのではないでしょうか。


 その可能性に賭けて、少年は村の周囲をぐるっと回るように、森の中を歩き出しました。


 森の中は足場が悪い上に暗闇で足元が見えないので、どうしても歩みは遅くなります。このままでは手遅れになってしまうのではないか、という思いがじりじりと少年の胸を焼きますが、野盗が荒らし回っている村に戻るわけにも行きません。


 少女の体をぎゅっと抱きしめながら、少年は焦りを抑え込み、一歩一歩足を進めました。

 そしてどれだけの時間が経ったか、そろそろ少女の家がある村外れまで来たはずだ、と判断して森から出る方向に足を向けました。


 万が一にも野盗に見つからないように慎重に森の外を窺い見た少年は、あっ、と声を上げました。


 森のすぐ傍に立つ少女の家が、炎に包まれていたのです。野盗はこんな村外れまで見逃さずに獲物を物色しに来たようでした。


 少年は咄嗟に木の背後に隠れ、息を潜めました。少女の家を焼いた野盗がまだ近くにいるかもしれない、と考えたのです。


 しばらくその体勢で耳を澄ましていましたが、炎が少女の家を呑み込んでいく音以外には、近くから物音は聞こえません。


 少年はおそるおそる森から出ました。


(おばさんはどこだろう。まさかまだ家の中にいたりはしないよな?)


 もしくは、考えたくもないことですが、家の中で野盗に殺されてしまっているかもしれません。


 少年は家に近づき、窓から中をのぞいてみようとしました。少年が木窓に手を伸ばしたその時、何の前触れもなく、目の前の壁が少年に向かって倒れてきました。


「わああっ!」


 少年は後ろに跳んで炎に包まれた壁をよけようとしましたが、その足元がぐらっと傾きました。少年が着地したのは石の上だったのです。


 少女を抱いていたせいもあって、少年は体勢を保ちきれず、地面に転がってしまいました。その拍子に少女の体が少年の腕から飛び出して、少し先の地面に落ちます。


 少年は少女の名前を呼んでそちらに手を伸ばしましたが、次の瞬間、悲鳴を上げました。背中の上に燃える木材がガラガラと崩れ落ちてきたのです。激しい熱と痛みが少年の体を包みます。


(熱い、痛い、熱い……!)


 少年は絶叫しながらがむしゃらに両手両足を振り回して逃れようとしましたが、足が木材に挟まれてしまっているようで、うまく動きません。

 耐えがたい炎の責め苦は続きます。やがて少年は、逃れるように意識を手放しました。






 誰かが自分を呼ぶ声に、少年は目を開けました。自分が片頬を地面につけて倒れ伏しているのを、一拍置いて理解します。空に向いているもう片頬には暖かな日差しが燦燦と降り注いでいます。時刻は朝の半ばといったところでしょうか。


 少年が視線を動かすと、自分の横の地面に膝をついている女性の姿が目に入りました。


「おば、さん……?」


「良かった。気がついたわね。そこから出てこられる?」


 少年が頭を持ち上げて背後を見ると、黒く焦げた木材が体の上に積み重なっていました。燃える壁の下敷きになったのだった、と少年は思い出します。炎はもう消えているようです。


(あれ? でも僕確か炎に焼かれて……けど、生きてる?)


 不思議なのはそれだけではなく、火傷を負っているはずの背中や足には痛みさえありません。首を傾げながら少女の母親に視線を戻した少年は、はっと目を見開きました。


「そうだ! おばさん、大変なんです! あの子が……!」


 さっと周囲を見回すと、少し離れた場所に少女の体が横たえられています。


「おばさん、あの子を助けてください! 息をしていないし心臓も動いてないんです。早く薬を飲ませるかどうかしないと……!」


 少年の言葉に、少女の母親は目を伏せましたが、すぐに厳しい表情で少年を見つめました。


「あの子を救うために私たちができることはないわ。だから、あなたをこの瓦礫の下から出すことを考えないと」


「……できることはないって、どういう意味ですか? まさか……」


 青ざめた少年の肩を、少女の母親は強い力でつかみます。


「いいから、私の言うとおりにして。――今はあなたを助けることが、あの子のためなのよ」


 少年は呆然としつつも、何とかうなずきました。とにかく瓦礫の下から出て自由にならなければ、少女の元に行くことさえできないのです。


 少年が体を起こすと、背の上の瓦礫がガラガラと地面に落ちます。少年はそのまま前に這い出ようとしましたが、足が何かに引っかかってしまいます。


「どうしたの? 立てない?」


「足が木材に挟まれちゃってるみたいで……」


 少年は力いっぱい足を引っ張りましたが、足はどうしても抜けません。


「ちょっと待って。これをどかして、こっちを持ち上げれば……どう?」


 少女の母親が木材を持ち上げて隙間を作ってくれたので、少年は何とか足を引き抜くことができました。


「ありがとうございます」


 お礼を言ってから、少年は少女の元に駆け寄りました。


「おばさん、この子の手当てを……!」


 歩み寄ってきた少女の母親は、悲しみもあらわな顔で首を振りました。


「この子はもう……死んでいるわ」


「……そんな! ……やっぱり頭を殴られたかどうかしたんですか? そうだ。きっとあの男が殴ったんだ。僕があの男をちゃんと倒せていたら……!」


 少年と少女を襲ってきた野盗の男の目を潰すだけでなく、止めを刺していれば、少女が死ぬような事態はきっと防げたでしょう。そう考えると悔やんでも悔やみきれず、少年はやり場のない思いを吐き出すように地面に拳を叩きつけました。


 しかしその時、少年の耳に静かな声が届きました。


「この子が死んだのは、怪我のせいではないわ。――魔法を、使ったからよ」


「魔……法?」


 少年は戸惑って瞬きしながら、少女の母親の方を見ました。


「でもこの子は魔法は使えないって……」


「ええ、普通の魔法はね。でもたった一つだけこの子が使えた魔法……呪術があるの。それが何かは知っている?」


 なぜ少女の母親はそんなことを訊くのだろう、と頭の隅で考えながら、少年は首を振りました。


 少女が死んでしまったという事実をまだ呑み込みきれない少年にとっては、他のことを考えるのはほっとできることだったのです。


「この子が唯一使えた呪術……かけられた呪い。それは、不老不死の呪いよ」


「不老不死の呪い……」


 少年はぼんやりとその言葉を繰り返しました。頭の中で何かが引っかかったような気がしますが、それが何なのかうまくつかめません。


「だけど、呪いには代償が伴うわ。不老不死の呪いの代償は、術者の命なのよ」


「じゃあ……この子は誰かに呪いをかけて、それで死んだってことですか?」


 少年が回らない頭で何とか問いかけると、少女の母親はうなずきました。


「でも、そんな呪い、一体誰に……」


 その先を考えてはいけない、と少年の頭の中で警鐘が鳴り響きます。不意に息苦しくなって、少年は喉元を押さえました。


「その服」


「……え?」


「あなたの服、血まみれだわ。でもあなたはどこも怪我をしていない。そうよね?」


 少女の母親は、少年の胸元を指差してそう尋ねてきます。


「そう……みたいです、けど……」


「背中も、服は焼けてほとんどなくなっているけど、火傷の痕はないわ」


 淡々と告げられる言葉は、少年の喉をじわじわと絞めつけるようで、少年はもうほとんど呼吸ができませんでした。喘ぐように、何とか言葉を押し出します。


「何が……言いたいんですか……」


 尋ねながらも、少年はその答えを聞きたくありませんでした。でも、少女の母親は無情に言葉を続けます。


「この子はあなたに不老不死の呪いをかけたのよ。おそらく、大怪我で死ぬはずだったあなたを救いたくて」


 その言葉に少年は、頭を激しく殴られたような衝撃を受けました。


(この子は僕のせいで死んだ……?)


「そんな……違う……僕は……」


 少年は力なく首を振りました。護りたかった少女が自分のために死んでしまった、という事実は、少年にはどうしても受け入れられないものだったのです。


「僕は……僕は、不老不死なんかじゃ……きっと何かの間違いです。怪我が治ってるのには、きっと何か別の理由が……」


 とにかく否定したくて言葉を並べますが、それがどこまでも虚しいことは、少年が一番よくわかっていました。


「この子があなたに不老不死の呪いをかけたと考える根拠はもう一つあるわ。呪いを成功させるには条件があるのよ」


 少女の母親の言葉に刺激されて、少年の頭の中で数年前に聞いた少女の言葉が響きました。


『呪いを成功させる条件は、術者が対象者を愛していることなんだもの』


「この子が僕を、愛していたから……?」


「知っていたの?」


 少女の母親の声に驚きが混じりました。


「ええ、そうよ。呪いは、本当に愛している者相手にしかかけられない。この村でこの子がそれほど愛していたのは、私とあなただけだわ」


「そんな……」


 ぽつりと少女の頬に一粒の雫が落ちました。そのままぽたりぽたりと雫は降り続きます。それが自分の涙だと、少年はしばらく気づけませんでした。


「そんなの……僕だって……君を愛しているのに……君に生きていてほしかったのに……」


 少年にとって、少女は最愛の人でした。何度も想いを告げようとして、でも少女の反応が怖くて、ためらっていました。何も急いで告白しなくても、まだいくらでも時間はあると、そう思って先延ばしにしていたのです。


 そのまま永遠に想いを打ち明けられなくなる日が来るなんて、考えたことはありませんでした。こんな日が来るとわかっていたら、一日も無駄にせず少女に想いを伝えていたでしょうに。


 そう思うとやるせなくて、自分が赦せなくて、少女が恋しくて、少年は嗚咽をこぼしました。胸の中に渦巻く様々な思いを全て吐き出すように、恥も外聞もなく、泣いて泣いて泣き続けました。


 どれくらい泣いたのか、少年がようやく重い頭を上げた時、少女の母親は傍にいませんでした。しばらく前に何か声をかけられたような気もしますが、何を言われたのかは憶えていません。


 涙が涸れ果ててしまったように感じながら、少年はぼんやりと少女の顔を見つめました。その顔は安らかで、ただ眠っているだけのようにも見えます。けれど触れれば冷たく硬く、やはり生きている人間の物ではありません。


 背後から足音が聞こえます。誰かが近づいてくるようですが、少年は振り向きませんでした。野盗の残党である可能性もありますが、それならそれでいいと思いました。どうせ少年は死なないのです。襲われても問題はありません。


 足音は少年のすぐ後ろで止まり、少しして背後から手が伸びてきました。半分焦げた椀を持っています。


「飲みなさい。随分泣いたから、水分補給しないと」


 少女の母親の声に、少年はちらりと椀を見ました。その中には水が入っています。言われてみれば喉が渇いていたので、少年は素直に椀を受け取りました。拒否して、少女の母親と言い争う気力がなかったせいもあります。


 水を口に含めば、随分と甘く感じられました。それだけ体が水分を欲しているのでしょう。


 でも、その甘さを少女はもう二度と味わうことはできないのだ、と思えば、喉がふさがるような心地になります。何とか口内の水を飲み下した少年は、それ以上水を飲む気になれず、椀を地面に置きました。


「森で木の実を摘んできたわ。食べなさい」


 少女の母親が手に持った木の実を差し出してきますが、少年は首を振りました。


「そう。じゃあ、ここに置いておくから、食欲がわいた時に食べなさいね」


 少女の母親は木の実を地面に置くと、何か作業をし始めました。魔法で火を起こしたらしく、火の燃える音が聞こえてきました。


 その音を聞きながらぼんやりと少女の顔を見つめていた少年の頭に、ふとある考えが浮かびました。


 魔女はそれぞれ使える魔法が違うのだといいます。少女のようにたった一つの大きな魔法しか使えない魔女もいれば、少女の母親のように小さな魔法をいくつも使える魔女もいるのです。


「おばさん……」


 少年の声はかすれていましたが、少女の母親の耳に届いたようでした。


「何?」


「死んだ人を生き返らせる魔法を使える魔女は、現実にはいないんですか?」


 背後の物音がやみました。火が燃えるパチパチという音だけがその場に響きます。


「……いる、という噂を聞いたことはあるわ」


 その言葉に、少年はさっと背後を振り向きました。あまりに速く動いたため頭がくらっとしましたが、そんなことには構わず、口を開きます。


「じゃあ、その魔女を見つければ、この子を生き返らせることもできるんですね!?」


 少女の母親は、眉を寄せてしばらく火にかけた鍋を見つめていましたが、やがて一つ息を吐いて少年の方を見ました。


「私が聞いたのはあくまで噂よ。そんな途方もない魔法が存在する可能性は、限りなく低いわ」


「でも、この子が僕にかけた不老不死の呪いだって、途方もない魔法でしょう。それが実在するなら、死んだ人を生き返らせる魔法だって、実在してもおかしくないはずです!」


「それは確かにそうだけれど……」


 少女の母親は眉間のしわを一層深くして、少年を見返しました。


「あなたは魔女という存在についてどのくらい知っている?」


 唐突に変わった話題に、少年は戸惑いましたが、素直に訊かれたことに答えました。


「魔法を使えて、使える魔法は人によって様々で、でもみんな赤い目をしている……ということくらいです」


「そう……。なら少し説明させて。魔女は化け物だと言われたり、神様に背く存在だと言われたりするけれど、本当は違うわ。魔女は自然と一つになり、この世の理を守って生きることを使命とするものなの。けれど、死者を生き返らせるのは、この世の理に背くこと。いわば邪法なのよ」


「でも不老不死の呪いは――」


「それもまた、邪法よ。本来ならこの世にあってはならない力。だから、使った者は命を落とすことになるの」


「だけど、使ってはならない魔法なら、なぜ使える人がいるんですか?」


「神が与える試練だと言われているわ。邪法の誘惑に抗って使わずにいることができるか、人を試すために、あえてその力を与えるのだと」


「そんな……力は与えるけど使っちゃいけないなんて、そんなの酷いや……」


「そうかもしれないわね。だけど、一番重要なのはそこではないわ。死人を生き返らせる魔法は不老不死の呪いと同じ邪法。ならば、その代償もおそらく同じだ、ということなのよ」


「……死んだ人を生き返らせる魔法を使った魔女は死ぬ、ということですか?」


「そう。仮に死人を生き返らせる魔法を使える魔女がいたとして、自分の命と引き換えにして見ず知らずの相手を生き返らせてくれるとは思えないわ。だから、結局そんな魔女がいてもいなくても結果は同じよ。――その子を生き返らせることはできない」


 きっぱりと言いきられて、少年はがっくりと肩を落としました。闇の中で一筋の希望の光を見つけたと思ったら、その光はすぐに消えてしまったのです。落胆で全身が重くなったように感じて、少年は地面に突っ伏しました。


 少女の母親が声をかけてきても答える気力がわかず、少女の母親が作ってくれた山菜の煮込み汁にも手をつけず、何時間もただ地面に横たわって少女を見つめていました。


 少女の綺麗な赤い瞳も、はにかんだ愛らしい笑みも、もう二度と見ることはできない。そう考えると、胸が昨夜切り裂かれた時よりも激しく痛みます。


 いっそこのまま死んでしまいたい、少女の後を追いたい、と思うのですが、不老不死になってしまった少年にはそれさえできないのです。どうしようもない絶望に胸を食まれながら、冷たくなった少女の手を握ってただ呼吸だけを繰り返しているうちに、少年はいつしか眠りに落ちていました。


 そして少年が目を覚ました時、周囲は真っ暗でした。もぞもぞと起き上がって背後を見てみると、少し離れた地面で少女の母親が眠っているのが、月明かりでわかります。


 耐えがたい喉の渇きを感じた少年は、地面に置きっぱなしだった椀を持ち上げて、中の水を飲み干しました。それだけでは足りず、少女の母親に貰った木の実と煮込み汁も腹に入れます。


 煮込み汁は調味料が入っていない上に冷たくなっていましたが、それでも空腹の少年にはとてもおいしく感じられました。


(僕は、生きているんだ……。この子が、そう願ったから……)


 少女の亡骸を見つめながら、少年は朝が来るまで考えを巡らせていました。


 太陽が昇ってしばらくすると、少女の母親が目を覚ました気配がして、少年は振り向きました。


「起きていたの? 水と食事は取った?」


「はい、貰いました。おいしかったです。ありがとうございます」


「いいのよ。それより……大事な話があるの」


「……何ですか?」


 少女の母親は、少女の亡骸に視線を向けました。


「その子を埋葬してあげなきゃいけないわ。離れがたいのはわかるけれど、いつまでも放置していたら、腐ってしまうもの」


「そう……ですね」


 少年の返答に、少女の母親は安堵の表情を浮かべました。


「わかってくれて嬉しいわ。それじゃあ、森で山菜や木の実を採ってきて食事を取ったら、お墓を作りましょう」


 少年はうなずきました。


 幸い少女の家の庭の片隅にある納屋は燃えていなかったので、その中に残っていた少女の父親の外套を、少女の母親は少年に譲ってくれました。少年の服はぼろぼろで、ほとんど用をなしていなかったのです。


 食事の後、納屋にしまわれていた道具で、少年と少女の母親は、納屋の隣に穴を掘ることにしました。


 穴を掘っている最中、少年は意を決して口を開きました。


「おばさん、僕、やっぱり死んだ人を生き返らせる魔法を使える魔女を探してみます」


 少女の母親がぴたりと手を止めます。


「それは無意味なことだって、説明したでしょう?」


「憶えています。でも、おばさんだって、確かなことを知っているわけじゃないんでしょう? 死んだ人を生き返らせる魔法の代償が術者の命じゃない可能性だってあるし、何らかの理由でその魔法を使える魔女がこの子を生き返らせることを承諾してくれる可能性だってある」


 少年も手を止めて、少女の母親を見つめました。


「ほんのわずかな可能性でも、賭けてみたいんです。……だって、僕は不老不死になってしまったんでしょう? これから永遠に生きていかなければならないんでしょう? そんなかすかな希望……目標もなくただ生きていくだけなんて、きっと気が狂ってしまいます」


 少女の母親は、少年が口を閉じた後も、長い間少年を見つめていました。そして、長い息を吐きました。


「私が止めても、あなたは行くんでしょうね。……それに、あなたの言うこともわかるわ。人は、ただ生きるためだけに生きていくことはできないもの。永遠の時を生きなければならないあなたから希望を奪うことは、とても残酷なことだと思う。だから、私はあなたを止めないわ」


 でも、と少女の母親は続けました。


「私は魔女の端くれとして、邪法に手を染めることはできない。その魔女としての生き方が、魔女として正しく生きるという誇りが、今の私を生かしてくれているものなの。だから、あなたに協力することもできない。ごめんなさい」


 少年は首を振りました。


「いいんです。ただ、この子を生き返らせる方法を探すことが僕には必要なんだって、わかってもらえれば、それで」


 少女の母親が少女を心底愛しているのを、少年は知っています。少女を生き返らせようとしないからといって、その愛情が少年の少女への愛情に劣るわけではないのです。二人の愛し方や置かれた状況は、違う。ただそれだけのことなのです。


 少年が少女の母親の選択を否定しないように、少女の母親も少年の選択を否定しないでいてくれました。それだけで少年にとっては充分でした。


 言葉にしない少年の思いを感じ取ったかのように、少女の母親はうなずきました。


 二人は作業に戻り、すぐに少女の亡骸を埋めるのに充分な深さの穴ができました。


 少女の亡骸をその穴に入れる前に、少年は、少女の髪を一房切り取りました。以前聞いた物語の中では、死んだ人を生き返らせるためには、その人の体の一部が必要だったのです。それが本当だった時のために、少女の髪を貰っていくことにしたのでした。


 穴の底に横たえた少女の体に土をかけるのは、つらい作業でした。少女の体の一部が土で隠れるたび、少女が遠ざかっていってしまうような気がします。穴の底に飛び下りて少女の体を抱きしめ、永遠に手放さずにいたい、という衝動と必死に戦いながら、少年は手を動かしました。


 少女の埋葬を終え、半球形に盛った土の前に森で見つけた花を供えると、少年と少女の母親はしばらくの間祈りを捧げました。


 そして少年は立ち上がりました。離れがたくてたまらないのですが、ぐずぐず留まっていては、いつまでも旅立てないままになってしまう、と思ったのです。


「おばさんは、これからどうするんですか?」


「もう少しここに留まって、様子を見てみるわ。村を再興できるならまたこの村に住むし、それが無理なら町に行くわ」


「そうですか」


 少年は、すぐに最寄りの町に向かって、探す魔女の情報を集めるつもりでした。なので、少女の母親とはここでお別れです。


「おばさん、元気で。どうか長生きしてください」


「ありがとう。あなたも、死なないからといって、無茶な真似はしないで自分を大事にしてね」


「……はい」


 背を向けかけた少年の名前を、少女の母親が呼びました。少年は、改めて少女の母親に向き直ります。すると、温かい二つの手に顔を包まれました。


「おばさん?」


「これだけは憶えていて。娘は、あなたの幸せを願っていたわ。いいえ、今でも願っているはずよ。だから、あなたが旅の中で幸せを見つけられたら、あの子に罪悪感を感じたりしないで、その幸せを手に入れてちょうだい。あの子を生き返らせるという目標を捨てることになっても、後ろめたく思わないで」


 少女と同じ真っ赤な瞳にも、訴えるような声にも、心からの愛情がこもっていて、少年はぎゅっと心臓をつかまれたような心地になりました。


 もう一人の母親とも呼べるこの人と、ここで別れたら、きっともう二度と会うことはできないでしょう。


 けれど、それでも少年は旅立たなければいけないのです。少女を生き返らせる方法を見つけるためもありますが、不老の体になってしまった少年は一つ所に長く留まることはできないという理由もあります。


「……おばさんも、どうか幸せになってください」


 そう言葉を押し出すと、少年は今度こそ少女の母親に背を向けました。少女の母親ももう少年を引き止めようとはしません。


 少年は前だけを見て、ひたすら足を動かしました。


 何時間も歩き続けて疲れが溜まってきた頃、道の脇に小川が見えました。少年は川の水で喉を潤すと、川原に座って、一息つきました。


 空からは太陽の光が優しく降り注ぎ、川面はきらきらと光っています。耳を澄ませば小鳥の歌声が聞こえます。


 世界は穏やかで美しく、その中に少女がもういないのだということが、未だに少年にはどこか信じられませんでした。


 ここで座って待っていれば、少女が現れて、一緒に木の実や山菜、薬草を採ろう、と誘ってくるのではないか、という思いが頭をよぎります。


 少年は頭を振って、外套のポケットにしまってあった少女の髪の束を取り出しました。

 そして、少女はもう死んだのだと自分に言い聞かせました。あの声に、笑顔に、ぬくもりに、もう一度会う唯一の方法は、少女を生き返らせることです。少年がその方法を見つけられるかどうかに、かかっているのです。


「……誓うよ。僕は君を諦めない。絶対に生き返らせてみせる。この世の理に背いても、たとえ神様に逆らうことになったとしても」


 少女の母親にはああ言われましたが、少年には、少女のいない世界で自分が幸せを見つけられるとは思えませんでした。自分が幸せになるためには、少女を生き返らせるしかない、と思えてならないのです。


(だから僕は、僕のために君を生き返らせる。――たとえ、この命にかえても)


 少年はその想いの全てをこめて、少女の髪に口づけました。


 そして、少女の髪束を大切にポケットにしまい直すと、立ち上がり、旅へと戻っていきました。


 少年が目的を達成し少女との再会を果たせるかどうかは、ただ神様のみが知っています。







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【完結】魔女は愛する幼なじみに呪いをかけ、呪われた少年は旅を始める 皆見由菜美 @minamiyunami

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